前回 【1日目-⑫】

垂井宿~赤坂宿

 

 

 

 

<地図左下>

現在地 大垣市赤坂町

 

 

 

県道216号赤坂垂井線重複区間を東に杭瀬(くいせ)川に架かる赤坂大橋を渡るのですが、2022年(令和4年)12月より付け替え工事が行われているようで旧赤坂大橋が東岸のみ一部残っている状態でしたので、仮設後本設される新赤坂大橋を渡ります。

 

 

 

美濃路脇往還・大垣道との追分

「左 なかせんどう」「右 おおがきみち」と刻まれた道標

 

 

 

左斜めの中山道を進み、池尻一里塚跡(110里)

 

 

 

南方排水路に架かる白山橋を渡り、県道230号柳瀬赤坂線に合流、菅野川に架かる菅野橋を渡ります。

養老鉄道・北大垣第9号踏切を渡り、道なりに右カーブ、50mほどで道なりに左カーブして進みます。

中沢交差点手前を右折、加納排水路に架かる西浦橋を渡り、東海環状自動車道(C3)の高架橋をくぐります。

 

 

この辺りは、「中仙道七曲り半」と言われるのでくねくねと曲がっています。

 

 

 

東の川に架かる東の川橋を渡り、新規川(曽根排水路)に架かる境橋をを渡ります。

右手に、「中山道三回り半」と刻まれた標柱

ここより京側に三つの曲がりがあったという意味だそうです。

 

 

 

「右 すのまた宿道」「左 木曽路」と刻まれた道標

 

 

 

平野井川に架かる新橋を渡ると、大垣市より安八(あんぱち)郡神戸町(ごうどちょう)に入りました。

 

 

すぐ先、豊後川に架かる小さな橋を渡ると、安八(あんぱち)郡神戸町(ごうどちょう)より瑞穂市に入りました。

この辺りは市境が入り組んでいるようです。

 

 

 

🕓 17:00

出発して 12時間経過

サイコン距離 88.5km

 

少し進むと右手に、1929年(昭和4年)完成した小簾紅園(おずこうえん)

 

 

 

入口付近に「和宮御遺跡」「揖斐川呂久渡船場」と刻まれた石碑が立っています。

 

 

 

中山道六拾九次の旅【1日目】に一番訪れたかった場所で、「公園」とせず「紅園」とした由縁に感嘆を受けたのです。

 

 

 

小簾紅園は日本庭園としてよく整備されています。

 

 

 

「和宮御遺跡」「揖斐川呂久渡船場」二つのテーマに沿ってご紹介したいと思います。

 

 

 

  ①和宮ゆかりの地

 

1861年(文久元年)10月26日、皇女和宮降嫁7日目

朝に美濃赤坂宿を出発した和宮御一行は、大垣藩が用意した御座船に乗り東の対岸にある呂久村の馬渕孫右衛門家にてご休憩されました。

 

 

依仁親王妃 周子(よりひとしんのうひかねこ/岩倉具定第1女子・東伏見宮依仁親王妃)実筆による歌碑。

 

 

 

 

おちてゆく 身と知りながら

もみじ葉の 人なつかしく

こがれこそすれ

 

 

当時16歳であった和宮が詠んだ唄。

 

紅葉しているもみじが落ちていく様子を見て、都(京都)落ちする我が身と比喩しながらも、相手の心に打ち解け尽してゆかねば・・・という心境を詠ったとされています。

 

家柄は違えども薩摩藩より嫁いだ姑・天璋院(篤姫/13代家定の正室)も17歳で江戸入りし、明治維新後も江戸に残ったわけですが、和宮はこの時改めて”生涯の決心”を誓ったのかもしれません。

 

 

 

 

徳川幕府より降嫁の要望があった際、「私は尼になってでも関東の代官のところにはゆかぬ」と固辞、しかし渋々公武合体を承諾して京を経つ前に詠んだのが、

 

 

 

惜しまじな 君と民とのためならば

身は武蔵野の露と消ゆとも

 

 

君主(天皇)と民衆の為ならば、武蔵国(徳川家)ではかなく消えてもかまわない。


 

 

出発して7日間駕篭の中で揺られこの地に辿り着き、落ち葉が落ちていく様子を見てて”生涯の決心”をされた心境の変化に同行警護の方々も涙したことでしょう。

 

 

「徳川十八代御宗家お手植え」と刻まれた石碑の奥には、石柵に囲まれたモミジの木が立ち、夏なのに紅く染まっているのはなぜなんでしょう?

