4月2日にオーストラリアの最高裁で「中立的な性別」を認める旨のニュースがありました。

↓ロイター記事はこちら。
「男でも女でもない」オーストラリアで"中立的な性別"を認める 最高裁が判決

そのとき、ボクは、「中立的な性別」って表現に違和感を感じました。
しかし、記事を読むと「男性でも女性でもない不特定な性別」という表現がしてあったので、それならトランスジェンダートランスセクシュアルの人たちにとって楽な生き方になるのなら、と思い支持をしました。
でも、バイセクシュアル非性愛者無性愛者は「中立な性」ではないように思ったし、この判決は何を意味するのだろうと少し疑問が残りました。

そんな矢先、4月15日にインドで「第三の性(サードジェンダー)」を認める最高さん判決が出たと新しいニュースが飛び込んできました。

↓Huffington Post 記事はこちら。
インド最高裁、「第三の性」を認める

インドでは、もともと男性でも女性でもない人をヒジュラー(ヒジュラ、ヒジュダともいう)と呼び、ヒンドゥー教の歴史にも登場し、ほかの国と少し違う歴史的背景があるかも知れません。

こういうセクシュアルマイノリティに寛容な国になるといいな、とは思いました。

しかし、何か釈然としないものが残りました。

第三の性」が出来ると、日本のように性同一性障害性別変更した人たちはどんな扱いになるのだろう?

ボクは性同一性障害ではなく、同性愛者だから、自分の性自認に違和感はないので、実質的になんの変わりもありません。
先に述べたバイセクシュアル非性愛者無性愛者は、自分の性自認とは違うところに違和感があるので、ここに当てはまらないと思います。

もともと、「第三の性」が取り沙汰されたのは、トランスジェンダートランスセクシュアルのためではなく、半陰陽の人たちや性別が判断できない人のために出てきた考え方だと思います。
そこに、トランスジェンダートランスセクシュアルの問題を付け加えていくと、ややこしくなります。

ふと思ったのは、「第三の性」というものが認められるとそれに当てはまらない人は「第四の性」というものが出てきたり、トランスの状態の人は「ちょっと男性よりの第三の性」とか「ちょっと女性よりの第三の性」とか出てこないんだろうか?
男性」と「第三の性」や「女性」と「第三の性」を行ったり来たりする人はいないんだろうか?

選択がふたつしかないから二極化が進むのであり、真反対であったり、裏表であったりするのだと思います。

日本ではこういう「第三の性」の議論はあまり表立っていないと思いますが、ここまで世界の各国が認識を変えてくれば、グローバルに見る必要が出てくると思います。
よく調べていませんが、出生時に遺伝子検査なんてしてないと思うんで、出生時に一旦は表面的に見える男性器の有無で「」か「」かが戸籍には記載されてしまうようになっていると思います。

日本には戸籍制度というものがあり、「男性」「女性」という括りがあるから、「父親」「母親」という概念が存在します。
第三の性」が認められると、それは親となったとき「父親」になるの?「母親」になるの?「第三の親」とかいうの?
トイレはどうするの?
公衆浴場はどうするの?
いろんな混乱が起こると思います。
いろんな側面から制度や環境を見直さないといけません。
そういう準備が整わないうちに、権利だけの視点から、それを良しとして良いのでしょうか?

オーストラリアやインドがそこまで議論されているかどうかはわかりませんが、単に選択肢として増えたから望ましいと簡単に決めつけていいのでしょうか?
オランダやフランスのような同性愛に寛容な国についても同じようなことを感じます。
混乱する人の方が多くないでしょうか?

マイノリティが生きやすいに越したことはありません。
否定しているわけではないのです。
非難もしません。
喜ばしいことだと思います。

同性間にも配偶者として適応されたほうがいいと思うし、不公平は少しでも少ないほうがいいと思います。

しかし、ボクが思うのは、社会的認知倫理的認知が広がらない限り、セクシュアルマイノリティの生きにくさはあまり変わらないと思うのです。
法の力を借り、法から変えて行って、社会の認知が広がるのであれば構いません。
今、必要なのは、そこにどういう苦しみがあり、そこの認識のなさがそういう社会的偏見を生み、セクシュアルマイノリティが生きにくくなっているか、の方ではないかと思うのです。

たとえば、性同一性障害の方の性適合手術だってまだまだ高額だし、手続きも大変です。
性別変更の手続きだってとても理に叶っていると思えません。
医学の分野も同時に進行していく必要があると思います。

