静けさこそ力 | 「チンパンのブログ」

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(ブログの登場メンバー)

                                     
「チンパン」 ブリージングメソッドを分かりやすく伝えるため、日々猿知恵を絞っている。



「杏子(あんこ)」 長年にわたってチンパンの問答相手をつとめる。もはや腐れ縁と諦めているようである。



「虎徹(こてつ)」 ブリージングスタッフ・ふぐじろう先生のペット・柴犬オス。

記事を知的でキュートなコメントで締めてくれる。

 

 

「最近20分間は寝ないで瞑想出来るようになりました。でも、瞑想中にしょっちゅう雑念が出て来ます。

 瞑想で『無の境地』になど、なれるものでしょうか?

 

 瞑想は毎日やっていますが、特に自分が変わった自覚はありません。

 相変わらず仕事や日常生活でトラブルが起きると慌ててしまいます。

 

 私はちゃんと瞑想出来ているんでしょうか?

 

                                オンライン専門のブリージングストレッチ会員」

 

 

「慣れて来ると瞑想15分は結構出来るようになっちゃう。15分から20分までが一つの壁なんだよね。

 

 じっとしていることに、身体の方がきつくなっちゃうから」

「だからブリージングでは体操で身体を整えることを欠かさない。身体が歪んでいたり、不要な緊張が強いほど、じっと座っていられなくなるからである。

 

 ヨガのポーズ=アーサナも、長時間の瞑想が氣持ちよく出来る身体をつくるためある。

 

 相談者さんが20分間瞑想出来るようになったのは、真面目に体操をやっている証拠。大変喜ばしいことである」

 

「瞑想中に寝ちゃうのは、身体が疲れているからだもんね。

 

 食べ過ぎによる内臓の疲れも大きな原因。16時間酵素断食をやっていれば内臓疲労も回復してくるから、眠氣も出なくなっちゃう。

 

 

 ところで、雑念が浮かんでくるのはどうすればいいのかね?」

「雑念は放っておけばいい。雑念が出てきたことを自覚したら、すぐまた瞑想に戻ればOK。

 

 数息観(すうそくかん)と言う瞑想法が一番分かりやすい」

「『ひと~つ』と内言で数えながら息を吐く。息を吸ったら『ふた~つ』と数えながら、また息を吐く。

 

 息の数を数えながら、『とお』まで行ったら、また『ひと~つ』に戻ってカウント。

 

 昔ながらの伝統的な瞑想法だよね。一番シンプルで安全。

 自分の息を数えることに専念すれば、雑念も湧きにくいし」

 

「それでも、しばらくやっていると、頭は勝手に別のことを考え始める。

 仕事のことや、人間関係で氣になること、今日は何を食べようか、TV番組のことなど・・・・・。

 

 いかに自分に集中力がないかを自覚できること、請け合いである。

 形の上では20分瞑想しているように見えても、本当に自分の息に集中できている時間は、数分にも満たないかも知れない。

 

 まさしく『意馬心猿(いばしんえん)』。意識は馬のごとく暴走し、心は猿の如く欲望を追う」

 

「雑念に溺れていると、息をどこまで数えたか分からなくなっちゃう。

 

 そこに氣づいたら、また最初から数えなおせばいい。『自分の息』って言う拠り所があるから、数息観はいいんだよね。

 

 

 そうやって瞑想をやり込んでいけば、いつかは『無の境地』に到達できるのかね?

 普通は死ななきゃ『無』になんかなれないんじゃないの?他には夢も見ないほど深く熟睡しているとき」

 

「しかし瞑想に慣れていくほど、自分の息に意識を集中できるようになる筈。

 

 集中力が高まるほど、その集中力を向ける対象物以外は、その人にとって存在しないも同然になる。

 

 仕事・勉強やスポーツなどでも、本当に没頭している時は、近くで大きな音がしても氣づかないことがある。

 

 だから無の境地とは、有=色(しき)への集中 の極限状態を、別の角度から観、表現しているだけはないだろうか?

