前回 【2日目-②】佐屋宿~神守宿~万場宿~岩塚宿
岩塚宿を後にして、約8km先の宮宿に向かいます。
ゴールまでもう少しです。
特に見どころもなくひたすら東に進みます。名古屋駅にも近づいてきているので、交差点信号が多くなかなか思うように進めません。
近鉄名古屋線・烏森駅(かすもりえき)の高架をくぐります。
中川運河に架かる長良橋を渡り、県道115号津島七宝名古屋線重複区間を進みます。
左手(北側)に名駅ビル群が見えています。
中川福祉会館の前に、「佐屋街道」と刻まれた石碑
名古屋市中川区二女子町(ににょしちょう)より五女子町(ごにょしちょう)を走行します。
「二女子」や「五女子」やらなんとも不思議な地名が続き、関係ないかもしれませんが、
「名古屋女子の結納には莫大なお金が必要」
ということを思い出し、女性優位の街なのでは?と少し調べてみました。
かつて尾張国愛知郡の領主に7人の娘がおり、その娘をそれぞれ嫁がせた場所に「一女子村」から「七女子村」の村名を名付けたのだそう。
ちなみに現存している地名はあるのかと調べてみると、
①「一女子」 見当たらず。
②名古屋市中川区二女子町
③「三女子」 見当たらず。
④名古屋市中川区四女子町
⑤名古屋市中川区五女子町
⑥「六女子」 見当たらず。
⑦「七女子」 見当たらず。
中川運河を挟んで3ヶ所残っていました。
少なくとも、次女・四女・五女は嫁ぎ先でもご近所さんだったようですね。
ちなみに三女子町は、富山県高岡市にあるようですが、互換性があるのかどうかはわかりません。
東海道新幹線の高架をくぐり、名古屋高速4号東海線の高架・尾頭橋交差点の横断歩道あたりに、尾頭橋の歴史についての案内板がありました。
「OTOUBASHI 尾頭橋」、黄/赤の色使いが昭和らしくて好きです。
堀川に架かる尾頭橋(おとうばし)を渡ります。
のちほど堀川に関する歴史にも触れたいと思います。
国道19号・金山新橋南交差点
1821年(文政4年)建立、「左 さや海道 津しま道」「右 宮海道 なこや道」「右 木曽 かこや海道」と刻まれた道標
これより右折(南下)するのが佐屋街道で、左折(北上)すると美濃路となります。
国道19号重複区間を南下します。
広くて大きな都市型の道路なので、まったく歴史街道らしくありませんが、凹凸もなく快適に走ることができます。
左手に熱田神宮の楠の木が生い茂っている通りを南下します。
自動車お祓い所や西門という看板を目にしました。
左手に紙の温度という会社を左斜めに入り、すぐ先右手喫茶店サンを右折すると、国道1号で分断されてしまうので、右折して熱田神宮南歩道橋を渡ります。
分断された延長線上に行くと右手に、伝馬町追分(てんまちょうおいわけ)
1790年(寛政2年)建立、「北 さやつしま 同 みのち」「東 江戸かいとう 北 なこやきそ道」「南 京いせ七里の渡し 是より北あつた御本社貳丁」と刻まれた道標
この伝馬町追分は、東海道×佐屋街道の追分となります。
ここより東に東海道・鳴海宿、南に東海道・熱田湊、北に今進んできた佐屋街道・美濃路と
三方の追分となります。
佐屋街道としては、ここが起点(私にとっては終点)となるのですが、折角なので熱田湊・七里の渡し跡まで行こうと思います。
県道55号名古屋半田線で分断されるので、宮の渡し歩道橋で自転車を押して上り下りしなければなりません。歩道橋の上ったり下ったりが地味にキツイ(◎_◎;)
現在10:30なのですが、ひつまぶしの名店『あつた蓬莱軒本店』では、11:30オープン前にも関わらず炎天下の中、大行列が出来ていました。
先ほど通過した『あつた蓬莱軒神宮前店』でも写真は撮りませんでしたが、同じく大行列でした。
41番目
宮宿『熱田神事』
三条大橋より146.1km/日本橋まで349.4km
※ 画像は、アダチ版画さんより引用。
熱田神宮の門前町であり、七里の渡し、佐屋街道、美濃路と交通の要衝であった宮宿は、東海道五十三次の中で最大の宿場町で、本陣 2、 脇本陣 1、 旅籠 248 とかなり栄えていたことが伺えます。旅籠の軒数が異常なほど多いです。
赤本陣跡 看板のみ
伝馬町追分より東側にある白本陣(東本陣)に対して赤本陣(西本陣)と呼ばれたのだそう。南部新五左衛門家がその役を勤めた。
海岸側に来ると、1896年(明治29年)建立、元高級料亭「魚半」が現存しており、現在は高齢福祉施設として利用されているようです。戦火が激しかった名古屋地区において、現存し続けているとはものすごい強運を持っているのかもしれません。
時刻 10:35
サイコン距離 40.4km
公称距離 38km
本日【2日目】のゴール地点、七里の渡し・熱田湊に到着しました。
初代常夜燈は、1625年(寛永2年)建立、その後風害で破損したため2代目は1654(承応3年)建立されたが戦争で焼失してしまい、1955年(昭和30年)建立された3代目となっています。