こと、性同一性障害においては、法律医学社会的認知がバランスよく進まないと、うまく機能していきません。

そういうことを危惧しないでいられないのはボクだけでしょうか。

それをみんなが知らないふりでいいんでしょうか。

ここは後回しでいいのでしょうか。

そんなことを思った今日でした。

昨日、ある方と話していて、面白いことが起こりました。

ボクの話している内容に感動して、その方が感極まっていました。
そして、それを見たボクが込み上げてきました。

ボクは、自分のハナシを冷静にしゃべっているのに、その内容について、人の感情を通して込み上がってきたんです。
なんだか、三面鏡を見ているようでした。

それだけ、自分の感情には、素直に寄り添えていないんですよね、きっと。
冷静でいなければいけない、ハナシをするだけでこんな取り乱してはいけない、それはみっともない、そういう無意識があるんだと思います。

自分には向き合えている自信もあって、ちゃんとしていると思っているんだけど、そこに出てくる不安のようなものには、寄り添いきれていないと思いました。
もしかしたら、もうそんなことは大丈夫と、自分を肯定できているから、そう思うのかもしれませんが。

人の感極まっている様子を見ながら、自分の不安に気づいて寄り添っている感じって、いかに自分のことは見られていないのか、ってことですよね。
仕事として、また、日常として、人の気持ちには寄り添えるのに、自分のことは見えないもんですよね。

そうは言っても、毎日毎日自分の内面と向き合っているから、相当楽にはなってきています。
わけのわからない不安のようなものは今のボクにはほとんどありません。

ここで強く思ったのが、やはり「共感」の大切さです。

人はそもそも理解をされたい生き物なんですよね。
理解をされたいから話をするんだと思います。
理解をしたいから話を聞くんだと思います。

共感」がないと「自尊心」が育たないということを前にこのブログで書きました。

そこで書いたのは、「人に共感される」ことの大切さと、「人に共感する」ことの大切さだったと思います。

でも、今回気づいたのは、「自分に共感する」ということの大切さです。

ここ最近、「自分にダメ出し」をすることがネガティヴの連鎖に繋がると書き続けています。
何か嫌な出来事があったとき、何か受け止められないことがあったとき、「そんな自分ってダメだ」って思うことがネガティヴスパイラルの始まりだと書き続けています。

その連鎖を止めることはどうしたらできるのか、と多くの方から質問を受けます。
いつもそのとき、自分にダメ出しをせずに、その状態をただ受け止めてください、と言っています。
でも、長いあいだ積み重ねてきた自分へのダメ出しは、そう簡単に変えられるものではありません。

そんなとき、ボクは、「そう思っちゃった自分って仕方ないよね」「そういう選択しかできなかったよね」と自分に寄り添っています。
育ってきた環境、時代背景、教育、親からの刷り込み、嫌な体験の数々で、ボクはそう思うようになってしまっていたんだ、それはそう思って仕方なかった、と思うようにしたんです。

自分の無意識の苦しみや不安に、せめて自分くらいは気づいてあげたいと思ったんです。

共感」がないと「自尊心」が高まらない、でも、「共感してくれる人」がなかなかいない、というときに、「共感する人がいなくても大丈夫」と自分の気持ちを押し殺すと、それは鬱積していきます。

いつもボクは、自分が最大の自分の理解者になってあげてください、それが自分を大切にしているということです、といいます。
自分の本心を無視することは自分を虐待していることです、といいます。

それは、とても難しいことですが、自分の不安や苦しみに、自分が「共感」してあげればいいのです。
自分の感じている感情だから、「共感」できないわけがないですよね。

カウンセリングを学ぶと「受容」「共感」「自己一致」が大事だと教えられます。
このなかで、いちばん重要なのが「自己一致」だと言われます。
いちばん難しいのも「自己一致」だと言われます。

カウンセリングで言う「自己一致」はまた機会があればここに書きますが、もし、同業者の方で、「受容」「共感」は出来るけど、「自己一致」が難しいという方は、自分に「共感」してあげてください。
結構「自己一致」が楽になると思います。

昨日、三面鏡の中にいるような経験をしてみて、ボクはもっともっと自分に「共感」してあげたい、そう深く強く思いました。

「共感力」という本が書けそうです(笑)。

昨日開催した、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」4月度【セルフイメージチェンジルーム】のご報告をしたばかりですが、今日は次回の告知です。

毎月第4土曜日は【マイノリティスタディ ルーム】です。

こちらのルームでは、ほかの人とどこか違う、違和感に感じているところを個性に変えていくアプローチで、よりよい行動の選択ができるように、マイノリティの題材を使って、参加者のみなさんにディスカッションを重ねていただきます。

本当の「じぶん」、話してみませんか?

