数日前北島三郎を中心に歌謡ショウがあり彼の弟子や彼を尊敬する歌手などでました。 北島は86歳で最近長く立っていられなくなったのかずっと真ん中に置いた安楽椅子に座っていました。 このショウの最後に友人の里見浩太郎が出て3曲歌いました。 最後は水戸黄門の主題歌で2曲目は新作なのか男の人生を歌ったとてもいい歌でした。 この二人の友情の始まりは何十年か前北島が初めて時代物に出演して京都の東映の撮影所にいったとき歌手としては大スターでも時代物の俳優としては新人、それに引きかえすでに里見浩太朗は時代物の大ターで一部屋を持っていました。 彼は北島に自分の部屋を提供したそうです。 以来彼たちは友人になりました。 この二人は同じ86歳で2ケ月違うだけですが北島は老いが全身に表れていますが里見は水戸黄門の現役で体も鍛えているのか声も顔も若々しかった。 これはDNAの違いなのか個人差なのでしょう。 私はもう2ケ月で88歳になります。 80代まで生きるとは思ってもみませんでした。 家内は88歳で彼女も頑丈ではなく父親が55歳、母親が49歳でいずれもガンで亡くなりました。 彼女は若い時60を超えては生きられないと思っていたそうです。 その二人が90歳に近づいているのですから人生なんて分からないものです。

暮れになると歌謡ショウが毎晩のように各テレビ局で普通より長くやります。 昨日はこまどり姉妹がでました。 彼女らはザ.ピーナッツと同じ時期にやはり人気がありました。 彼女らは私の記憶が正しければ旅芸人の両親のもとに小さい時から苦労して育って波に乗りました。 しかしいつまで人気が続くはずはありません。 また全国を流れる芸人に身を落として我々の目からは消えました。 しかしここ数年再びテレビに出るようになりました。 テレビから消えた何十年かの苦労は顔に刻まれていました。 彼女らは今85歳顔には深い皺が刻まれています。 歌の質は落ちても我々に何らかの感動を与えます。 それは厳しい人生を歩んで85歳というとうに引退しても不思議じゃない年齢でも続けている根性というかすごさです。 日本画家小倉遊亀が90代でボケましたが100歳で再開しました。 その執念と通じます。 演歌歌手など50年人気を維持している歌手は今まで気にも留めなかったのが急にやはりすごいと思います。 大月みや子など気にも留めませんでしたが今はすごいと思います。 50年は半端な年月ではありません。 この頃は演歌でも歌謡曲でも歌詞をよく味わいます。 昨日倍賞千恵子が歌謡協会特別賞を授与され3曲歌った中に「死んだ男の残した唄は」だいたいこんな意味のタイトルの歌を歌いました。 とても素敵な歌でした。 加藤登紀子だけでなく倍賞千恵子も人間に対する抵抗の強い歌い手であることがわかりました。 「寅さん」シリーズはもう20年も前に終わりましたので今の倍賞と比較するのは場違いですが寅さんの妹さくらと今の倍賞は全く別人の気がしました。 今から25年前に銀座の画廊がメゾチント100点完成を記念して画集を出してくれるからそれに挿入する私の写真を送れというので当時同じアパルトマンに住んでいたラオス人写真家に頼みました。 彼は食うや食わずで全身の血液のミネラル分不足でぶっ倒れて入院しても健康保険がなく我々が住むパリ4区の区役所から臨時の健康保険所を出してもらうほどの暮らしでしたがパリ国立図書館の写真部門のギャラリーで180点3ケ月の回顧展やってもらえるほどの写真家です。 彼に我ポースわが家で7,8種のポーズで撮ってもらいました。 その写真は私がつねづね思っている顔でなく初めてみる私でした。 彼はToruはフォトジェニック(写真写りがいい)いいました。 すごくハンサムに写ってました。 結果その素敵な写真は冬に撮ったので画集は9月に刊行するので東京のつまんない写真家が私が10年ぶりで東京に着いて画廊に着いたとき待ち構えるように2,3枚撮ったのを使ったので高座に上がった落語の師匠のような肖像で私は満足ではありませんでした。

