前回 【1日目-⑭】

美江寺宿~河渡宿

 

 

 

 

<地図左下>

現在地 岐阜市河渡(長良川付近)

 

 

 

長良川西岸堤防からかつての「河渡の渡し」長良川に架かる河渡橋で渡るのですが、西岸を約2km北上したところに現代でも舟渡しを実体験できるところがあるというので行ってみることに。

 

 

県道163号黒俣合渡岐阜線を渡り、階段を上って長良川サイクリングロード(長良川西岸堤防)を北上します。

少しして県道92号岐阜巣南大野線河渡橋で寸断されてしまうので、左斜め県道163号黒俣合渡岐阜線に入り、河渡橋を潜りすぐ右の土手に上がると長良川サイクリングロードに戻れます。

 

伊自良川(いじらがわ)に架かる寺田橋を渡り、寺田橋東詰を右折、「自動車・原付進入禁止」の一方通行に入ります。

左に長良川、右に伊自良川の背割提、奥には河渡橋が見えます。

 

 

 

左手にゴルフ打ちっぱなし練習場を見ながら、長良川西岸堤防を進んで行くと、左手に「小紅(おべに)の渡し」のプレハブ事務所に到着。

 

 

 

 

 

強風休航!??

 

 

 

事務所の中にいらっしゃった船頭さん?にお話を伺ったのですが、風速5m/s以上になると休航になるのだそうです・・・(´;ω;`)

 

江戸時代長良川の川幅は、定水で幅90m、出水時には270mにもなり、出水七合目190mで川止めになり渡し舟の出航を止めたのだそうですが、現在の長良川の渡しである「小紅(おべに)の渡し」に乗船することは今回叶いませんでした。。。

 

 

 

 

「小紅の渡し」とは

 

中山道は幕府公認の「河渡(ごうど)の渡し」渡し舟に乗船するのが表街道なのですが、「小紅(おべに)の渡し」は裏街道として主に地域住民の商業目的として活用されていたルートだそうで、1653年(承応2年)『加納領明細絵図』に描かれているそうです。

1692年(元禄5年)には「小紅の渡し」という名も確認されており、名の由来として有力なのは、お紅という名の女船頭がいたからとされています。

 

一日市場(ひといちば)湊鏡島湊を結ぶ「小紅の渡し」は、県道173号文殊茶屋新田線になっていて、岐阜県庁より委託された小紅渡船船頭組合が運営して、なんと乗船料は無料!で自転車も乗船できるのです。

 

 

 

 

 

現在の「小紅の渡し」に使用されている渡し舟は、YAMAHAエンジン搭載FRPボート。

天候不順で乗船できなかったのは非常に残念ですが、また機会があったら乗ってみたいものです。

 

 

 

北東方向、岐阜城を要する金華山が見えます。

 

 

 

対岸の長良川東岸は、岐阜市鏡島

江戸時代には鏡島湊があったのでしょう。

 

 

 

仕方がないので気を取り直して、次の宿場・加納宿に向けて来た道を戻ることにします。

 

長良川サイクリングロード(西岸)を通り、長良川(旧長柄川)に架かる河渡橋が見えてきました。

 

 

 

🕕 18:00

出発して13時間経過

サイコン距離 103.2km

 

 

河渡橋ほぼ中間地点で「これより岐阜中署管内」と書かれた看板。

今までは岐阜西だったのでしょうか?まぁ、どっちでもよいことですが。

 

 

河渡東交差点を左折、県道173号文殊茶屋新田線重複区間を東に向かいます。

論田川に架かる追分橋を渡り、左手論田川に並走します。

 

 

県道77号岐阜環状線・鏡島大橋南交差点の信号を渡り、県道92号岐阜巣南大野線・鹿島町8西交差点を渡ると、正面にJR東海道本線のガードを潜り、清本町(せいほんまち)2交差点を左折します。

 

 

 

100mほどで右斜めに入ります。

すぐ近くに岐阜一の歓楽街・金津園があるとは思えない。

 

 

県道151号岐阜羽島線・加納本町9交差点を渡ると、加納宿京口に入ります。

 

 

 

 

53番目

加納宿

(岐阜県岐阜市)

三条大橋より122km/日本橋まで416km

 

廣重画『木曽海道六拾九次之内 加納』

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※ 画像は、Wikipedia「木曽海道六十九次」より引用。