じぶん発見プロジェクト「

【マイノリティスタディ ルーム】

日時 : 4月26日(土)13:15~16:15
参加費 : 3,000円
参加定員 : 20名
場所 : 名古屋市東スポーツセンター 2F 第1会議室
   名古屋市東区大幸南1-1-10(地下鉄名城線 ナゴヤドーム前矢田1番出口徒歩約1分, ゆとりーとライン(ガイドウェイバス)ナゴヤドーム前矢田下車徒歩約1分)



東スポーツセンター地図

どなたでもご参加いただけます。
興味のある方はぜひお問い合わせください。

今回は「友達ってなに?」というテーマで開催します。



しろにじカーサチラシ表

しろにじカーサチラシ裏

お問い合わせ・お申し込み先

「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)

  Tel : 090(9262)8782
  携帯mail : torff_sessionroom@ezweb.ne.jp

活動ブログ「
豆腐の Activity Life 」からお申し込みください。
Facebook、mixiメッセージ、twitter、amebaメッセージ、こくちーずなどからもお申し込み可能です。
定員になり次第終了させていただきますのでご了承ください。
お受付させていただいた方には24時間以内にご連絡させていただきますので、メールアドレスを添えてお申し込みください。

主催:「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)


たくさんの参加表明お待ちしております。

今日は、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」の第1回目でした。

本当の「じぶん」、話してみませんか? というキャッチコピーで始めたこのプロジェクト、毎月第2日曜日は【セルフイメージチェンジルーム】です。

こちらのルームでは、深く自分を理解し、よりよい行動の選択ができるように、コーチング・カウンセリングなどの手法を使って、参加者のみなさんにディスカッションやワークをしていただきます。


セクマイ関係なく、一般の方向けにするワークショップは「マインドスペース 夢カフェ」以外では初めてでした。
マインドスペース 夢カフェ」はボクは講師として参加しているので、自分の主催ではセクマイ関係ないものでは初めてのワークショップだったし、3時間というのも「セクシュアリティ勉強会」でしか、したことがないので、ちょっと珍しく緊張がありました。
と同時にわくわく感どきどき感もありました。

この準備の中にありえない準備不足もあり、それなりに反省点も多かったんですが、手応えとやりきった感じはものすごくありました。


今回は5名の方が参加されました。
以下、参加されたみなさんの感想です。

【R.I.さん】視野が少し広がり、精神的にすっきりした感じがしています。この感覚を大事にして、更に学んでいきたいです。
【Nikkohさん】期待していた通り良質な内容で、たくさんの刺激を受けました。思い込みは完全に無くならないし、完全に無くす必要もないと思いますが、いかに多くの自分も思いもよらなかった思い込みを持っているのかを知ることは、生きやすさへとつながっていくと感じました。
【たんたさん】その人がどんな思い込みを持っているかを、物語の人物に意識を向けることで考えさせられました。体の状態に対して、その状態を受け入れる原因をさぐっていくことをやってみようと思いました。
【さっちゃん】思い込みを知るというテーマで、自分だけでなく相手の思い込みも話し合えてよかったです。思い込みは人の「普通」で、それが人それぞれに違っていることが摩擦を生むこともあるんだけど、理解したいという気持ちを持って関わることでお互いの世界が広がると思いました。

この、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」は、自分をより深く知り、関係性を構築したい相手もよく知り、それぞれ違う部分を相互に開示してクリアにしながら、相手を傷つけずに相手の開示も受け止めて、コミュニケーションを良くする、さらにそのうえで、今の社会のなかでより良い行動の選択をしながら、自分らしい生き方を発見していくためのプロジェクトであり、参加されたみなさんが生き生きと自分らしい生き方をしていくことを目的としています。
【セルフイメージチェンジルーム】では、その理論を説明したり、ワークやディスカッションをして、自分らしい生き方を発見していくカリキュラムになっています。
【マイノリティスタディルーム】では、日常の生活ではあまりないマイノリティの事例に自分や環境を当てはめてもらうことで、具体的な応用の仕方をシミュレーションして練習していただくようなカリキュラムになっています。
これぞれのルーム12回、計24回を通して、参加者のみなさんが、自分らしい生き生きとした人生を送れるようになっている状態をイメージしながら講師をしていきます。


