日イ関係 | 南国の日の丸レストラン

南国の日の丸レストラン

思いのままに書いています

私が、最初に、この国に来たのは、1972年です。

37年前になります。


企業研修生として、来イすることになったのですが、この国に

関し、何も分からないので、大阪梅田の紀伊国屋へ行き、本

を探しました。ところが、同じ東南アジア諸国の中で、この国

に関する情報を伝える本はほとんどありませんでした。


仕方ないので、旅行関係の本棚を探すと、"東南アジアの旅"

とかいう本があり、それをめくると、この国に関しての案内は、

たったの2ページでした。バリ島など、一切、出てきませんで

した。


それほどまでに新興国だったのです。あと、なんとか探し当

てた東南アジア諸国に関する本の中に、「インドネシア 新興

の息吹。」というサブタイトルで、当時、国営のインドネシアホ

テルとその前の殺風景な大噴水の写真が載っていました。


まだ、この回りにベチャ(三輪車)が、たむろしていた頃です。


今で言えば、アフガニスタンより、ちょっと進んでいるくらいの

感じなんでしょうか?  (アフガニスタンに行ったことがなく、

比較できないので、単なるイメージに過ぎませんが。)


インドネシア社会に溶け込むというのも研修目的ですから、

すぐに下宿先を探しました。


プラパンチャの社宅から離れたところを、何気なく散歩してい

ると、どこからか、「コンニチワ。」の声がしました。

通りがかった家の庭に腰掛けている中年の人からの挨拶

でした。私も、挨拶を返すと、にっこりして、手招きして、「お茶

でもどうですか?」、と誘われました。


こういうのは、牧歌的でいいでしょう。


私も遠慮なく、その家に入っていくと、この人、日本語がうまい

のです。

この方は、当時は、農林省の役人さんですが、日本軍による

占領時代は、軍政監部で、日本語の通訳の仕事をしていた

そうです。


そのうち、奥さんがでてきて、昔、日本人にもらったという浴衣

を見せてくれたり、ぼろぼろになった日本の国語の本を持ち出

してきて、「回れ、回れ、風車。」と、こちらは、変な発音ですが、

その本を読み出すのです。


日本大好きなことがすぐに分かりました。その時、二人が話し

てくれたのが印象的だったので、紹介します。


当時、インドネシア人は、子供でも、たばこを吸う者が、結構、

多かったらしいです。ところが、オランダの後にやってきた日本

の兵隊さんは、それを見つけると、さっとたばこを取り上げ、

「手のひらを出せ。」、と言って、そのたばこの火で、ちょっと、

お灸をすえ、たばこを吸うのを止めさせていった、ということで

した。


「あれは、良かった。たばこを吸う子供が急減した。」と褒めて

いました。


今の日本なら、すぐに、体罰だの、児童虐待だの、アジアでの

蛮行など という知識者層? インテリ層? の意見が多数意見

となるかもしれませんが、このインドネシア人夫婦は、「日本のお

陰で、そういう悪い習慣が減っていったし、気をつけ、前へならい、

なども、教えてもらった、400年近く、インドネシアを占領したオラ

ンダ人は、何も教えなかった。」、と日本に感謝の意を表したの

です。


縁とは不思議なもんです。その散歩がきっかけとなり、そこに

下宿することになりました。


それから2ヶ月くらい経って、まだ、言葉もろくに喋れない頃、あな

たには、まだ危険だ、というこの夫婦の反対を押し切り、ジャワ島

一周の旅に出ました。ホテルや乗り物は行き当たりばったりの旅

でした。


バリ島には近いスラバヤ市から、乗り合いバスで数時間のカリコ

ント、カランカテツという発電所の建設現場を見学させてもらいま

した。(鹿島建設、日本工営、伊藤忠のプロジェクト。)


スラバヤからそこへいくのに、14、5人しか座れない小さなバス

に乗り込みましたが、その小型バスの初老の人が、とても親切

に、席をつめて、私を隣に座るように進めてくれました。


たどたどしい日本語ですが、途中、懐かしそうに、日本の軍歌や

戦争時代の日本女性の歌を唄い出すのです。

インドネシア語に翻訳された軍歌まで唄ってくれました。


「見よ東海の空明けて、旭日高く輝けば。。。」


とか


「真白き富士の気高さよ、心の強い楯として。。。」 (ちょっと、

歌詞が間違っているかもしれません。なにせ、私も知らない歌

でしたから。)


この方も、「当時の日本人上官を非常に尊敬している。いろいろ

と教えてもらい、人生勉強になった。」、と言って、懐かしんでい

ました。


それから、バスを降りて、大衆食堂へ入ってしばらくすると、日本

の歌が聞こえ出したのです。えらい気配りで、びっくりしました。


あれから37年の歳月が過ぎて、あるインドネシア人大家族が、

鳥元バンドンで、夕食を楽しまれていました。


70歳過ぎと思われる最年長の上品な女性の方が、私になにや

ら、話がしたい様子を感じたので、ENAK ? (おいしいですか?)

と声をかけたら、日本語で、「美味しいです。あなたは日本人で

すか?」という逆質問がありました。


予感が当たりました。子供の頃、学校で習った日本語を、子供

や孫の前で、使ってみたかったのです。


「おばーちゃんは、日本語ができるのよ。」と自慢したかったの

でしょう。


この方も、「真白き富士の気高さよ。。。」 のはしりの部分まで

は、覚えておられ、口ずさんでおられました、


なんだか、目が潤んでいるようにも思えました。気のせいかな?

でも、ある程度、歳がいって、懐かしい歌を聞いたり、唄ったりす

るとそういう感じになることはありますよ。

この国に来るまでは、「日本は、過去、アジアで、なにかとても悪

いことをした。」 というように信じていたのですが (どこかで、そ

う信じ込まされていた?)、これら一連の出来事で、なにごとも、

自分の目で見て、自分で考え、自分で、判断しないといけないな、

と思いました。 耳学問は危ないです。


昔を振り返ると、これが海外研修だったんだなー、と思います。

会社のオフィスにいては、こんな実態、実情、人の感情は分かり

得ません。本当にいい勉強をさせていただきました。


さて、

一年くらい前に、「日本、日本人を好きか?」というアンケートの結果

が、ネットに、出ていました。東南アジア諸国では、70%とか90%

とかの高い数字で、イエスと出ていたし、その中でも、インドネシア

はぶっちぎりのダントツでした。

90数パーセントという高い数字だったと記憶します。


前述の私の実体験から、37年経っているのですが、その時に、私

が感じたこと と この調査結果は、みごとに、一致していました。


(1)資源の国インドネシア、技術の国ニッポン

(2)若い力が豊富な国インドネシア、高齢化社会ニッポン

(3)もともと農耕民族で、文化的に共通点の多い両国


相性がいいはずです。


インドネシアの方と結婚され、こちらに住まれている方も多いので

すが、多くの方々が、家庭円満に過ごされているのを見ても、やは

り、両国民の相性はいいのだろうと思います。