舐めてはいないシリーズは2026年3月25日から始まり、35まで伸びました。それでいったい何を舐めてはいないなのか、第一回の内容は太田光代と藤井セイラらの反戦感に対するもので
イラストレーターが「考え抜いて」反戦デモに参加したという漫画に、全然考えていないもっと考えたら、戦争をしている国に言えと、多くの標準的な批判が寄せられ、また、絵師がNOWARと連帯して世界中から戦争が無くなりますようにとしたイラストを描いたのにも、薄っぺらいと指摘されて、イラストを削除したことに対する反応だと考えられますが、この反戦いうて何が悪いの両者にも、この投稿をいいねとする万単位の反応もあれば
突如、反戦にお目覚めになった著名声優、絵師などのクリエーターに引き寄せられたオタクによる反戦デモではなく、組織的な煽動に引き寄せられた著名声優、絵師などのクリエーターに引き寄せられたオタクによる反戦デモという表現の方が正しいでしょう、というのは反原発デモに安保法制デモと時とおなじく「NO WAR 外交の力で平和つくる」「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」「総がかり行動実行委員会」市民連合と野党の共同アクションと共産党のHPに書かれていて、「総がかり行動実行委員会」「SEALDS」「ママの会」「学者の会」これらに立憲民主党、日本共産党、社民党、れいわ新選組の野党が共同アクション深くかかわっている与党(敵)を追い込むために政治運動であり、今回も自然発生したものではなく、意図的にターゲットを絞り、ロシア革命にも使われたアジビラはロシア革命のアジトプロップ(agitpropアジテーション煽動プロパガンダ誘導)であり共産主義が100年以上も前に使った古い手法のものでもあり、結果は戦争よりも死人をゴロゴロ出した悲惨なものというのは、フランス革命とその後も一緒、ろくなものにならないという歴史があるのにもかかわらず煽動に影響を受ける人がいるようで、例えばこれが在特会のような団体であればヘイト団体とマスメディアから特集まで組まれて総攻撃を受け、政治が動き、法律まで作られるという形になるけど、戦争よりも死人を出した活動には同じイデオロギーを持つマスメディアによる都合の悪い所の透明化、無害化が図られ逆に意義のある市民による与党討伐運動として扱われるというものであり、これもフランス革命と同じメディアの活躍が裏にあった、こうした革命的、進歩的を標榜する人間を昔はオルティガに大衆と呼ばれ、ルボンからは群衆、チェスタトンからは「狂人とは理性を失った人ではなく、理性だけを残して他のすべてを失った人と呼ばれ、ウェーバーからは心情倫理と呼ばれて、社会を危険な方向に引きずり込もうとするが、被害者ズラしメディアと野党政治家が味方に付くので、その危険性が見えにくくなっている、発言内容と行動は稚拙だが、在特会のような逆の勢力を簡単に葬れるように稚拙な内容で社会をひっくり返すことができる「力」を舐めてはいないとしている。
とりわけ昨今のようにスピノザの自由の概念ではない方の「自由」というものが広がり未来を考えない少子化や倭人のような顔に刺青を入れる人間も現れている、私はこの状況を心理上「弱くなった」という見方をしていて、そうした心情的に弱い時代は、上記に挙げた稚拙な煽動の影響を受ける人間が増える可能性があり(バブル崩壊後の日本)、大変、憂慮しているが、ウェーバーから政治家とそれを選ぶ人たちは心情倫理ではなく責任倫理をもちと指摘されているのも、無責任かつ他責な人間なので最悪の状況になるまでやり続けるのであろう。これは適当に書いているのではなく、ロシアによるウクライナ侵攻が始めりブチャの悲劇を目の当たりにし、西側と呼ばれる自由を謳歌している国の人たちの動揺は、日本でも岸田元総理がトマホーク400発や経戦、反撃敵地攻撃能力を改正した時に無風で可決され「透明化」と揶揄されていることに現れているように、ブチャの悲劇という現実を前にするとたちまち動揺し、いつもの言動は鳴りを潜める、安倍安保法制、高市政権での反戦というのは与党倒閣の一環に使われているのであり反戦という理念はある意味ではフェイクなのである。私が以前に書いたようにミサイルが飛んできて仲間や自身らの子供の体がバラバラになり、自身の腕も吹っ飛んだ状況でも腕を探しなら反戦と唱えているならガンジーのサティヤーグラハのような暴力と臆病をどちらかを選ばなければならないなら暴力をお勧めするとしたように、どうなろうとも貫けれるなら真の理念と言えるだろうが、動揺し本音を見せてしまった。本音を見せるでいえば、立憲の岡田の10年安保法制の集団的自衛権に違憲の部分があると理念にして政治活動をしてきたのに中道に合流します、与党になる可能性があることから合憲でと同じように、そんなものは理念ではない。その程度の戦術でしかない活動により多くの人間を悪夢に引きずり込もうとするのは、結果に対し無責任だからできる行為なのである。そんなものが被害者ズラしマスメディアと野党政治家が味方に付くので意義にあるものに変えられ弱った日本人の心情に問いかけている、変わればその先にユートピアがあると。
ウクライナ侵攻から4年が経過し、イラン戦争も収まってはいないが、時間の経過と慣れが出てきたのでしょう、これは動揺が無くなったのではなく再度、現実が見えなくなっている認知的不協和音によって鳴りを潜めていたものが都合よく顔を出してきている。認知的?ブチャの悲劇という現実に恐怖を覚えたけど、与党倒閣の一環もしたい、これまでも大丈夫だったし、もしいざとなっても石破とか野党が何とかしてくれるだろうという希望が現実の恐怖を消した表れがあれなので、反戦を反政権を掲げながらハマスのパレスチナに支援を表明し国民をデモをしたことで虐殺したイランに親和性を口にしながら与党倒閣に使用している。
認知的不協和音(希望的観測)に対して私は「弱くなった」として懸念を持っている、その真意とは、次回に続く