 無と色=『ない』と『ある』を包含した概念を『空(くう)』と呼ぶ。

 

 もちろん、瞑想の達人ともなれば、凡人には想像もつかない『無の境地』が存在するのかも知れないが、チンパンには分からない」

 

「そうした達人の境地に憧れるのは自由だけど、瞑想の初心者には不要・無縁な世界だもんね」

 

 

「剣聖・宮本武蔵の『五輪書』は五大=土・水・火・風・空に仮託して、自流の剣術について書いている。

 

 五輪書自体がとっつきにくい書物だが、最後の『空(くう)の巻』は一番短いが、一番つかみどころがない。

 

 チンパンも若い頃に読んだが、ただの精神論としか思えなかった。

 しかし、どうやら『瞑想(的境地)が大事だ』と書いてあるらしい。

 

 空とは『何もない』ことであるが、『ある』ことを知って、はじめて『ない』ことが分かる。と書かれている」

「やっぱり空は、有=色と無を含むんだね」

 

「世間で空は『空(むな)しい』=確かなモノは何もない と言う意味で使われているが、それはただ迷いの中に居るだけである。

 

 あるいは自己流の考え方、やり方を唯一正しいモノと思いこんでいるが、それは偏っているだけである。

 

 本当の正しい道理を体得すれば、迷いや独断から脱却できる。

 

 

 武道も芸道も、どんな仕事でも、固定した絶対のやり方はない。

 現実の対応は臨機応変でなければならないから、名人上手のやり方には形がないように見える。しかし、その裏には正しい道理が潜んでいるのである=空。

 

 正しく修行を積めば、正しい空の境地に到達できる と『空の巻』から読み取れる」

「だから瞑想しろって?」

 

「もちろん武蔵は身体の鍛錬もやったに決まっているが、瞑想も並行してやった筈。

 

 見の目=大脳を使った分析的見方 と、観の目=間脳による直観的洞察 を研ぎ澄ませろ と書かれているからである。

 

 観の目は瞑想しないと育てるのは難しい。そして直観を現実に活かすには大脳も必要。

 

 心と意(識)を磨けとも書いてある。今風に言えば、潜在意識と顕在意識、感性と理性、右脳と左脳を使った全脳思考。

 

 これは剣術をやらない人であっても、専門や人生にそのまま役立つ真理」

 

 

「相談者さんは瞑想をやっても全然変化が実感できない って悩んでいるよね。

 すぐ慌てちゃうのは瞑想が効いていないんじゃないか?とか」

 

「20分瞑想出来るようになったくらいで、何事にも動じないような落ち着きは、普通は身に着かない。

 

 しかし、普通の人は20分静かにしていること自体ハードルが高いのだから、その分は確実に落ち着きが身についている。

 

 だから慌てても、以前ほどは取り乱さなくなっている筈だし、慌てたとしてもリカバリーするのが早くなっている筈。

 

 効果を焦ってはいけない」

「中途で評価するな ってことだよね。ウサギとカメの教訓。目先のことに振り回されずに、ゴールだけを目指す。

 

 昔の氣功や武道の道場では、『この稽古にはどんな効果があるんですか?』とやたらと質問する生徒は、『もう来なくていい』って言われたそうだもんね」

 

「厳しいようだが、そういう意識で稽古しても無駄になるから、親切だったとも言える。

 

 今の自分を根本的に変えてくれるトレーニングとは、今の自分ではその意味が分からないトレーニング法だけ。

 

 つまり、顕在意識で理解できる稽古法で得られる効果は、いま現在の自分の延長にしかないから、効果のほどは知れている。

 その分、手っ取り早く効果も出るが、すぐ頭打ちになってそこでオシマイ。

 

 潜在意識・潜在能力を開発する稽古とは、別次元への飛翔。その分時間もかかる。

 しかし結果が出る頃には、今の自分からは想像も出来ないほどの高みに居る、別の自分になっている」

 

「その具体的な例はないの?」

 

 

「氣功、瞑想ではなく、別分野の例を挙げよう。

 どんな分野でも、一流の域に達した人には、『氣』『瞑想』と言う観点からは共通点が存在するため。

 

 たびたびこのブログでも取り上げて来た、プロの将棋指しの、故・米長邦雄。

 

 米長は瞑想も座禅もやっていないと思うが、将棋に全人生をかけて打ち込んできた。

 何かに没頭するとき、人は自然に瞑想状態・氣功態になっている。

 

 将棋のプロになるためには、人の勉強の仕方を真似ても無駄。

 もちろん、将棋の定石やテクニックはプロを志した時点でひと通り身につけているのは当然だが、その先はオリジナリティが要る。

 

 米長はそれを『プロのレベルで本当に強くなりたかったら、自分自身に成り切ることだ』と表現する。

 

 将棋に全身全霊を込めて打ち込んでいれば、自分に本当に何が必要なのか、自ずから見えて来る」

「瞑想そのものかも?中心軸が立つって表現してもいいよね」

 

