今から47年前(1966年)の袴田事件
一般市民の方々はこのボクサー崩れならやりかねないと思っただろう。
それは当時の新聞に(袴田のうそつき相当なものらしく雑談の中でマニラに遠征に行ったが
あの頃が懐かしいと思いにふける様子)
が警察が調べたところ、袴田は一度も海外遠征に出かける事はなかった。
(話がボクシングにふれると人が変わったように喋りまくっているが
恐らく大半が嘘だろうと警察もあきれている)と掲載されていたからだけれども
実際は1961年4月19日デビット・マーシングとフィリピンのマニラで対戦している。
また血染めのパジャマが発見されたとあるが
実際は目で確認できるのが難しいほど微量の血痕だということだ
これは大本営発表報道ですが前項の部分は事件とは何の関係性もないけど
悪印象を与えるには十分すぎるものである。
長野サリン事件でも同様の報道被害が起きたが
メディアが間違える事など無い・・・・
袴田事件から47年経過したけれど何か変わったのだろうか。
これまでは大手メディアの新聞にテレビ、また市井の噂という
プラットフォームによって世論形成してきた作られた空気という何か得体の知れない
ものが近代はもう一つ増えた。 そのメカニズムは(みんなが~といっている)
其の皆というのはインターネットで市井の噂の補完版といったところでしょうか。
一般の社会ではアダム・スミスの道徳情操論(第三者の目)
ラカンの鏡像段階論 ジャン・サルトルのまなざし
アインシュタインの常識なんてものは18歳までの偏見のコレクション
フーコのパノプティコンの監視、日本的に言えば人のふり見て我がふり直せでしょうか
論述されているように他人との関わりによってある程度、規律、道徳が
コントロールされている。人間が社会的動物と考えれば特段の話ではありませんが
例えば電車の中で些細な事に怒り攻撃的な態度をとって自分自身を解放している人が
いるとしましょう。ではこの自分自身を解放する人のことを素晴らしき人だと評価する人はいるでしょうか?それともあの人物が理由でその他大勢の人々が気分を害した
と考えるのでしょうか。おそらく前提にあげたものを評価する人は少ないと思います。
でも実際はその他大勢の中にも些細な事に関して同じように
声をあげたいと考えている方々も存在しているかもしれませんが
しかし一般社会では上記のように幼少時からあらゆる場所で
その様な行動を慎む事を社会から感受し教育を受けていることから抑制している。
中には仲裁に入る人もいるでしょう、そうして社会の道徳、規律はある程度守られている。
ベネディクトの菊と刀にもあるように良いか悪いかは別として調和というのは
日本人の美徳なのでしょうね。
それだけでしたら世の中は平和なのでしょうが現実は違います。
ポリス的共同体を壊すのも同じ集団心理で
犯罪を犯す不良グループや過激なデモ集会に見られることがあります。
本来は顔をつき合わすことのない人々が瞬時にして一箇所に
集まる事ができるインターネット環境も同じです。
昨今のツイッター騒動を見ても理解できると思いますが自分自身を解放する人が多いでしょ。
そうした人が一瞬で同じ場所に繋がることが可能なわけですから
大多数の自分を解放する人を一つの車両に乗せることも造作無い
準拠集団行動というのでしょうか、後がどうなるのかは言うまでもありません。空気を作る視線というのが匿名という全体像が見えにくい世界なので
コントロールしやすく暴走することも珍しくはありません。
いじめのメカニズムもたどるところはよく似ています。
みんなで渡れば怖くないといいましょうか最初は戸惑いながらも
そこでの全体の空気が自分を解放するというところに置かれていると
罪悪感は薄れて残酷になっていきます。
普通のどこでもいるような人物がある環境になると残酷に変質する可能性があるのは
ミルグラム実験(アイヒマンテスト)でも証明されている。
炎上にみられるように価値判断であり絶対的応報刑論的なので
悪い事をしたものが絶対的な悪なのです。もっとも悪と言うのはあくまで口実であり
自分を解放する素晴らしい人がただ集まったというだけなんですけどね。
しかし、馬鹿に出来るものではございません、全体主義に発展していくメカニズムも基本的には
同じです。それを利用する媒体、錦の御旗になったり飯の種になるから相好扶助なのでしょう。
空気が絶対の権威なので反対の意見を言おうものなら袋たたきにあいます。
エモーションの問題なのでなのでいくら正論や真実がほかにあっても意味は無く
エコチェンバーによって都合よく解釈されるか無視されてこれだけの人が~といっているのだからと衆人に訴える論証になって行きます。
デイリーミーして確証バイアスを極めていく
攻撃することで自尊感情や主体感覚を高ぶらせる
優越感は何事にも変えられないので情念の世界なのでしょう。
しかし、面白いのが炎上も度が過ぎて捕まってみれば
少人数というようにノイジーマイノリティ(そりゃ、そうだろう)だったりします。
ネットは情報が簡単に手に入る分、確証バイアスに陥りやすい
市井の噂の補完版は47年前以上に人を貶め傷つけているようです
他人事ではなくそんな世界に魅了されないように、このことは肝に銘じなければなりません。
袴田事件であるが2013年11月17日
「本件火災の鎮火に近い頃被告人が火災現場に姿を見せるまでの間に被告人の
姿を何処かで見たという者も認められない。」この確定判決と食い違う「元同僚が出火後に寮で見た」という証言が出てきたことで
刑事訴訟法第435条に当る可能性が出てきた。
てなことを10年前の亀田騒動の真っ只中(メディアスクラム&ネット上も批判が圧倒していた)に書いていましたが、昨今、侮辱罪の厳罰化や名誉棄損の乱用や高額の賠償判決を見るに、状況が随分変化し、言論の自由に対する脅威が規制強化という反対側からの全体主義が押し寄せてきたので 、自由というもののバランスの難しさを感じているところです。