後期印象派の画家3人ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌについて私がアーチストを志す直接のきっかけをつくったのは何回も書きましたように大学5年の後半に間口半間の小さな古本屋の店頭に山下清を育てた精神科医、式場龍三郎が訳したゴッホが弟テオに送った改造文庫だったから出した書簡集全7,8冊のうち5冊だったか山積みになっていて1冊が5円ぐらいでした。当時盛りそばが15円、場末のコーヒーが30円、名画座がやはり30円ぐらいでしたから5冊全部で25円くらいで買いました。大学も2年から3年に進級できなく結局5年かかって卒業期にさしかかってもやりたいことが見つからずにうずうずしていました。そこへこの本との出会い私はゴッホのような純粋な人間がこの世に存在することに驚嘆し感動しました。当時武蔵野美大油科4年の学生にひかれていて彼女はスランプでかなり落ち込んでいて彼女の落ち込みをいくらかでも分けたいと思っていました。それでできたばかりの東京デザインスクールの2期生として入学しました。なぜデザインかというと絵では食えないということ長姉が画家を志して食えなかったので画家になることは論外でした。せめてアートに近いデザインをやろうとしたわけです。その学校には芸大や美大に入るための石膏デッサンと裸婦クロッキーの教室があり芸大大学院の私と同年の学生が指導にあたっていました。私はすぐ裸婦デッサンに魅了されましたが金が無く彼に頼んで裸婦クロッキーの暖房、椅子を並べるなど準備をして只でやらせてもらいました。裸婦に夢中になって絵のほうにのめり込んでいき私は都会的なセンスが無くデザインには向かないことがすぐ分かりました。同時期お袋から授業料がもう送ってこないことが告げられ都落ちして実家に戻ります。画家になるといったら両親がメシだけは食わせるから画材と小遣いは稼げとOKがでました。すぐ近所の親たちから中学生に英語と数学だか教えてくれと言われ12,3人教えはじめました。家は広いので14,5畳の昔父親が46歳で僻地の校長を配偶者に相談無しに辞めて家中パニックなったことがあり父親がすぐ文房具店を開業しましたが校長の悪い癖で子供を叱りつけ1年で誰も来なくなり店仕舞いその部屋がそれで私はそこをアトリエ兼寝室兼勉強部屋にして長兄が種苗店を開くまで使ってました。独学で11年、結婚して5年後軌道に乗った児童絵画塾と英語塾を突然やめて3ケ月の準備で交通公社の「ルック」というツアーの片道切符でシベリア経由でパリに向かいました。話はまた横道に逸れました。この3人の後期印象派の画家の中で一番ゴッホの人間性を理解したつもりです。次はセザンヌで彼に関しては岩波文庫の「回想のセザンヌ」という画家で評論家のエミール.ベルナールが書いた小冊子を10回くらい読みました。今でも「自然は球体、円筒、円錐形でとらえねばならない。そして空間に青を混ぜ深みを出さねばならない。セザンヌは近代化を嫌い信心深く日曜のミサには午前中は必ず糖尿で疲れないときは夕方のミサにも出て教会の入口にいる貧乏人には毎回金を与えました。そして絵を描きながら死にたいと言っていました。彼は野外で制作中驟雨に当たって気を失っていたところ御者に助けられその3日後自宅で亡くなりました。62,3歳だったと思います。父親は最初帽子屋で儲けそれから銀行を開きセザンヌが一生絵を描き息子と妻がパリ近郊で生活できる資産を残し父親を語るとき涙ぐんだそうです。最後のゴーギャンについては全くといってよいほど彼については知りません。中年まで株式取引所で働いていて自分も日曜画家でセザンヌなど絵のコレクションを沢山持っていましたが病高じて仕事を辞めプロになりデンマーク人だったかスエーデン人だったかの奥さんを実家に帰しブルターニュで制作したり土地の女房たちに手を出して亭主たちに殴られたりしついにフランスを離れタヒチやマルチニックに移住し土地の人間をモデルに彼らの神話を題材に壮大な人間の楽園や人間の苦しみや神秘を描いたというぐらいです。ゴッホの家は代々牧師で精神病の家系です。彼も若い時牧師を目指しイギリスの炭鉱街で地べたに寝て信仰を広めようとしましたが教区から追い出されたとあります。彼の相貌をみるとやはり異常に感じたことでしょう。セザンヌはいかにも頑固じじいで近所づきあいもせず家政婦をやとって午前中はアトリエで静物画、天気の良い時は午後風景を描きました「サント.ヴィクトワール山」など。彼の庭師が娘を裸婦のモデルにと申し出たときこの歳で若い女を裸にして評判になったらと断って沐浴図を描いたときは若い時パリで美術学校受験のために描いた昔の裸婦デッサンを利用していました。この二人に比べるとゴーギャンは清濁併せのむ大人物または怪物のようです。アルルでゴッホと一緒に暮らし制作を共にし議論するとことごとく意見が対立しゴッホの精神病の発症も時間の問題、ゴッホにいつ何時背後から刺されないという状況でゴーギャンは仕込み杖をもっていました。そしてついに発狂し耳を切り落とし娼婦に封筒に入れてもっていきます。ゴーギャンはパリに逃げ帰ります。ゴッホは僧院が経営するサン.レミー.ド.プロヴァンスの精神病院に1年以上入院します。私は1973年だったかドーデーの風車などと訪ねたことがあります。後期印象派の3人私は独学でセザンヌの影響のもとに始めました。ゴッホは人間の純粋さを学びましたが絵画に関する影響は殆どありません。ゴーギャンしかりです。後私が影響受けたのはルドン、クレー、シャガール、ピカソの青の時代、ホアン.ミロ、ルオー、ヴォルス、ルネッサンス以前のキリスト美術などです。日本人画家では岸田劉生、村上華岳、長谷川等伯、俵屋宗達が好きです。私は好き嫌いで人生来ました。論理的になろうとしますが最後の土壇場で感性というか感というかで物事がひっくり返ります。感でしか動けない人間です。今はそれでいいと思います。