 

「米長が採用した勉強法とは、新聞に掲載された将棋のタイトル戦の棋譜を読み、その先の手を自分で考えることだった。

 当時は昭和30年代で、ネットはもちろん無かった。

 

 米長は自分がタイトル戦に臨んでいるつもりになって、頭の中で対戦した。

 翌日の新聞に先の棋譜が掲載されると、予想通りの時もあれば、予想外の手が指されている場合もあった。

 

 自分の予想と違う展開になった時は、その理由を考えることがまた勉強になった。

 

 こうしたことを米長は著書『人間における勝負の研究』に書いている」

 

「まさしく氣功でいう『見立て』そのものだね。

 

 壁にぶつかった時は、氣功では他の動物や植物、石や雲などになったつもりで身体を動かしたり、じっとしていたりするもんね。

 いったん自分から離れることで突破口が観えて来るから」

 

 

「米長が採用したもう一つの勉強法は、詰め将棋を解くこと。

 

 それも半端な詰め将棋ではなく、江戸時代から伝わる『積むや 詰まざるや』と言う詰め将棋の本だった。

 何十手もかかる難解な詰め将棋が、二百問も載っている。

 

 米長はその問題を頭に叩き込んで、道を歩いている時も、学校での授業中もひたすら解法を考えたと言う。

 

 この二つの勉強法によって、棋力は飛躍的に向上し、長年タイトルを保持するほどの名棋士になれた。

 

 しかし、詰め将棋がどういう風に役に立ったのかは、『人間における勝負の研究』には書かれていない」

 

「でも、『人間における勝負の研究』は、プロを目指す将棋少年たちのバイブルになったそうだよね。

 

 羽生善治さんも愛読していたそうだし」

 

「羽生は愛読するだけでなく、米長と同じように『積むや 詰まざるや』に挑んだそうである。

 

 本当に難解で、天才・羽生にして、小学高学年から解き始めて、全部解き終わるのに5~6年かかったとのこと。

 

 羽生もまたプロになり、名人位はもちろん、プロの将棋タイトル7冠すべてを独占するほどの怪物ぶりを発揮した」

 

「いまは藤井爽太フィーバーだけど、羽生さんが7タイトル独占した時は、社会現象になったほどだもんね。

 

 プロ将棋の認知度もグ~ンとアップ。それまでは将棋にプロがあるってことさえ知らない人も少なくなかったから」

 

 

「当時、米長と羽生が対談している。対談の中で、『詰むや 詰まざるや』にも触れられている。

 米長がこの本を薦めていた理由について、羽生はこういう答えを出している。

 

 『この本は、何年経っても解き切れないから、中途で投げ出したくなる。

  それでも最後までやり抜いた。

 

  その将棋への情熱を持ち続けらる者でないと、プロにはなれないんだ と思いました』

 

 この羽生の答えに対して、米長は、

 『10代にして、そのことを悟るとは、さすがだね』と返している。

 

 羽生が米長の本を読んでから、十数年後の答え合わせ。米長は満点の採点をくれた。

 

 本当に自分を変えてくれる稽古の意味は、やり抜いた者同士にしか分からない」

 

「すごいエピソードだね。氣功や瞑想にもそのまま通じちゃうよ。ウサギとカメにも通じているし」

 

 

「その米長にして、子供の頃は全然落ち着きが無かったと、著書で書いている。

 将棋の対局中もパッと指してはキョロキョロウロウロしていたという。

 

 しかし、子供はそれでいい。本氣で打ち込めるモノを見に着けて、少しずつ集中力を伸ばして行けばいい。

 やがては1日中、将棋盤の前で正座していられるほどになる」

 

「確かに子供でやたらと落ち着きがあったら、そっちの方が怖いよね。

 子供に瞑想は難しい。そもそもやらせる必要がないかも?」

 

「子供は身体が柔らかいだけでなく、心は大人以上に落ち着きがない。

 

 学校教育では、子供に机の前でじっと座っていることを強制する。十数年こういう教育を受けると、確実に固まった、動けない身体になっていく」

 

「動けない固まった身体って、ストレスに弱いもんね。

 ストレスに強い人って、真面目な顔をしていても、身体の内部は微妙に動き続けているんだもんね」

 

「身体は固まっているのに、心は先に述べた『意馬心猿』の如く、時間も空間も飛び越えて彷徨い続ける。

 

 現代人は、この身体と心のギャップで病氣になって行く面もある」

 