話はいつものように脇道にそれましたが何事も50年やらないと結論は出ないということです。 私は一人の人間が才能があるとかないとか言う前にまず10年か20年黙ってやってみることとです。 アーチスト、職人になるには才能は普通でいいです。 工夫を凝らして頑張ればなんとか平均まではいきます。 一生懸命やれば平均値まではいきます。 人間、運鈍根があればなんとかなります。 私が浜口先生に比べたら運がないと思っていましたが一般からみたら平均よりは運がある方です。 今はそう思います。 歌手も天性の美声でなくともプロの歌手にいくらでもなれます。 早急に自分を決めないことです。 しかし現在は社会の方向がテンポと変革が速く社会に余裕がないので若者が人生でやる仕事を決めるのには不利です。 若者が2,3年遊んでも社会に復帰できるような糊代が必要です。 私の人生を振り返ってつくづくラッキーだったと感謝します。 我が人生に悔い無しです。

この1週間両腕手指がだるくてよく動きません。朝起きるのがきつく朝食をとるにも疲れとったあとはもっと疲れすぐ3階屋根裏に上がる元気がなく30分ぐらい休んでやっと3階に上がる有様で自然と瞼が下がります。筋無力症にでもなったのかあるいはもう死が迫っているのかとも考えます。とにかく全身のだるさが並ではありません。家内に寝ていたらといわれ喧嘩になりました。たとえ死んでも展覧会の準備はしなければならない。お前みたいに消極的なら乞食にもなれない。俺が今まで引っ張ってきたから生きてきたのだと。家内は私が寝ているときも人間関係や新しい対策を考えているのは全く分かっていません。自由業は不自由業でもあります。自分で動かないことには1円も入りません。私がもし人とコンタクトを取らなかったら良い仕事をしても生活はできなかったでしょう。私はアウトサイダー的生活を守りながら最低社会とのコミュニケーションをとってきました。その人たちに支援されて50年の作家生活が維持できました。1977年ごろ録音したカセットにすでにパリでのフランス人その他の外人との付き合いが大変(食事に招びつ招ばれつ)で仕事にも影響があると感じてフランスと日本を半々に行き来すればその煩わしさが避けられると吹き込んであります。その位外人との付き合いが心労だったのです。そのお蔭で家内が追い込まれたときも手を差し伸べてもらいました。外人の友人たちにどれだけ世話になったか知れません。そういう煩わしさを乗り越えて今日があります。今は引退してコミュニケーションがすごく楽しみです。何もやることないのでブログ書きと友人とのコミュニケーションしか楽しみがありません。その他友人が話にきて3時間ぶっ通話して私は殆ど昼食を食べずに話すこともあります。私は人が来たらたとえすき焼きでも殆ど食べません。話してばかりいます。普段話したいことが溜まっているものとみえます。日本に完全に引き上げたのが2005年ですから19年になります。その間お金がないので一度もフランスを訪ねたことはありません。家族のようなルーシーが南仏のちょっと上のアキテイヌ地方に2,000ヘーベの庭に大きな高床式の一階の家を買って20年くらいになりますが一度訪ねたかったですが金が無いのとこの体では無理でしょう。彼女も81歳でちと弱り始めていて7人の甥姪に遺産の分与など考えています。彼女は実に寛大な人間で兄が死んでその奥さん、義姉を夏のバカンスに丸々1ケ月招待したり、帰化したキャッフェの老夫婦の旦那が死んだときもその奥さんの面倒を旦那と二人してよくみました。ルーシーの夫が亡くなってもう10年にはなります。ルーシーはこの頃月に一度は電話をよこします。今までは新年、二人の誕生日と用事があったときぐらいでしたがこの頃は私たちが心配でよこしてくれます。電話代が安くなったせいもあるでしょう。我々は338,00人の地方都市に住んでいますが特に不自由は感じません。