30年ぶりに宮崎県の大地を踏みました!
 
高校1年の夏、全行程15泊16日 奈良県を出発し瀬戸内海側を進み、九州は時計回りに一周した『西日本横断九州一周自転車旅行』の最終目的地が宮崎県だったのです。
 

今回は仕事で来たので、とんぼ返りでこれより帰路に向かいますが、前日夜の最低気温2℃(国道19号沿い木曽町で計測)より、朝の時点ですでに気温21℃の宮崎県えびの市を訪れると温暖差に唖然としてしまいます。1300kmも離れているとこれほどまでに気温が違うもんなんですね(◎_◎;)

 

 

えびの市市役所のHPを読んでいると、

平仮名地名の「えびの市」を漢字表現だと、「海老野市ではなく、「葡萄野市」なのだそうです。

「ぶどう」を漢字変換すると当然「葡萄」が出てきますが、「えびの」を漢字変換すると「葡萄」とは出てきません。

 

 

Wikipediaによると、

 

1966年(昭和41年)飯野町・加久藤町・真幸町が対等合併し、えびの町が発足。

1970年(昭和45年)えびの町が市制施行でえびの市となる。

 

由来は、霧島山の横にある韓国岳の裾野に広がるえびの高原が、秋になるとエビ色に染まるということで、「えびの」らしいですが、それだったら尚更「海老野」で良くないですか!?

謎です(◎_◎;)

 

 

しかも、市章はブドウ色の紫って!?

ファイル:Flag of Ebino Miyazaki.JPG - Wikipedia

※ 画像は、えびの市市役所HPより引用。

 

 

 

 

 

熊本県最南部、宮崎県南西部および鹿児島県北西部を流れ東シナ海に注ぐ川内川(せんだいがわ)

私は前職紙業界に従事ていたので、中越パルプ工業川内工場の社名より、川内(せんだい)という地名を知っていましたが、『川内』って漢字は簡単だけど難読地名ですね。

 

 

 

その川内川沿いにある「道の駅えびの」にて、この地の観光地を探るべくトイレ休憩を兼ねて立ち寄りました。

 

 

 

道の駅えびの

宮崎県えびの市永山1006-1

営業時間: 9:00~18:00

※レストランは、11:00~18:00

定休日: 毎月第3火曜日(祝日の場合は翌日)

 

 

 

入口には、宮崎牛のブロンズ像?がお出迎えしてくれました。

恐らく実寸大かな?

 

 

 

そして、戦国時代薩摩藩の武将・島津義弘のブロンズ像。

なぜに薩摩藩の武将が、宮崎県日向藩の由縁があるのか?と調べてみると、

鹿児島県日置市で出生されたが、29歳~55歳までの26年間を宮崎県えびの市で過ごされたのだそうです。

 

 

 

地図を見るとわかるのですが、えびの市は宮崎県西部に位置して北に熊本県、南西に鹿児島県と三県境に近い場所となります。

 

 

焼酎で有名な霧島酒造㈱って、鹿児島県霧島市が発祥なのだとばかり思っていましたが、実は宮崎県都城市に本社を構える酒造メーカーなんですよね。

 

 

 

三県境は、山の中のようで道路は繋がっていないようです。。。

三県境好きにとって、下の地図は萌えます(*^▽^*)

 

 

 

道の駅えびのにて、近隣の観光地を探そうと思います。

普段遠方に訪れる際は、往路のルート情報と帰路観光情報を事前にWeb調査をするのですが、今回はそんな余裕もなかったので、道の駅で情報を入手したいと思います。

 

 

帰路は、国道221号で八代市を経由して熊本県を下道で縦断して、久留米市より斜めに国道200号、322号で280km先の新門司港が今日のゴール地点なので、まだまだ先は長いですしなるべく帰路ルートに沿い国道221号に近い観光地と選んだのが、

 

 

加久藤城跡(かくとうじょうあと)

 

 

えびの市小田1224

 

ナビと道の駅でいただいたマップを元に、農村集落に入って行きました。

途中で、豆剥きの作業をされていた老婆の方に

 

 

私 「城跡はどこにあるのですか?」

 

老婆「¢£%#&□△◆■!? けん」

 

 

語尾の「~けん」だけ聞き取れましたが、前半がわかりません(-_-;)

九州も南に行けば行くほど方言がイントネーションも独特で上手く聞き取れません。

 

そういえば高校1年の自転車旅行の最終日前夜に、相方の親戚の家でBBQをしていただいたのですが、その際もなかなか会話が困難だった記憶があります。

 

恐らく私の顔の「?マーク」を察知されたようで、ご親切に身振り手振りのジェスチャーでルートを教えてくれました。

途中までは車で行けるけど、そこからかなり歩かないといけないというようなことは理解できました。

 

 

 

桝形や鍵形の路地をどんどん奥地に進んで行きます。かなり道幅は狭く、当然対抗困難です。

 

 

 

比高53mほどの独立した丘陵上、城の周囲が断崖となっている要害の城と言われると案内マップに書かれていたように、途中で路駐して激坂を徒歩にて加久藤城跡を目指します。

気温も高く、体温も上昇、すでに背中には汗が滲んできているのがわかります(;^_^A

こんな遠くまで来て、山を上る私っていったい何者?変人!?

 

 

 

ようやく案内板が表れました。

 

 

構造は平山城応永年間(1394年~1428年)北原氏が、真幸院小田村の山に「久藤城(ひさふじじょう)」として築き徳満城の支城とした。

1562年(永禄5年)島津氏の所有となり、島津義弘によりお大規模な改修工事を行い新城を再築城した。

 

あ~なるほど!道の駅えびので見た島津義弘はこの加久藤城がお住まいだったのね♪

 

肥後藩、薩摩藩、日向藩の国境でもある、現在のえびの市に築城していた理由がなんとなくわかるような気がしました。やはり現地に訪れると百聞は一見に如かずです。

 

 

 

山頂付近まで上ってくると、二之丸付近に鳥居が建っていました。

 

 

 

ダブルネーム?加久藤城竈門神社

 

 

 

右カーブの参道の先には、拝殿?本殿?が鎮座されておりました。

 

 

 

お賽銭箱の前には、事務机・・・ 

これってバチ当たらない!? 意図しておいているのか??

 

 

 

土塁もなんとなくわかります。

 

 

 

案内図では、本丸はこの辺りかな?

 

 

絶壁に立つ平山城ということで、隅っこに行ってみたかったけど、藪が多くなかなか足を踏み入れるのが困難でした。。。

道の駅の案内マップに記載されているわりには、あまり整備されてないようで、ちょっと嫌な気配も感じました。

 

帰ったら大島てる調べてみようっと(笑)

 

↓  ↓  ↓

 

早速、嫌な気配について調べてみましたが、まったく事故物件はヒットしなかったのですが、歴史背景を探って行くと、

 

「南九州の関ヶ原の戦い」と比喩される木崎原の合戦跡だったようです・・・

 

島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果たし、一方、伊東氏は追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦がこの地で行われていたようです。