もしかしてだけど/テイチクエンタテインメント
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先週の日曜日は書評を休んだ。
実は書き上げたものがあったんだけれども、気に入らなくてどうしようか悩んでいた。
悩んで悩んで、どぶろっく「もしかしてだけど」を聞くことにした。
そうしたら、あっという間に自分の時間が終わってしまい、投稿できなかった。

どぶろっくは、いわゆる”芸人さん”で、男性2人組、自作の音楽と歌詞で笑わせる。

彼らの以前のネタを見てみると、どうやら、もてない男の僻み・妬みをモチーフにしたものが多い。自分の思いが遂げられないことへの怨念が渦巻いている。
だからちょっとベタベタしている。

ところが、この「もしかしてだけど」は実にカラッとしている。
どっか突き抜けた感じがある。モテないことに、エロいことに居直っている。

そのあたりが好評の理由だろうとぼくは思う。

ぜひともカラオケで歌ってみたいものだ。しかも、自分のネタで!



ところで、下ネタというのは背徳的でだからこそ甘美で、その魅力には古今東西がないと思われる。
鎌倉期初期に成立した「宇治拾遺物語」でも、若い美僧の前で古参僧たちが自慰行為の是非を論じる話がある。これは古参僧たちによるセクハラで、そのうちに若い美僧もこの問答に巻き込まれ、自らの自慰行為の経験や回数まで白状させられてしまう。古参僧たちは、当初、腹の中でニヤニヤし、しまいにはみなで大笑いするという筋だ。
作者の意図は退廃した仏教界への批判だったのかもしれない。真摯な修行に打ち込みたい若い僧には気の毒だが、真面目な顔をしながら話す下ネタの気持ちよさをよく表している。わかる人にしかわからなかったり、未経験者をからかったり、下ネタの可笑しみはすでに1000年も前に成立していたのだ。

同じシモの話をしたとて、人によってかくも違うのか、というものもある。

確かフランス文学者の澁澤龍彦は、人間というのはアダムとイブの昔から、まず自分の性器を隠したというのに、これほどまでに花を愛でるのはどうしたものか、と言っていた。花というのは、植物にとっての生殖器なのだ。
さらに彼は、恋人に馬や牛の生殖器を渡す男がいるだろうか。花を渡すというのはそれと大して変わらない行為なのに。。。と言っていたように思う。
もちろん、澁澤は花が嫌いだったわけではなかろう。これが、彼なりの下ネタなのではないかとぼくには思えるのだ。
しかし、植物にとっての花とは、そもそも虫や鳥たちの気を引き、受粉の手助けをさせるためのものだった。それが今や人間に愛され、受粉の手助けどころではない。さまざまな新品種が生み出され、ますますのご繁栄だ。だとすれば、一つの生命体として、生殖器をさらけ出すという選択はあながち間違っていたわけではない、と言えるのではないだろうか。
(だから”えがちゃん”にはもっと頑張ってもらいたい、というのは言い過ぎだろうか)