今回はその【セルフイメージチェンジルーム】の第1回目ということで、まず、自分をより知ってもらうために、みなさんそれぞれに持っている「思い込み」の部分に焦点を当てました。
それを「メタモデル」の手法を使いながら説明をして、さらにひとつの物語を使って、深く自分の中に落とし込めるような工夫をしてみました。
今は、【セルフイメージチェンジルーム】のすべての内容のうちの 1/12 を出し切ったような気分でいます。

あるひとつの違和感を感じた出来事は、不必要な「思い込み」の連鎖によって、死にたくなるほどのネガティヴスパイラルに陥ってしまうこともあるし、可能性を信じるような考え方によってこのうえない幸せを感じることもできる、ということを伝えさせてもらいました。
その「思い込み」は過去の経験や体験で出来上がってしまったものかもしれないし、親の育て方によって出来上がってしまったものかもしれないし、社会の不条理な押しつけで刷り込まれてしまったものかもしれません。
それをひとつひとつ紐解いていきたいな、と思いました。




参加者のみなさんは、それをどう感じてくれたでしょうか。
今回参加されなかった方がこれを読んで、参加してみたくなるのでしょうか。

主催者のボクも、支えてくれているクルーのみんなも、正直なところ、手探りで始めてみた感じが否めません。

でもきっとみんな、参加する意味を感じてくれたはず、と思っています。

次は今月26日土曜日の【マイノリティスタディルーム】です。
明日、ここで告知をする予定です。

興味のある方は問い合わてくださいね。

今回、記念すべき第1回に参加してくださったみなさん、本当にありがとうございました。

カウンセラーの認定をいただいたコアカウンセリング支援協会で、昨年10月から学んでいた養成講座が先月で修了し、4月6日に試験を受けてきました。
今週水曜日に合格通知をいただき、今日認定書授与式と祝賀会に行ってきました。

コアインストラクター認定書

理事長の宮崎先生と記念に写真を撮ってもらいました。

コアインストラクター認定書授与式

この資格を取得すると、カール・ロジャーズの来談者中心療法を用いたカウセリング理論と技術を学ぶ「コアカウンセリング講座」を開講することができます。

まだ少し整える箇所が必要ですが、がんばれば年内にも開講できるかもしれません。

実は、この半年、明日から始まる「
じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』 」の準備と並行して、この口座に取り組んできたんですが、実は相当大変でした。

理解することと、それを講師するというのは大違いで、しかも自分の哲学で講師するのではなく、カール・ロジャーズの理論をわかりやすく説明できないといけません。
実は、それだけではなくて、その講座で、「豆腐さんらしく」講師をするということが課題となっていったので、その自分らしさとわかりやすさが同時にできずに苦しみました。

3月あたまの時点で、コースを修了することは、ある程度納得していたんですが、一度は4月の試験は見送ろうかと思っていました。
自信がなかったのです。

でも、諦めずに、自分らしさとわかりやすさの両方を満たすポイントがなんとか見つかり、無事落ち着いて試験を受け、見事合格できました。

独立してから、まあ、本当に怒涛のごとく動いたし学んだし、遮二無二やってきたなぁ、と実感しました。

その努力の結果のように認定をいただいたような気になりました。

今後また、これを活かして、「
じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』 」、「マインドスペース 夢カフェ 」、カウセリングやコーチングのセッション、GID支援機構電話相談員、そしてなにより「コアカウンセリング講座」を頑張ってやっていきたいと思います。

これからもみなさんよろしくお願いしますね。

あっ、それと、明日「
じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』【セルフイメージチェンジルーム】 」ですよ。
まだまだ参加間に合いますので、ご参加ご検討ください。

今日も料理の話でなくてすみません(笑)。


先日、ある講義を聞かせてもらい、そこで講師の方から「悩むことはするな、楽しいことだけをやれ」というようなお話を聞きました。
とても説得力のある、講師の方の体験からにじみ出たお話でした。

一方でボクは、先月の性同一性障害を取り上げた自分の「
セクシュアリティ勉強会 」で、「みんなもっと悩んだほうがいい」というような真反対のことを参加者のみなさんにメッセージとして伝えました。

それは、講義に反論したということではなく、「悩む」ということについて、自分のなかでよく考察したうえで伝えたものです。

もちろん、「楽しい」の真髄が捉えられていれば、「楽しい」ことだけやっていればいいと思います。
楽しい」ことに迷いがないのであれば、それでことがうまく運ぶだろうし、わざわざネガティヴに無理やり入り込む必要はないと思います。