 

 

皇女和宮降嫁7泊目(1861年10月26日)

浪士隊(近藤勇・土方歳三・沖田総司)12泊目

中山道中城下町(岐阜城・加納城)にある唯一の宿場町。岐阜県の名付けは織田信長で、古代中国の周にあった山」と孔子が生まれた「曲という地名より一字づつ取ったのだそう。

1945年(昭和20年)7月9日岐阜空襲による戦火で遺構はあまり残っていない。

1843年(天保14年)の「中山道宿村大概帳」によると、

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、家数805軒

 

 

 

西番所跡

宿内の治安維持のため、旅人は検問を受けなくてはなりませんでした。

 

 

 

左手に秋葉神社

この先にも秋葉神社がいくつもあって、全部で四社くらいあったと思います。

火防の神様である「秋葉大権現」を祀っていることが意味するのは、当然火災が多かった歴史に由来すると考えられます。

 

 

 

カラーアスファルトを東に進みます。

 

 

 

森家脇本陣跡

1754年(延淳2年)より歴代森孫作が務めた。

 

 

 

松波藤佐衛門家本陣跡

和宮降嫁7泊目宿泊地、現在は一般宅の玄関口に石碑と歌碑が建てられていました。

 

 

 

こちらの本陣にご宿泊された際に詠まれた和宮歌碑

 

 

 

 

遠ざかる 

都としれば

旅衣

一夜の宿も

立うかりけり

 

 

「立(たと)うかりけり」という意味がわからなかったので調べましたところ、「非常に落ち着かないことだ」とのことだそうです。

 

 

遠ざかる京都を思えば旅の一夜の宿も非常に落ち着かないことだ

 

こんな古文訳でよろしいでしょうか?

 

 

当分本陣跡

あれ!?1843年(天保14年)の「中山道宿村大概帳」には本陣1軒となっており、先ほど和宮が宿泊した松波藤佐衛門家本陣跡があったはず。調べてみると和宮降嫁以降幕末期において中山道の往来が活発になり宿泊場所が足りなくなったことで、加納宿の有力者宮田家を「当分」の間本陣とした臨時の本陣があった跡のようです。

 

 

 

加納城大手門跡

ここより南400mに加納城があります。

 

 

 

これより加納宿江戸口側は6つの桝形で曲がりくねっているようで、間違えないように進みます。

 

大手門跡左折(❶)

清水川に架かる広井橋を渡り、左手に太田薬局の交差点を右折(❷)、「自動車・原付進入禁止」の一方通行を逆走するように進むと、市道?の交差点を横断、「自動車・原付進入禁止」の一方通行を逆走して右手に善徳寺を見ながら左折(❸)、

 

 

 

東番所跡 右折(❹)

 

 

 

正面に1885年(明治18年)建立、「右 岐阜 谷汲」「左 西京」と刻まれた道標を右折(❺)、

 

 

 

右手に和菓子「だんごや」左折(❻)で桝形6曲がりが終わり、ようやく進路は東に向きます。

 

 

 

風景はもちろん変わっていても現代において江戸時代の桝形を残しているのは貴重な遺構と言えます。

 

 

 

名鉄名古屋本線・茶所(ちゃじょ)駅

北側の隣駅・加納駅とは400mしか離れておらず、しかも都市部にありながら高架されず平面区間の茶所1号踏切は、「開かずの踏切」と聞いていましたが、やはり遮断機が下りていました。1時間の間に40分以上遮断機が下りているのだそうです。

 

 

 

遮断機が下りているときの楽しみといえば撮り鉄ですよね(笑)

2200系特急電車が岐阜駅方面に向かって行きました。

 

 

🕢 18:40

出発して 13時間40分経過

サイコン稼働 7時間47分

サイコン距離 109.6km

 

 

53番目加納宿を後にして、4里10町(16.8Km)先の52番目鵜沼宿に向かうのですが、【1日目】の行程はここまで。

 

草津宿早朝5:00に出発し、午前中は晴れ間が多く気温上昇しましたが、午後より曇り空が広がりそのまま日没となったので真夏のサイクリングとはいえ比較的活動しやすい気候でした。

この後、木賃宿(素泊まり安宿)に投宿しすぐ大浴場で一日の疲れを癒させていただきました。

 

 

 

次回、

【2日目-①】

続く。