前回 【1日目-⑭】

赤坂宿~美江寺宿

 

 

 

 

県道156号曽井中島美江寺大垣線・美江寺宮前町交差点より県道92号岐阜巣南大野線重複区間を東に向かい、五六川に架かる五六橋を渡ります。

 

 

 

この「五六(ごろく)」という名前は、美江寺宿56番目に由来する名称と言われますが、実際は55番目

しかし廣重画『木曽海道六拾九次・みゑじ』落款印は、【五拾六】ってなっていますよね?

 

 

 

あくまで私の希望的観測となるのですが、

木曽海道六拾九次が発行されたのは1835-1837年の約3年間で、記念すべき1作目

英泉画『木曾街道 續ノ壹 日本橋 雪之曙』となります。

 

東海道五拾三次および中山道六拾九次は、ともに始点・江戸日本橋で終点・京都三条大橋となっているのですが、その間の宿場数が53宿および69宿あるわけです。

しかし、英泉画『木曾街道 續ノ壹 日本橋 雪之曙』の落款印には「第壹」とあります。

そして、2作品目英泉画『木曾街道 板橋之驛』には「第二」となっているのです。

 

これは、絵番号として捉えるのであれば、(1)日本橋→(71)三条大橋となるわけです。

絵番号(1)→(11)本庄までは英泉画(12)新町は廣重画(13)倉賀野は英泉画以降ランダムに描かれていきます。

実は(63)が番場と鳥居本と二つあったり、(67)が無かったりなどヒューマンエラーと思われる疑問点はここでは論点としないようにしておきます。

 

ちなみに、

歌川広重 1797年(寛政9年)生まれ

渓斎英泉 1791年(寛政3年)生まれ

英泉のほうが年上だったこともあり、広重も先輩を立ててダメ出ししにくかった背景があるのではないかと考えられます。

 

 

 

左手に旧本田村の高札場跡

現住所瑞穂市本田、江戸時代1670年(寛文10年)幕府直轄本田代官所を設けた場所でした。

 

 

 

中川に架かる中川橋、続いて糸貫川に架かる糸貫橋を渡り、左手本田郵便局を見ながら道なり右カーブを進みます。

 

 

 

一戸建てが立ち並ぶ住宅街を進み、道なり左カーブ天王川(旧柚木川)に架かる慶応橋を渡ると瑞穂市より岐阜市に入り、河渡宿京口となります。

 

 

 

<地図左下>

現在地 岐阜市河渡(天王川付近)

 

 

 

54番目

河渡宿

(岐阜県岐阜市)

三条大橋より116km/日本橋まで422km

 

英泉画『岐阻路ノ驛 河渡 長柄川鵜飼舩』

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※ 画像は、Wikipedia「木曽海道六十九次」より引用。

 

 

長良川西岸土手近くに位置するため、古代より水害が多い宿場であったが、

美濃郡代松下内匠が4年の歳月を経て1813年(文化10年)宿場全体を1.5mほど土盛りした。

2年後、1815年(文化12年)7月「亥の大変」と称される台風による大雨洪水で長良川が決壊したが大きな水害は起こらなかった。

1945年(昭和20年)7月9日岐阜空襲による戦火で大半が焼けてしまい遺構はあまり残っていない。

1843年(天保14年)の「中山道宿村大概帳」によると、

本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠24軒、家数64軒

 

 

 

河渡宿京口付近より宿場の通りを撮影したのですが、少し高台になっているのがおわかりでしょうか?

 

 

 

写真で伝わるかどうかわかりませんが、周りは平面なのに中山道に沿った通りだけ傾斜勾配

1.5m土盛りされているのです。

ブロック塀基礎部の傾斜を見てもらうとわかるかと思います。

 

 

 

宿場内中間点より南側の路地を撮影してみました。

両側の石積み基礎部が2段、3段、4段と傾斜に合わせているのがわかります。

 

 

当時美濃郡代・松下内匠堅徳(まつしたないしのかみかたのり)普請役として江戸幕府に助成金を募り約4年の歳月を経て宿場全体を約1.5m盛土し地上げしたお陰で、1815年(文化12年)6月、大雨洪水による被害を受けずに済みました。

「普請役(ふしんやく)」とは、江戸時代,建築物の築造,土木工事などにあたって徴発された課役。

 

 

河渡一里塚跡(107里)と奥に松下神社

 

 

時代劇や大河ドラマでよく耳にするセリフに「神様、仏様、お代官様」とありますが、この松下神社松下内匠堅徳を神として祀っているのです。

時の人お代官様は神として祀られ、仏様はどこに埋没されたのか調べましたが、ヒットする情報は得られませんでした。

 

 

正面に長良川西岸堤防あたりで河渡宿江戸口となります。

 

 

54番目河渡宿を後にして、1里18町(5.9Km)先の53番目加納宿に向かいます。

 

 

 

次回、

【1日目-⑮】

に続く。