私の卒業した高校は県で一番古く芥川賞作家が3人います。日本には芥川受賞作家3人いる高校は全国で東京に1ケ所と私の高校だけなそうです。あと有名人としては文学評論家として名をはせ30代で結核で死んだ高山樗牛がいます。また日本ではあまり知られていない昭和23年にアメリカで亡くなった世界的な日本の法制史の研究家でイエール大学の名誉教授であった朝河寛一はアメリカと日本が戦争しないようルーズベルトに手紙を送って天皇に彼から親書を送るように下書きまで送り日米戦争を極力回避する努力をしました。大戦中も彼はイエール大学で教鞭をとり他の日本人教師など行動の自由が制約されたなか彼だけは自由に米国内を動けたと言われます。昭和23年亡くなったとき横須賀軍港に停泊中のアメリカの空母では彼の死を悼み半旗を掲げたそうです。それにくらべ朝日新聞など2,3行だったそうです。彼は日本が中国に侵攻し始めたごろ「日本の禍機」?という本を出し日本に警告を発しています。アジアで初めてノーベル賞をもらったインドのタゴールも東大で第一回の講演の時は日本を称賛しましたが中国に侵攻してから第二回の講演では厳しく批判しています。2.26、5.15あたりから軍部の暴走を止められなくなり日伊独の三国同盟を結び敗戦になります。国家が無理な戦争をすれば婦女子、次いで若者が犠牲になります。敗戦直後に流行った「星の流れに身を占って」は敗戦で満州から引き揚げて母と妹の消息もなく日々生きるために体をひさいで生きざるを得ませんでした。この女性が新聞に投稿した記事をもとに作詞をし作曲してできたのがこの傑作です。「岸壁の母」も傑作ですが私は「星の流れに身を占って」はもっと歌われなければならない歌と常に思っています。話はいつも横道にそれますが日本人はもっと歴史を頭に刻んで誤りを繰り返さない国民的コンセンサスを自覚していなければならないと思います。私は日本民族は確かに優秀でも浅はかな国民と思います。それは群れの行動が染みついて脇をきょろきょろ見て自分で個として真剣に自問自答する訓練ができていないと思います。自分自身で思考し結論を出す苦しみを持続していくところに本当の人類の進歩につながると思います。脇を見て行動の基準にしていたら本当の批判も生まれてきません。私には政治がめちゃくちゃで国民も政治に関心がなくこのままいったら日本という国がどうなっていくか心配です。徳川家康が天下を取ったおかげで日本が平和になったことは確かですが三河の田舎侍が日本という国を支配するためにした陰湿なやりかた特にその徹底したタテ社会は今もって日本人のDNAにしみこんでいます。この染み込んだ人間のタテ的不具合を意識し忍耐をもって「人間とは何か」を根本に据え日本民族を輝かしくしていかなくてはと願っています。話は母校の三人の芥川受賞作家に戻りますが一人は名も忘れましたが受賞したのが敗戦の年かその前年でその後傑作を生めず校歌の歌詞を書いて食べていたようです。次は時代小説家の中山義秀その次は私より20歳も若い玄侑宗久です。私は小説を読まないのでどんな作家かわかりませんが高校生のとき講堂に集まれというのでいったら中山義秀が少し酒臭い感じで臨時の講演がありました。印象に残ったのは彼の一番好きな作品は「篝火」と言ったことです。その後も彼の作品は一作も読んでいません。玄侑宗久しかりです。でも三人の芥川作家を輩出したことはやはり自慢です。アーチスト方面では全く居ません。私はこれから東北に期待しています。白河の関以北すなわち東北は「一山十文」と蔑まれてきました。戊辰戦争で会津藩は徹底的に潰され津軽の荒れ地に追いやられ餓死した武士もいます。しかし会津武士は武士の鏡といえます。自信をもって薩長の横暴に「否」を唱えても遅くはありません。これから世界を、人間を蘇らせるには「至誠」が「キー」となるでしょう。今日はアメリカ人の50年来の仏文の元教授とその日本人パートナーがチョコレートと二人の下着を送ってくれました。有難いことです。今年の後半は病に苦しみましたがよい年の瀬と良い新年を迎えられそうです。

