前回 【前編】桒名宿~前ヶ須湊~川平湊~佐屋宿
地図左、現在地 愛西市内佐屋町
県道458号一宮弥富線重複区間を北上すると右手に、
「佐屋海道址」と刻まれた石碑が建っています。
「街道」ではなく「海道」となっています。
すぐ先、内佐屋交差点を右折、名鉄津島尾西線・佐屋11号踏切を渡っていると、真っ赤な車両の名鉄・弥富行きがやってきました。
スカーレットレッドの名鉄電車を見ると、名古屋地区にいることを改めて実感します。
善太川支流に架かる下河田橋を渡ってすぐ左折、600mほど進みY字路を右斜めに進みます。
しばらくすると愛西市より津島市に入りました。
右手に大きな津島市民病院を見ながら北上します。
左手に東海自動車サービスの整備屋さんを越え右折(東向)すると、真ん中にガードレールがあるなんとも不思議な道路になります。
100mほど進んで行くと、なんだか痛々しい光景が目に飛び込んできます。
1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で倒れて台石のみになってしまった鳥居跡
江戸時代、尾張国の地方紙『尾張名所図会』のカラーデジタル版にこの鳥居と常夜燈が描かれているのです。
※ 画像は、尾張名所図会さんのHPより引用。
「右 つしま天王みち」 「左 さやみち」 「あつた なごや道」と刻まれた道標
埋田追分(佐屋街道×津島街道)
津島神社の一の鳥居でこの先西には津島街道となります。
先の丁字路を左折して右折、県道68号名古屋津島線重複区間を進みます。
善太川にかかる小さな橋を渡り、北新開交差点三叉路を左斜め、
日光川に架かる日光橋を渡りると、神守宿に入ります。
神守の宿場跡碑 遺構はこれのみ
神守宿を後にして、約7km先の万場宿に向かいます。
神守町下町交差点を左折して、県道68号名古屋津島線重複区間を進みます。
津島市よりあま市に入りました。
「あま市」は、「旧海部郡(あまぐん)」より市町村合併し市制化したのですが、「海部」と書いて「あま」と読む難読地名であります。
蟹江川に架かる下田橋を渡り進んで行くと左手に、
1895年(明治28年)建立、「七宝焼原産地 寶村ノ内遠島」「従是六町」と刻まれた道標。
上部には「shippoyakitosima」とローマ字を刻んでいる道標はかなり珍しい。
七宝小学校北東交差点を渡り、県道139号須成七宝稲沢線重複区間に入ります。
小切戸川に架かる秋竹西橋を渡り、福田川に架かる秋竹橋を渡ると、あま市より大治町に入りました。
西條交差点三叉路を右斜め、県道117号西条中川線重複区間を100mほど先狐海道東交差点を右折して南下していくと、大治町より名古屋市中川区に入りました。
名古屋第二環状道(名二環)・稲屋交差点を渡り、道なりに進んで行き、左にカーブしながら進み、新川に架かる砂子橋を渡ります。
先の三叉路を右折、名古屋高速5号万場線の高架・万場交差点を渡り、左斜めに進むと
万場宿に入ります。
本陣 1、脇本陣 0、旅籠 10
山門に「臥龍山」と金字で書かれた額が掲げられている光園寺(こうえんじ)
境内左には超巨大な石灯籠。
左の乗用車と対比していただくといかに巨大かがわかるかと思います。
どことなく歴史街道らしさが感じられる通りに出てきました。
この先、庄内川の堤防にあたりますので、万場宿はこのあたりまでとなります。
県道115号津島七宝名古屋線に合流して、そのまま庄内川に架かる巨大な万場大橋を南側歩道で渡ります。
対岸に隣接しているのが岩塚宿となるのですが、月の前半15日は岩塚宿、後半15日は万場宿が宿役を分担するふたつで1宿としての機能であったそうです。
しかも、庄内川(旧万場川)には『万場渡し』舟を運航していて、,尾張名所図会の浮世絵にも描かれています。
万場川舟渡『尾張名所図会』 巻7
※ 画像は、Wikipedia「佐屋街道」より引用。
万場大橋東交差点の横断歩道を渡り、歩道橋で下ります。
下りてすぐ右折(南下)して、少し進むと、万場渡しの対岸あたり佐屋街道に戻れます。
名古屋市中村区岩塚町に入り、岩塚宿であった地域を東に真っすぐ進むのですが、まったく歴史街道らしさは伺えません。ただ自転車では走りやすい道路でした。
次回、
佐屋街道【後編】
に続く。