ボクが言いたかったのは、「楽しい」ことだけやっていてもうまくいかなかったり、迷っているときに、直感で楽しくなさそうなことから逃げていつも良くない結果ばかりになる場合は、その「迷い」にしっかり向き合ったほうがいいと思うということです。

直感がいつも当たる人は壁にぶつかることはないでしょう。
いつも壁にぶち当たる人は、まず間違いなく無意識に何か違うものが隠れている、とボクが確信しているのです。

そこで、今回、また懲りもせず、「悩む」ということについて辞書で調べてみました(笑)。

〘自五〙
①いたみ苦しむ。病む。源氏物語賢木「例ならず時々―・ませ給へば」。天草本平家物語「中宮御懐妊あつて、もつてのほか―・ませられたによつて」。「神経痛に―・む」
②苦しむ。こまる。思いわずらう。万葉集15「安けくもなく―・みきて」。「恋に―・む」
③とやかく非難する。栄華物語花山「安からぬことに世の人―・み申して」
④(他の動詞の連用形に付いて)…に難儀する。…しかねる。源氏物語槿「石間の水は行き―・み」。「若手がのび―・む」
〘他四〙
①苦しめる。なやます。好色五人女4「暮方の障子をひらき、身を―・みおはしけるを」
②取り扱う。いじる。浄瑠璃、鎌倉三代記「手荒う―・むな、つい破われるぞ」

【岩波書店 広辞苑 第六版 DVD-ROM版】

ここでは、①の意味も含んでいるけれど、主に②の部分だと思います。
これだけ読むと、あまり「悩む」ということは良くないことのように感じます。

ちなみに「迷う」についても調べてみました。

〘自五〙
布の織目がゆるんで薄くなり、糸が片寄るのが原義。転じて、ものごとの整理がつかなくなる意。後に「まどう(惑)」と混同。
①布の糸が乱れて片寄る。万葉集14「風の音との遠きわぎもが着せし衣袂のくだり―・ひ来にけり」
②ものがもつれからむ。乱れる。源氏物語総角「髪はけづることもし給はで、程へぬれど―・ふ筋なくうちやられて」。源氏物語玉鬘「まかで参る車多く―・ふ」
③あちこちへ移り動く。入り乱れる。源氏物語野分「風さわぎ村雲―・ふ夕にも忘るる間なく忘られぬ君」
④道が分からなくてうろうろする。源氏物語須磨「いづかたの雲路に我も―・ひなむ月の見るらむこともはづかし」。「山で―・った」
⑤入りまじって見分けがつかなくなる。まぎれる。新古今和歌集秋「霜を待つ籬の菊の宵の間におき―・ふ色は山の端の月」
⑥心が定まらず、途方にくれる。決断がにぶる。心がぐらつく。源氏物語東屋「しめゆひし小萩がうへも―・はぬにいかなる露にうつる下葉ぞ」。狂言、布施無経ふせないきょう「愚僧は―・うた」。「身のふりかたに―・う」
⑦死人の霊が妄執もうしゅうのために成仏できない。謡曲、八島「―・ひけるぞや、生死しょうじの海山を離れやらで帰る八島の恨めしや」
⑧誘惑されて、判断力を失う。「女に―・う」「金に―・う」
⑨(「まどう(償)」との混同によって)償う。弁償する。旧宝幢院文書「各買ひ―・はせ、還付せしめ」

【岩波書店 広辞苑 第六版 DVD-ROM版】

ついでに、「」という文字の成り立ちについても調べてみました。

「悩」という文字は、「心」を表すりっしんべん(『心臓』の象形)と、「髪」と「乳児の頭蓋骨(『あたま』をあらわす)」をあらわすつくりでできた形声文字です。
つまり、心や頭をあらわすものという成り立ちです。

【漢字の成り立ち辞典】

文字の成り立ちについてだけ見れば、「悩む」ことは何も悪いことではないように思います。

悩む」ということは、何かふたつ(もしくはふたつ以上)の選択肢があって、どちらを選択するかに「迷い」があるから「悩む」のだと思います。

ふたつ以上の選択肢があり、すぐ最善のものを選べるのであれば、何も悩まないでしょう。
何か行動を選択しようとするとき、「行動したい」自分と「行動できない」自分が葛藤していると「迷い」が生じ、「悩む」ことになります。
行動したい」と思うのに「行動できない」ときは、「行動できない」理由が存在します。
また、「行動したい」ということは「行動できていない」自分が存在するから、「行動したい」と思うと思うのです。
このとき、「行動できていない」自分にダメ出しをし、「行動できない」自分にも無意識でダメ出ししているから、自己否定感でいっぱいになるので、「行動できる」わけがありません。
そして、いつまでたっても行動できずに、その一歩を踏み出せない自分にまたダメ出しをし続けるわけです。
このネガティヴスパイラルから抜け出さない限り、「行動できない」とボクは思ってます。

