ミニベロで行く!
伊勢本街道・上街道(天理市~桜井市)
江戸時代後期 天理教教祖誕生殿
古墳時代前期 黒塚古墳
と巡りました。
時代背景はまったく異なれど、伊勢本街道・上街道沿いの様々な歴史を知ることができました。
黒塚古墳を後にして、しばらく南下していくと、市境を越え桜井市に入って行きました。
大神神社(おおみわじんじゃ)や三輪恵比須神社など有名観光地がありますが、今回は立ち寄りませんでした。
1841年(天保12年)建立、「左 はせ いせ、右 ミは なら」と刻まれた道標が見えてきました。
伊勢本街道・上街道は、奈良市猿沢池を起点に南北に繋がる歴史街道ですが、この道標より進路は東に向き、伊勢本街道・初瀬街道と名を変えます。
西には、難波宮(なにわのみや)に繋がる横大路にも接続する交通の要衝でありました。
※ 画像は、松原市役所HPより引用。
陸路においても交通の要衝とわかる地理関係、さらに水路においては大和川を下り難波津(なにわつ)に繋がる重要な拠点であったのです。
日本最古の市場
海柘榴市(つばいち)
海(つ)柘(ば)榴(い)市(ち)
こんな難読地名誰が読めるのでしょう?
桜井市・三輪山の南側に位置する海柘榴市は、日本書記や万葉集にも表れる地名で、大和朝廷の栄えた場所であると言われています。
古墳時代後期、中国「魏」より難波津から入港し、終着港であった海柘榴市。
海無し県の奈良に港があったことすら不思議な感覚です。
大和川に架かる馬井出橋。
下流側(大阪方面)
上流側(長谷寺方面)
河岸に、恐らく等身大であろう飾騎(かざりうま)の石像がありました。
飛鳥時代608年(推古天皇16年)、遣隋使・小野妹子が出入国したのも、この海柘榴市。
中国『隋書』によれば、同年608年、中国「隋」からの使者・裴世清(はいせいせい)が来日したのもこの海柘榴市で、推古天皇は飾騎(かざりうま)を75頭並べて盛大に歓迎したのだそう。
なんて古代ロマンあふれる地なのでしょう。
目を閉じれば、自分自身がタイムマシーンに乗って当時の海柘榴市で裴世清先生をお出迎えしている情景が浮かんできます。
河岸の広場には、10頭のミニサイズ飾騎の遊具?が並んでいて、当時を彷彿させる粋な計らいを感じました。
実は、この海柘榴市は、飛鳥時代よりも前の古墳時代より栄えていたのだそう。
「仏教伝来之地」石碑
日本書紀によると、古墳時代後期552年(欽明天皇13年)朝鮮・百済の26代聖明王の使者が、海柘榴市にやってきて、29代欽明天皇に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとしている。
それをもって日本に仏教が伝来した地は、海柘榴市とされているのだそうです。
遣隋使といえば日本より隋への使者であったことは言うまでもありませんが、それよりも早くに百済から使者が来日していたことは初耳でした。
丸木舟に乗って、対馬海流の激しい玄界灘を越え、倭の国に到着したのですから、古代の大航海であったに違いありません。
そういえば、596年(推古天皇4年)日本最古の寺である飛鳥寺が創建されたわけですが、その時も百済より多くの技術者が呼ばれた、この海柘榴市を終着港としたのだと思われます。
ここより飛鳥寺は、おおよそ5kmほど離れています。
海柘榴市を後にして向かったのは、再興され二期海柘榴市があった海柘榴市観音堂。
二期とは??
平安時代(延長4年)、長谷寺山が崩れて大和川(初瀬川)が大決壊したことにより、先ほどのご紹介した一期海柘榴市は壊滅してしまったのだそう。。。
Googleマップで見てみると、
「仏教伝来之地碑」と「海柘榴市跡」が離れていることに気付き調べてみると、自然災害が起きていたことがわかりました。
平安時代に入り、都も平安京に遷都されていたことを考えると、メイン水路も淀川に変わっていたことでしょう。
古墳・飛鳥時代に栄えた日本最古の市場海柘榴市も栄枯盛衰、もう平安期には錆びれていたのではないかと推測します。
海柘榴市観音堂
右側が十一面観音立像、左側が聖観音菩薩立像
連子格子戸であまりよく見えないのですが、ポストのようなお賽銭投入口にスマホを突っ込み撮影しました(笑)
一期海柘榴市跡も二期海柘榴市跡にもなんの遺構も残っていませんでしたが、
飛鳥奈良時代の上ツ道(江戸時代より上街道と改称)と横大路が交差し、難波津に繋がる大和川が流れる地形、そして万葉集や日本書記に納められた趣旨から想像できるだけでも古代の歴史に触れられたと思います。