後ろに見える時の鐘(鐘楼)は、1676年(延宝4年)熱田神宮南門前の蔵福寺に設置され正確な時刻を知らせる重要な役割を果たした宮宿のシンボルだったのを、1983年(昭和58年)オリジナルをリメイクしてこの公園に新たに設置されたのだそうです。
つまり、江戸時代には蔵福寺にあってこの熱田湊にはなかった光景であるといえます。
宮の渡し公園として綺麗に整備されています。
徳川将軍が宿泊できる東浜御殿があったのがこの辺りなのでしょう。
船着場先端部は、ほぼ江戸時代と同じ場所だったようです。
現在向こう岸は埋め立てられた風景になっていますが、当時は伊勢湾が広がっていたのでしょう。
古代この湾岸を年魚市潟(あゆちがた)と呼んでおり、その「あゆち」より「愛知県」の県名由来になったそうで、愛知県発祥の地でもあります。
すぐ横には現代の船着場があります。
今でも年数回、桒名湊までのクルージング企画が開催されているようです。
さて、東海道脇往還・佐屋街道を走破し、少し足を伸ばして七里の渡し・熱田湊までやってきました。
時刻はまだ10:40と早い時間ではありますが、今日の予定はここまでとして、これより熱田神宮に参拝に行こうと思います。
佐屋街道×東海道・伝馬町追分よりすぐ北に上がったところに熱田神宮・南門(正門)一の鳥居があります。
かなり広大な面積、色々巡っていると時間がかかりそうなので、まずは拝殿に向かうことにします。
駐輪場に自転車をおいて、神社独特のマイナスイオン全開の境内を歩きます。
神聖な場所ってなぜにこのようなスピリチュアルなオーラを感じるものなんでしょう。
境内ほぼ中央に、神明造りの二の鳥居。
一の鳥居もシンプルでしたが、二の鳥居もいたってシンプルな木造造り。
祈念式典の関係かどうかはわかりませんが、
「神話と歴史でたどる熱田神宮千九百年の歴史」というレジメられたボードが設置されていました。
弥生時代12代景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)は三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を今の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれた。それを御妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)が、紀元後113年ここ熱田神宮にお祀りになられたのが始まりだそう。
安土桃山時代には、織田信長が必勝戦勝祈願に必ず訪れたのが地元・熱田神宮。
今川義元との決戦・桶狭間の戦い(1560年)の前にも訪れたのだそう。
南門よりゆっくりと歩いて拝殿までやってきました。
境内は微量に勾配があるようで、拝殿奥の本殿が最も高いところに鎮座されているのだと感じます。
名古屋コーチンの品種で良いのかな?勉強不足でよくわかりませんが、
熱田神宮といえばニワトリのイメージがあります。
東海道脇往還・佐屋街道を走破して、最後に熱田神宮に参拝をしたのですが、自転車旅ならではの地形による歴史を感じることができました。
あくまでなんの根拠もなく想像だけで感じたことを最後に書きたいと思います。
まずは、
大阪・上町台地北端に建つ大坂城と南端に位置する四天王寺。
名古屋・熱田台地北端に建つ名古屋城と南端に位置する熱田神宮。
縮尺サイズは違えども、対比しやすいように地図を並べてみると非常によく似た配置であると思います。
上町台地の北端、古代難波津が置かれた地に近世大坂城が築城されました。
当時の大坂城の西側は海、北側は淀川、東側は河内湖と三方に囲まれた外濠、正面の真田門からしか攻めてこれないような構造です。
それに対して、名古屋城の西より熱田湊にかけて堀川という人工の河川がひかれていて、この堀川が熱田台地の勾配の場所に流れるように施工したようで、水運による城下町の発展と軍事外堀の役目の一石二鳥を狙ったものだそう。
佐屋宿は木曽三川近くにある元宿場町だったので海抜は低いと思います。
佐屋より名古屋市内に向けて自転車で進んできたのですが、写真は撮影していませんが、『海抜〇m』という看板の数値が徐々に上がっていることに気付きました。
金山町の道標を北上するのが美濃路でその先に名古屋城があり、堀川と佐屋街道は並走するように熱田神宮に向かいます。
なんだかこの大阪城と名古屋城における寺社の融合、歴史と地理が生み出す共通点に秘密があるように思います。
また勉強して、ブログネタになりそうだったらご紹介できればと思います。
【2日目】
四日市宿 4:45出発
↓
桒名湊(桒名宿) 6:10到着
桒名湊(桒名宿) 6:30出発
↓
熱田湊(宮宿) 10:35到着
所要時間 5時間50分
サイコン距離 57.1km
サイコン稼働時間 3時間58分
次回、
【3日目】に
続く。