日本人の関係していないボクシングの話題がYAHOOのTOPページに掲載されていて、その珍しさから覗いてみましたのでメモしておきます。本文内容はというとテオフィモ・ロペスがディエゴ・マグダレノにKO勝ちしたけれどもレフリーが試合を止めるのが遅い(セコンドも悪い)、ロペスの勝利した後の振る舞い(ダンス)がけしからんと~が言っていたというのもで、~は海外のボクシングサイトやトップランクのツイッターに寄せられたコメントのようです。
ボクシングについての最大の問題はリング禍ですからストップが遅かったというのが問題視されるのは悪いことではありません、一方でそのように主張しながらレフリーが試合を早く止めると早過ぎるのはおかしいといったり、アウトボクシングなどつまらない試合をしている、と同じ口で文句を言う人もいまして、その矛盾に気がついているのかは私の知るところではございませんが、お気持ちに察してばかりいると日和見主義的になるようです。それに対し、こんなものは野蛮人のするどうしようもないものだから(医学的にも問題があると指摘されている)廃止しろと主張するボクシング廃止論者、こちらの方が余程、筋を通していると言えるのでしょう。
「正しい」ことをキリッといえば、それはカッコイイでしょうし気持ちもいいでしょう。それに媒体さんは「問題」が養分でしょうから国内外問わず手柄を上げるのには、こうした正しいものに飛びつきたくなる気持ちも理解できないわけではありませんが、私はこうした正しいものを使うときには慎重になってしまう。それはまわりまわって、その正しさがこちらにも牙をむくかもしれなく矛盾撞着になるのをなるべく回避したいという狡猾さから来ています。だから私はこうした一見、正しいものを使うときには注意深く考察して、その正体は何なのかと考えたりします。例えば今回の「波紋」の正体を考えると、本文の見出しからもわかりますが「衝撃KOシーン後の振る舞いに広がる波紋 」レフリーが試合を止めるのが遅れた惨劇にもかかわらず勝者であるロペスが斟酌しなかった(見ている人のお気持ちを汲み取らなかった)というもので、それは儀礼的無関心的なものを怠ったという事になります。それを考えると確かにたとえ演技であってもマグダレノに対して深く一礼をして気のきいたコメントでも発していれば好評を博したのでしょうから(批判者に対して)お気持ちを汲まなかった空気を読まなかったというのは、その意味においては手落ちだったのかもしれない、一方、共同社会の成り立ちには儀礼的無関心が有効ということは、その通りですが、逆にお気持ちを汲み取っていても良い人や賢いというぐらいのもので、それ以外の意味は持たないような気がします(社会は善意だけで成り立っているわけではありませんから)。この件には敬意 リスペクト スポーツマンシップと鳥肌が立つほど正しさを表すパワーワードが羅列していましたが、私はいくら正しいパワーワードを使っても格闘技に内在する暴力性がなくなることはないので、このパワーワードは付加価値を付けるためのものや暴力性にベールをまとわせるための欺瞞ではないかと考えてしまう。体罰も、いくら本人の為にや礼儀正しいという理屈があっても暴力性が消えるわけではないでしょう。(これについても一律ではなく体罰が悪いという正しさというのは理解している一方で居場所ということに焦点を当てると、出来の悪いのが、その傲慢さがあることで居場所ができているのであればと複雑な思いもある。もちろん体罰がなくても居場所か確保できるのならそれが最適ですが、指導者からすれば競争という観念を無くすか、出来の悪いのは最初から排除するのが最善になるでしょうから)ただ座禅の警策(格闘技と同じく業務に対する正当行為に当たるらしいけど)をみるに集中力の向上の為の警策 というのが妥当だと認識されているとするなら礼儀正しいは確かにベールにはなるのでしょう。ここで大事なのは自由意志であると思いますが、自由意志が大事なら気に食わなかったという理由で相手の自由意志を曲げるのもどうなんだろうと・・・・だから儀礼的無関心は良い人や賢いというぐらいで留めていて普遍的かつ絶対的な正しさとは考えてはいません。
この場合の回り回っては、すでに示唆しているように正しさを標榜する媒体やコメントの人たちのお気持ちを害する行為は波紋だとするとボクシングが存在すること自体に嫌悪を抱いている人たちのお気持ちはどうするのか?ボクシングに嫌悪を抱いている人たちの殆どは初めから観ていないから無関心でしょうが、廃止論者は存在そのものに嫌悪感を抱いている人もいる。さらに正しさで言うと廃止論者は日和見主義的とは違い暴力性(健康的にも)はけしからんから廃止しろと筋が通っていて、こちらの正しさの方がより強固だと私は連想するのでお気持ちを害するを盾にした正しさの追求は危うい主張になってしまう。礼儀正しいのは結構なのですが、いくらそれを盾にしても気に食わない人からみれば礼儀正しくても嫌悪の直接理由である暴力性は消えていないのですから。