行動できない」自分になってしまったことには必ずなにかの理由があります。
それは、社会の圧力かも知れないし、理解されない状況かも知れないし、なにかのトラウマ経験があるかも知れないし、なにかのおかしな思い込みがあるかも知れません。

行動できない」自分をただの状態だと受け止め、自分にダメ出しをしないようになって、自己肯定感を上げていかない限り、いくら小手先のモチベーションを上げる方法をやってみたところで「行動できる」ようにはならないと思っています。
たとえ、一時的に行動できたとしても、根本の解決ができていなければ、一時的な対処療法にすぎず、また同じ失敗を繰り返すことは目に見えていると思います。
必ず抵抗が出てきます。

その見ないようにしている蓋があるとすれば、そこにちゃんと向き合い、自分にダメ出しをせず、次の行動を選択できる自分に変わっていかないと成長はありません。

向き合えない状況にあるときは、一時的にそのネガティヴな感情をそらしたり、一旦そのままにしておくことは必要かもしれません。

そのあたりをボクは自分の講座で伝えていきたいと思っています。

みんな、必要なときは、とことん悩みましょう。

新しい年度が始まりました。

いよいよ、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」が始まります。

毎月第2日曜日は「セルフイメージシェンジ ルーム」です。

こちらでは、深く自分を理解し、よりよい行動の選択ができるように、コーチング・カウンセリングなどの手法を使って、参加者のみなさんにディスカッションやワークをしていただきます。

本当の「じぶん」、話してみませんか?

じぶん発見プロジェクト「

【セルフイメージチェンジ ルーム】

日時 : 4月13日(日)13:15~16:15
参加費 : 3,000円
参加定員 : 20名
場所 : 名古屋トヨペット 千種内山店 2F 第1会議室
   名古屋市千種区内山3-7-3(地下鉄東山通線・桜通線 今池駅1番出口徒歩約5分, 地下鉄東山線 千種駅3番出口徒歩約7分)


名古屋トヨペット千種内山店

どなたでもご参加いただけます。
興味のある方はぜひお問い合わせください。

今回は「思い込みを知る」というテーマで開催します。

しろにじカーサ受講生募集用チラシ表
しろにじカーサ受講生募集用チラシ裏

お問い合わせ・お申し込み先

「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)

  Tel : 090(9262)8782
  携帯mail : torff_sessionroom@ezweb.ne.jp

活動ブログ
「豆腐の Activity Life」 からお申し込みください。
Facebook、mixiメッセージ、twitter、amebaメッセージ、
こくちーず などからもお申し込み可能です。
定員になり次第終了させていただきますのでご了承ください。
お受付させていただいた方には24時間以内にご連絡させていただきますので、メールアドレスを添えてお申し込みください。

主催:「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)


たくさんの参加表明お待ちしております。
また、報告が遅れてしまいました(汗)。

3月20日に「セクシュアリティ勉強会 第6回平日夜の部」を開催しました。

セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部1

今回も前回と同じ「生き方の選択」というテーマで、性同一性障害の事例の動画を見てディスカッションしてもらいました。

セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部3
セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部4

以下、参加されたみなさんの感想です。

【おのちゃん】今日は今まで参加した中で1番充実した気持ちで終えることができた思いです。そう!「自分に正直に生きる」って、「生き方の選択」の質(この言葉が100%しっくりしてないのですが思い浮かばず・・・)によるのかなって思いました。内容いっぱいで、まだ言葉にするのが難しいな・・・。
【あさみちゃん】自分と向き合うことは楽しいです!
【田村さん】「普通に生きる」って大変です。何が普通なのか?から考えてみないといけないので中々難しいです。やっぱり、自然体でいるのが大事なんだなぁって思いました。参加して少し楽になったし、楽しい時間が過ごせました。
【MuMuさん】とても自然に入り込んで行きました。そしてとても深く・・・。「自分に正直に生きる」「周りとの関係を壊す」この言葉にハッとしました。壊れたかもしれないものが壊れていなかったことがわかる時期に来ているかもしれない!!と思いました。
【さっちゃん】参加者の方がみんな正直に語ってくれました。こういう場は必要だと改めて感じました。自分を大切にできるような生き方を選択したいです。


セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部7
セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部5


今回は、6名の方にご参加いただきました。
生き方の選択」とは「男として生きる道を選択する」とか「女として生きる選択をする」とかではなく、「自分の本当の気持ちに従った生き方を選択する」という視点でシェアしました。

セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部8

今回は2011年12月23日に第1回目の「セクシュアリティ勉強会」以来、定例会・平日夜の部・大阪の部・東京の部含め22回目の勉強会でした。
一旦、ここで「セクシュアリティ勉強会」は終了し、来月からはじぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」 の「マイノリティスタディルーム」の中に組み込まれます。
同じような進行で、これからは間口を「セクシュアリティ」から「マイノリティ」に広げ、当事者としてもまた非当事者としても講師をすることになります。

締めくくりの勉強会として、感慨深いものがありました。
いつまでもこの姿勢で頑張りたいと思います。

セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部2
セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部6

参加者のおのちゃん から、ご苦労さまのお花とお菓子をいただきました。
めちゃくちゃうれしかったです。
おのちゃん、ありがとう。

そして、ほかの参加者のみなさんもありがとうございました。
昨日は「中立になるということ 」「自己理解をするということ」について書きました。

実は、それだけじゃなくて、続きがあります。
ここも、あくまでボクの持論なので、その辺を了承して読んでくださいね。

自己理解」をいくら深めても、それは自分のことをよく知ったというだけで、それだけではコミュニケーション行動の選択まではうまくいきません。
自己理解」のままで信念を貫き通し、わがまま自分勝手利己的に振る舞っていても理解されたり応援されたりということはなかなか難しくて、ひとりよがりになるばかりです。

自分を理解したように、相手も思いやり、相手の立場になってひとやモノや出来事を見て、同じように「相手理解」をすることがコミュニケーションを良くすることだと思っています。
ひとによって価値観(この言葉はあまり好きではないですが)はさまざまで、ひとがそれぞれのものさしでそれぞれの価値観を構築して生きやすく決断していくようになるのには、そのひとの育てられ方・環境・もともとの性格などいろいろな背景があります。
だれも同じ価値観は持っていない、ひとそれぞれ考え方が違っていて当然だということが腑に落ちていないとうまくいきません。

相手を傷つけないように、しかも自分の気持ちに正直に、でも押し付けず、寛大に感謝の気持ちを持って、それでもわがままにも自分勝手にも利己的にもならず自分をきちんと伝えないとうまくいきません。
自分に嘘をつかずごまかさず相手を受け入れながら、「自己開示」もしていくということは至難の技です。
ボクも四苦八苦します。

でも、考えてみれば、「自己理解」をした作業を相手にもするだけのことです。
自分を深く理解すること」が苦なくできるようになっていれば簡単なことなのです。
価値観の違う相手をすべて完璧に理解することそのひとではないからできません。
大事だと思うのはその「理解をしようとする姿勢」「受け止めようとする姿勢」だと思うのです。

自分」という輪と「相手」という輪の重なる部分は、「自己理解」と「相手理解」と「自己開示」の繰り返しで大きくなっていきます。
相互の「理解しよう」という姿勢がないと輪っかの重なりは大きくなっていきません。
その重なりがコミュニケーションであり関係性の構築だと思っています。

では、相手がその姿勢を見せないときはどうしたらいいのでしょう。
それでもボクは「自己理解」と「相手理解」と「自己開示」に努めます。
相手の価値観を変えようとするのは、自分の価値観の押し付けだからです。
ひたすら、「相手理解」に努めていると、相手もだんだん関わってくれるようになるんですよね。
まあ、もちろん埒が明かないときは関係性の構築をボクもよく諦めますけど(笑)。

そして、コミュニケーションがうまくでき、ひととの関係性が構築されたとしても、われわれは自分と関係性ができただれかとだけで生きていけるわけじゃありません。
よりよく自分が生きていくためには、今、社会がどういうルールやモラルや価値観の中で存在していて、その中で自分がどんな立ち位置にいるのかをよく見極めないと、よりよい行動の選択はできません。