私へのサプライズだったり(笑) 冗談はおいても不思議でした。

 

 

 

 

 

  ②呂久の渡しと揖斐川付け替え

 

ここ小簾紅園入口にある「揖斐川呂久渡船場」と刻まれた石碑。

 

 

 

Googleマップを参考にしてみると、南北に流れる揖斐川と北西方向から流れる平野井川のちょうど中間地点に位置していることがわかります。

どちらの川にも近いと言えば近いかもしれませんが、「渡船場」とは言い難い位置関係。

 

 

紫線は現在の中山道推奨ルートとなるのですが、小簾紅園の江戸側、揖斐川を越えるあたりの歪な進路を辿るのも不思議に思え、この辺りの地形の推移について調べてみました。

 

 

県道156号曽井中島美江寺大垣線に合流し、揖斐川に架かる鷺田橋(さぎたばし)を渡るのですが、鷺田橋はおおよそ50年前の1975年(昭和50年)架橋。

 

 

 

さらに時代を遡り、昭和50年以前はどうだったのか?

1952年(昭和27年)から23年間は、もぐり橋(コンクリート製)という愛称の沈下橋を渡っていたのだそう。

 

 

 

さらにさらに時代を遡ります。

1923年(大正12年)~1950年(昭和25年)旧揖斐川(呂久川)付け替え工事が行われ、当時の呂久川は埋め立てられ暗渠化されました。

これにより「呂久の渡し」は廃止となり、「呂久渡船場」跡地に小簾紅園(昭和4年完成)が整備されたのです。

 

 

 

 

県道261号脛永万石(はぎながまんごく)線より歩道橋を上がり、県道156号曽井中島美江寺大垣線に入ります。

 

 

 

揖斐川に架かる鷺田橋を右側歩道で渡ります。

揖斐川下流域、伊勢湾に流れ出る方向を撮影。

 

 

 

東詰より側道に降りてUターン揖斐川東岸沿いまで戻り、道なり右カーブを北東にのどかな田園地帯を進みます。

 

 

 

左手にサンコーパレットパークという公園があり、東端に今須~落合までの美濃十六宿が刻まれている中柱がある広場があるので少し寄り道。

 

 

 

次に向かう美江寺宿や今日の目的地、加納宿など宿名が刻まれています。

 

 

馬籠宿は現在は岐阜県中津川市となるので、現在は岐阜十七宿なんて言われますが、旧国名の美濃十六宿で制作されたようで馬籠宿はありませんでした。

 

 

 

犀川に架かる朱色の長護寺橋を渡りすぐ右折、犀川に架かる小さな橋を渡ります。

右手に犀川を見ながら進むと一戸建てが立ち並ぶ住宅街に入り、左に千躰寺のある変則丁字路(Y字路?)を右折、犀川に架かる新月橋を渡ります。

 

 

 

右手に、1921年(大正10年)建立、「右 大垣赤坂ニ至ル」「左 大垣墨俣ニ至ル」と刻まれている墨俣道分岐道標

 

 

 

これよりみゑじ(美江寺)宿京口に入ります。

 

 

 

55番目

みゑじ(美江寺)宿

(岐阜県瑞穂市)

三条大橋より112km/日本橋まで426km

 

廣重画『木曽海道六拾九次之内 みゑじ』

undefined

※ 画像は、Wikipedia「木曽海道六十九次」より引用。

 

 

「美江寺」という名は、奈良初期719年(養老3年)に美江寺という寺院の創建に始まるが、斎藤道山により現在の岐阜市美江寺町に移設された。しかし、地名のみ瑞穂市美江寺として残っている。

1843年(天保14年)の「中山道宿村大概帳」によると、

本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠11軒、家数136軒

 

 

 

山本金兵衛本陣(兼問屋場)跡

「瑞穂市指定史跡」とありますが、「瑞穂市」のシールが貼られているので、元は旧地名「本巣郡巣南町」だったと思われます。

 

 

 

正面に、美江神社の鳥居が見えてきました。

 

 

 

美江寺宿の名前の由来となった「美江寺」があった場所。

 

 

 

鳥居右側に高札場跡

 

 

 

当時の分間延絵図を見てみると、街道は90度に折れ曲がり「高札」の文字があるのがわかります。

 

 

 

美江神社入り口横の街道沿いにあったものを、境内に復元された高札場

 

 

 

1567年(永禄10年)信長により建てられた美江寺観音堂を見るのを楽しみにしていましたが、どうやら最近建て直しされたようで新しくなっていました。

 

 

 

北上してきた進路を東に変え、すぐ先の三セク樽見鉄道・美江寺踏切あたりで、美江寺宿江戸口となります。

 

 

 

55番目美江寺宿を後にして、1里7町(4.7Km)先の54番目河渡宿に向かいます。

 

 

次回、

【1日目】-⑭に

続く。