毎週、NHK大河ドラマ「平清盛」を見ているご縁で、貴重な休日を利用し厳島神社へいってきた。水に囲まれた拝殿に近付くことはできなかったが、島そのものがご神体という、上代における信仰は十分に感じることができた。

厳島神社に限ったことではないが、そういった神域に掘っ立て小屋のひとつ(拝殿)でも建てることは、人々のココロが求めたことであり、またそれによって信心が深まるのだとしても、宗教としてはやはり、堕落の始まりに違いない。いづれ、管理や運営といった利権が発生する。世界遺産にも承認された広島の厳島神社などはその極みといってよかろう。始祖が望んだ静謐な信仰とは、ずいぶんかけ離れているにちがいない。

なんて偉そうなことをいってみたものの、じつは、ぼくが拝んできたのは大田区山王にある小さな厳島神社だ。


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小さいながらも、周囲を池で囲み、拝殿は行くにはたった一つの橋を渡らなければならず、厳島神社としての威風は十分備えている。


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この池の水は大田区山王台地のふもとから出る湧水である。そばに小さな祠があり、弁才天が祀られている。境内にはちょっとした遊具もあり、全体としては弁才天公園と呼ばれているようだ。

弁才天公園の中に厳島神社があることに奇異を感じ、調べてみると、厳島神社の祭神、市杵島姫命と弁才天は千年も前から、習合されていたのだそうだ。

神仏習合の論理というのは実に面白い。要は因数分解なのだと思う。

市杵島姫命を神道 水性 女性と分解し、弁才天を仏法 水性 女性と分解し、共通部分をひとまとめにしてしまう。そして、水の属性を持つ女の聖なるものを、神道では市杵島姫命と呼び、仏法では弁才天と呼んでいただけなのだ、もともとそういうことになっていたのだと、さも訳知り顔でとくのである。後は使う人のココロひとつ。だから神道はすごいのだとも、だから仏教はすごいのだとも、うちは両方あるからすごいのだとも言える。

たとえ神様だとはいえ、必要の応じて形を変えてしまうのだから大したものだ。

ところで、大田区山王台地、厳島神社から見た反対側にも、同じような湧水地がある。大森貝塚のすぐそばだ。

きっと、1万年以上前、この地に図らずも貝塚を作ってしまった人たちにとっては命の水だったに違いない。だからこの台地は、見晴らしもよく、水はけもよく、目の前には海の幸があり、そばには水も湧き出している、1万年前からの高級住宅地だったわけだ。

そう思えば、人の営みというのはあまり変化のないものかもしれない。


さて、今日のとりいちです。


とりいちはモツ焼きと煮込みの店ですが、他にも美味しいものがあります。


なんか寒いですよね~

あさりの酒蒸し

肉じゃが

白菜と豚バラの土鍋

とかどうでしょう。。


そのほか。。。

生海苔と新たまねぎのかき揚

牛モモ炙り焼き

豚肉しょうが焼き

マカロニサラダ

生さば塩焼き

カツオ

とんそく

などなど。。。


今日の一押しは。。。

栃木県大那直汲み無ろ過生


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