文化的な刺激はありませんがそれは先刻承知です。屋根裏は無国籍地帯で私にとっては世界の中心です「俺はここで踏ん張って世界を睨み対峙している」という自覚で生きています。テレビは刻刻と世界の情勢を伝えてくれ良い時代になったと思います。1970年代は日本の情報は手紙と旅行者がくれる週刊誌と新聞ぐらいでした。その時代に比べたら月とスッポンの差があります。そのうちもっと自動翻訳機のレベルが上がったら世界の情報や外人の友人の考えていることなど今よりももっと深くわかるでしょう。世界は一つの村に向かって収斂することは間違いありません。人類が再び一つになるでしょう。あと200年はかかるでしょう。それはAIやテクノロジーの発達が文明をリードするでしょう。自動翻訳機の進化もすごく我々日本人は語学が不得意ですがそのハンデイはテクノロジーで克服できるでしょう。私のブログは毎回只で英語に自動翻訳されていますがまだまだ読むに堪えられません、あと5年ぐらいしたら世界に共鳴者が出てくるでしょう。私は絶対に焦りません。天は既に私の残りの人生の結末をご存知です。焦ってどうなるものではありません。私がわからないだけです。もうわが人生に全く心配はしていません。顔の皮膚がんで目玉を取るようになっても最後まで生き切ります。

今日も燦さんと太陽が降り注いで気分がいいです。新しいパソコンも慣れてきましたが作品のwebsiteの経歴、3つの評論その他移転されてないのでイタリア人の専門家に前の資料を完全に全部移してもらわねばなりません。クリスマスイヴに県立美術館の主任学芸員がくることになっていてその時websiteが不完全だと困ります。来年県美術館は開館40周年を迎え5,6,7月と本県出身のアーチスト50人の展覧会があり珍しく私が選ばれました。フランスを引き上げて故郷に居を定めて24年初めてのことです。私は専門外の大学をでて100パーセント独学で油絵、銅版画を学び公募展、グループなどにも属さずひたすら孤立無援でフランスで30年帰国して24年東京と地方で24年のうち10回ぐらい個展をしただけでしたから世の中に知られるチャンスはかなり低いです。それは分かっていても生き方は変えたくないので結局引退まできました。完全にメゾチントを止めて8年くらいになります。メゾチントの4版刷りなど頭の中で色分解がうまくできなくなりました。脳の老化というか劣化を身に染みて感じました。また黄斑前膜で手術をしその後眼内レンズが外れたりして強い乱視になって両眼のバランスが極端で製版の仕事がやりにくくなったのも止めた理由です。メゾチント専門だけで55年くらいやりました。普通のサラリーマンは40年で退職そして10年多くの人は70くらいで完全に引退しますから一生病気を抱えて生きてきた割には78歳まで現役でやってきましたのでまあまあと自分では満足しています。これからは遊びでドライポイントでピエロの小品とスケッチ、ドロウイングをやります。一時字が書けませんでしたが今は70パーセント戻ってきたので嬉しいです。まだ銅板にルウレットを刷り込む力が戻ってこないのが残念です。しかし辛抱強くやっていれば戻ると思います。来年は新しパソコンと明視距離40cmの眼鏡を誂えましたし屋根裏もヘルパーさんに手伝ってもらって整理するつもりなので再出発の年になりそうです。そしてブルックリンの画廊で能シリーズ37点の個展もできると期待しています。わが人生で二度ほどビッグチャンスがありましたが直前でみな駄目になりました。人生最後の最後一回くらいチャンスが手の平に乗ってもいいでしょう。しかしよくもここまで諦めないで落胆せずこれたものだと天晴れと思います。これは私がアートをやるのは天の栄光のためで変化の激しい人間のためではないと常に自分に言い聞かせていたせいなのです。だからチャンスがすり抜けても平気でいられたのです。今だって何も無くて棺桶に入ってもどうちゅうってことありません。あの世に行って阿弥陀さまに褒めてもらいます。