それからお気持ちを察するについていえば例えば私の立ち位置から、この試合の非情さを追求すればマグダレノも数年前は期待されていた時期もあってローマンマルチネスに勝利していればやスーパーフェザー級で別のチャンスがあったなら、また違った人生があったかもしれない。勝てば再度、チャンスも巡ってくるのでしょうけど今や若手の登竜門的な扱いになっていて、結果は惨敗、大変、非情な世界だと感じていますが、私が感じているマグダレノに対する悲壮感はあくまで私が勝手にマグダレノに対して感じている想像の中の話であってマグダレノが実際に感じているものなのかはわからない。若手を食ってやろうと意気盛んでいて惨敗もたまたまと開き直っているかもしれないのと同じようにマグダレノに対する同情心から感情移入してロペスの振る舞いにけしからんとなっている「正しさを標榜する媒体やコメントの人たち」のものも想像力を膨らませた産物で、ちょっと例えは古いですが同情するなら金をくれと思っていたかもしれないと、実際は違うかもしれない。そうした「正しさを標榜する」デリケートな人達は選手のキラーエイプ的な内心を知ってしまうと卒倒してしまうかもしれない。
そしてロペスも「正しさを標榜する媒体やコメントの人たち」のお気持ちは汲み取らなかったかもしれないが別の人のお気持ちは汲んでいると考えられ、彼は自分を#1求めている人たちに向けて後方宙返りやダンスを使った表現で勝利を自己顕示した、どういうことかというと、人は、それぞれ何かを演じているドラマツルギーだということで、私は前にこれをペルソナと表現していますがロペスもボクサーロペスを演じていて、選手は正義の味方にしろ敵役にしろなにかしらに従い演じている。何かしらの一つに考えられるのは勝者敗者の(えげつない)非情な対照を観ている人は求めていて非情な結末は、それが具現化していると言えるでしょう。また、「一方でそう主張しながらレフリーが試合を早く止めると早過ぎるのはおかしい」というのがあるようにレフリーストップが遅いのは、そうした意向が影響しているのかもしれない。つまりレフリーも何かに従ってレフリーを演じているのであって、そこには観ている人の意向がある。マグダレノはフラナガンとのライト級タイトルマッチでも結構、被弾していて危ないシーンもあり勝利したフラナガンもダンスとまではいかなかったけどイギリスの自国ファンに向けて勝利の喜びを体で表して観客も大喜びとフラナガンは自分を求めている人たちの要求に見事に答えていましたが、今回と同じように波紋はあったのでしょうか?だからああいうのが酷いというのも結構なのですが、それはボクシング界隈の要請が影響をあたえておりリング禍や気に入らないものを生み出している可能性も理解していないといけないと、私たちが何も関与していないなんてことはないのです。それを考えると、こんなものはやる人も観る人も野蛮人だという廃止論者の主張は筋が通っていて、いたって妥当であると言わざるを得ない。ということですから私のような狡猾な人間は帰納から、その正しさは廃止論にもつながると状況判断するので(儀礼的無関心的に)#2回避するかもとしているのですが、これって何が足りないのはけしからんという話でしたか?(思慮が足りないのはけしからんという話)まあ、正しさは足りないものにベールをまとわせる効果もあるし媒体さんも何かしらの意向を受けてお使いになられているんでしょうがロペスでは役不足だったようでYAHOOのTOPページにありながら私が覗いた時には20ぐらいしかコメントが付いておらず(その中に亀田が~の念仏コメントが2~3つありまして、引退してから随分経つと思うのですが念仏の心中には今も存在をとどめているようです)日本人の関心は得られなく日本では波紋にはならなかったようで「問題」というのにも人選が重要なようです。
最後に儀礼的でいえば山根さんに対する接待も一般的には非常識であっても、少なくとも、あのコミュニティの中では長年、常識の儀礼的関心だったでしょうから突き詰めれば、それに反するのは礼節を欠いたということになるので接待を斟酌しないのは悪いと擁護してほしいものです。
#1
万人受けは困難(不可能)で平均は好ましいが絶対条件ではなく興行だから照準を定めても不都合はない。
#2
ボクシングの正当性には自由という盾が一番ですがボクシングなどの格闘技は虚実皮膜の中に漂っている存在という表現も使います。ボクシングを毛嫌いする人には通用しませんが