「でも心の暴走については、余り問題にされないもんね。目に見えないから。

 表面上、身体だけじっとしていれば、教育は上手く行っていると見なされちゃう。

 

 身体に問題行動が出て来て初めて、『この人・子は病氣なのでは!?』って大騒ぎになる。

 でもその原因は、ずっと前から始まっているんだよね」

 

 

「ようやく瞑想の意義が社会的に認知され始めたのは、喜ばしいことである。

 

 昔、小説家の開高健がこんな中国のコトワザを紹介した(ヨーロッパのコトワザだという異説もあり)。

 

 『1時間しあわせになりたかったら、お酒を飲みなさい。

 

  3日間(3年間)しあわせになりたかったら、結婚しなさい。

 

  一生しあわせになりたかったら、釣りを覚えなさい』」

 

「どういう意味なの?」

 

「開高健が大の釣り好きだったので紹介したという面もあるらしい。

 

 色んな解釈が出来るが、酒=飲み食いで誤魔化したしあわせは、ただのストレス解消なので短時間しか続かない。

 

 結婚=異性の獲得や、社会的成功などの外部的条件によるしあわせも、永続するものではない」

 

「釣りのしあわせは、なんで一生もつのさ?」

 

「チンパンも釣りは子供の頃に少しやっただけだから、その楽しさはよく分からない。

 正直、退屈だった。

 

 しかし、瞑想をやるようになって、釣りもまた瞑想に通じるのではないかと想うようになった。

 

 釣れればもちろん楽しいのだろうが、釣れなくても、日常生活を離れて、悠然と釣り糸を垂れている時間は、これ自体が一種の瞑想になっているのではないか?

 

 釣りを通して自分の内部と深く静かに向き合う習慣をつくれば、外部の条件に左右されない、穏やかな安らぎ・しあわせを獲得できるのかも知れない。

 

 人生を支え、ピンチを逆転する底力は、深い静けさの中から沸き起こって来るのではないだろうか」

 

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(虎徹のワン!ポイントコメント)

 ブリージングスタッフ・ふぐじろう先生のペットの虎徹です~。

 写真は海をバックにたたずむボクです。写真の海は穏やかですが、海はいつも穏やかとは限りません。

 しばしば激しく荒れることもあります。社会もまた然りです。

 

 『カムイ伝』と言うマンガには、こういうフレーズが出て来ます。

 

 『人はいかなる時代においても 異なる処において命を得 人生の海において合流する。

 

  その海はいつの時代においても荒れ狂い 凪ぐ(なぐ)ことを知らない』

 

 個人の人生は、世間の海に翻弄される木の葉のような微小な存在かも知れません。

 でも、人の心には、世界を飲み込むほどの深さ・大きさが本来はあるようです。

 

 空海を始めとする偉人たちは、古来、このことを指摘してきました。

 

 

 自分の心を静め、心の深層に潜って行くほど、感情が安心し、自分でも氣づいていなかった能力が出るようです。

 だからこそ瞑想が必要なのです。

 

 表面しか見ない人は、その時々の世間の波=時流に乗ろうと焦ります。とてもせわしない人生です。

 

 でも表面がどんなに荒れていても、百尺=30メートルも深く潜れば、海の中は静かです。

 いつの時代においても変わらない普遍・不変の真理=時中(じちゅう)と言い換えてもいいでしょう。

 

 吉川英治の小説『宮本武蔵』のラストは、こういう一文で締めくくられます。

 

 『波騒(なみざい)は世の常である。波に合わせて、泳ぎ上手に雑魚は舞い、雑魚は歌う。

 

  けれど誰か知ろう 百尺下の水の深さを 水の心を』

 

 

 初心者用の安全な瞑想法として、数息観と並んで、ブリージングで薦めているのが『氣入丹田法(きにゅうたんでんほう)です。

 

 鼻から吸った息を、下腹部に落とすイメージで吐いて行きます。実際にお腹が温かくなって、体温も上がって行きます。

 でも氣はドンドン下がって行きます。深い海の底に潜って行くイメージで行っても良いでしょう。

 

 姿勢の注意点は、背筋をまっすぐにし、肩と骨盤を水平にすること。

 鳩尾を緩めて、眉間を開くことくらいです。

 

 それさえ守っていれば、正座でも椅子に座ってやってもOKです。

 やり込むほどに心が静かになります。

 

 静けさこそ力です~。

   

                                             つづく

 

                                次回更新は6月2日予定です。