 

 

今日も3階屋根裏の南向きの窓からは燦さんと陽光が差し込んで気分がいいです。しかし外hは何も見えません。梱包用のポチポチのプラスチックをカーテンにしてあるからです。室温は27℃です。何をするにも最高ですが両腕がかったるくてうまくパソコンが打てません。筋無力症にでもなっているのかも知れません。私は自分で作った厚いタオル地で腰巻を作って20年くらい寒くなると締めます。腎臓を冷やさないように心掛けています。腰を温めると気持ちがいいです。その腰巻の長い頑丈な紐をきつく縛れません。それほどに腕の力が無くなってきつつあります。今では家内より握力が弱いです。でも毎日「にぎにぎ」して握力を維持しています。私の小人の友人も死ぬ2,3年前から握力がゼロになりました。10年前ころまでは腕は異常に強かったのですが、最後のころ握力がゼロになってびっくりしました。最後の最後は肛門ガンになり喉と胃に穴を開けられ言葉も喋れないで亡くなりました。あれから7,8年になります。年取るってこうなって死んでいくのだとしみじみ思います。

ここ10年若者のお寺離れすなわち墓じまいする人が激増していて私の独身の80歳の友人も樹木葬に決めて金も払ったようなこと言ってました。海への散骨も場所によってできるようです。私も原則どこに埋められても死後誰も参らなくても何とも思いません。死後の世界はあった方が楽しみが増えいいです。やはり友人や家族に再会できるのはいいです。