この1週間両腕手指がだるくてよく動きません。朝起きるのがきつく朝食をとるにも疲れとったあとはもっと疲れすぐ3階屋根裏に上がる元気がなく30分ぐらい休んでやっと3階に上がる有様で自然と瞼が下がります。筋無力症にでもなったのかあるいはもう死が迫っているのかとも考えます。とにかく全身のだるさが並ではありません。家内に寝ていたらといわれ喧嘩になりました。たとえ死んでも展覧会の準備はしなければならない。お前みたいに消極的なら乞食にもなれない。俺が今まで引っ張ってきたから生きてきたのだと。家内は私が寝ているときも人間関係や新しい対策を考えているのは全く分かっていません。自由業は不自由業でもあります。自分で動かないことには1円も入りません。私がもし人とコンタクトを取らなかったら良い仕事をしても生活はできなかったでしょう。私はアウトサイダー的生活を守りながら最低社会とのコミュニケーションをとってきました。その人たちに支援されて50年の作家生活が維持できました。1977年ごろ録音したカセットにすでにパリでのフランス人その他の外人との付き合いが大変(食事に招びつ招ばれつ)で仕事にも影響があると感じてフランスと日本を半々に行き来すればその煩わしさが避けられると吹き込んであります。その位外人との付き合いが心労だったのです。そのお蔭で家内が追い込まれたときも手を差し伸べてもらいました。外人の友人たちにどれだけ世話になったか知れません。そういう煩わしさを乗り越えて今日があります。今は引退してコミュニケーションがすごく楽しみです。何もやることないのでブログ書きと友人とのコミュニケーションしか楽しみがありません。その他友人が話にきて3時間ぶっ通話して私は殆ど昼食を食べずに話すこともあります。私は人が来たらたとえすき焼きでも殆ど食べません。話してばかりいます。普段話したいことが溜まっているものとみえます。日本に完全に引き上げたのが2005年ですから19年になります。その間お金がないので一度もフランスを訪ねたことはありません。家族のようなルーシーが南仏のちょっと上のアキテイヌ地方に2,000ヘーベの庭に大きな高床式の一階の家を買って20年くらいになりますが一度訪ねたかったですが金が無いのとこの体では無理でしょう。彼女も81歳でちと弱り始めていて7人の甥姪に遺産の分与など考えています。彼女は実に寛大な人間で兄が死んでその奥さん、義姉を夏のバカンスに丸々1ケ月招待したり、帰化したキャッフェの老夫婦の旦那が死んだときもその奥さんの面倒を旦那と二人してよくみました。ルーシーの夫が亡くなってもう10年にはなります。ルーシーはこの頃月に一度は電話をよこします。今までは新年、二人の誕生日と用事があったときぐらいでしたがこの頃は私たちが心配でよこしてくれます。電話代が安くなったせいもあるでしょう。我々は338,00人の地方都市に住んでいますが特に不自由は感じません。文化的な刺激はありませんがそれは先刻承知です。屋根裏は無国籍地帯で私にとっては世界の中心です「俺はここで踏ん張って世界を睨み対峙している」という自覚で生きています。テレビは刻刻と世界の情勢を伝えてくれ良い時代になったと思います。1970年代は日本の情報は手紙と旅行者がくれる週刊誌と新聞ぐらいでした。その時代に比べたら月とスッポンの差があります。そのうちもっと自動翻訳機のレベルが上がったら世界の情報や外人の友人の考えていることなど今よりももっと深くわかるでしょう。世界は一つの村に向かって収斂することは間違いありません。人類が再び一つになるでしょう。あと200年はかかるでしょう。それはAIやテクノロジーの発達が文明をリードするでしょう。自動翻訳機の進化もすごく我々日本人は語学が不得意ですがそのハンデイはテクノロジーで克服できるでしょう。私のブログは毎回只で英語に自動翻訳されていますがまだまだ読むに堪えられません、あと5年ぐらいしたら世界に共鳴者が出てくるでしょう。私は絶対に焦りません。天は既に私の残りの人生の結末をご存知です。焦ってどうなるものではありません。私がわからないだけです。もうわが人生に全く心配はしていません。顔の皮膚がんで目玉を取るようになっても最後まで生き切ります。