昨日、ボクは「いい」「悪い」や「正しい」「間違い」のジャッジのない「中立」な感じが大事だと思うと書きました。
でも、社会には悲しいかな極悪非道な方もいらして、ある程度のルールが決まっていて、それを守らないといけないようになっています。
法律がたとえちょっと自分に都合が悪いものだとしても、それが改正されるまでは、法律に従って守らないと罰せられます。
そこは「知らなかった」と言っても通用しないのです。
法律になっていない暗黙のルールもあります。
だからいろんな人がいて、いろんな価値観があることを、ある程度わかっていないと社会では生きていけません。
それをボクは「社会理解」と呼んでます。

その社会のルールが今の時代に合っていないこともあるし、不公平で認められていないところもあります。
もちろん、それが多くの人びとの生きやすい社会になるようにどんどん変わっていけばそれに越したことはありません。
でも、今のルールがとりあえずある程度平均的なものさしで計られて決められた法律だったりルールだったりするわけです。
そこもそう簡単には変わりません。
自分がそこに合わせて対応を変えていくだけだと思っています。
自分を曲げろというのではなく、自分を大切にする気持ちは忘れずに、我慢にならない程度の妥協や抑制をしながら、我慢の溜まってしまう抑圧にならないように、周りや世の中や社会を見ながら、いちばん生きやすくできそうな「行動の選択」をしていくのが結局のところいちばん楽になるのだと思っています。
自分」という輪と「相手」という輪の重なり部分を多くするようなことをしながら、そこにもうひとつある「社会」という輪の3つの価値観の輪が重なっている部分で行動の選択をしていくのがいちばん生きやすいと思っているわけです。

ボクは、何か新しい重要な行動を起こすときは、この3つの輪を意識しながら行動の選択をしています。

そんな七面倒臭いことをみんなやっているかといえば、おそらくやっていないと思います。
でも、残念ながらボクは多くの人と違う価値観を持ってしまったマイノリティだから、この作業をしないとなかなかことがうまく運んでいかないんですよね。

多くのことを直感で「なんとなく」楽しそうなことだけやっていてもうまくいってそこそこ幸せなのであれば、その直感で生きていっても問題ないと思います。

でも、ちっともうまくいかない人はどこかに必ず「思い込み」や「決めつけ」があります。

コミュニケーションがうまくいかない、行動の選択が苦しかったり何度も同じ失敗になるということは、「自己理解」か「相手理解」か「自己開示」か「社会理解」のどこかに歪みがあると思っています。

少し、昨日の続きになりますが、深く「自己理解」をした本当の自分の気持ちを、「相手理解」「自己開示」「社会理解」をせずに、わがまま自分勝手利己的に出しているとそりゃあうまくいかなくなりますよね。

その、うまくいかないときに、多くの人が、相手や社会に合わせているふりをして、もっというと相手や社会の無理解のせいにして、せっかく「自己理解」した自分のいちばん大切な気持ちを諦めたり、自分のいちばん大切な気持ちに蓋をしたり、自分のいちばん大切な気持ちをなかったことにしたりしてませんか?

それって、自分のいちばん大切なところを無視している、自分に対する冒涜虐待自分でしていることだと思うんです。
自分に嘘をつく自分をごまかす…それは苦しいはずです。

「人の命の大切さを大事にしたい」「病に苦しむ人を助けてあげたい」大切な気持ちが根底にあって「お医者さんになりたい」と思っている人が、金銭的な理由や勉強が苦手で医大に行けなかったときに、「医者に向いていなかった」ことにしてませんか?
そうだとしたら、看護師でも介護士でも薬剤師でも本当の気持ちに近い気がするし、もっと言うとドラッグストアの店員でも本当の気持ちは貫けないでしょうか?
それを押し殺してサラリーマンになったりしてしんどいことになっていませんか?

本当は生き生きと働きたいと思っている主婦が、子育てや夫の無理解を理由に「良妻賢母なタイプ」だったことにしてませんか?
そうだとしたら、本当の気持ちは理解してあげておいて、今は子どもや夫のためにあえて時期じゃない別の行動の選択をしていると思っておくだけでいいのです。
いつか、子育てが終わり夫の理解が得られたときのために気持ちを大事に温めておくだけでいいのです。
無理に良妻賢母を演じるから辛くなるのです。
夢を持った生き生きしたお母ちゃんであり凛とした妻であればいいのです。

せめて自分だけは自分をいちばんよく知っている自分の理解者になってあげたら、たとえいろいろうまくいかなくても大丈夫だと思うんです。
だって最高の理解者が自分の中にいるのですから。

どうかみなさん、自分が自分の最大の敵にならないように、よく「自己理解」をしてあげてください。
自分を大切にしてください。
自分の心からの叫びを無視せずに受け取ってあげてください。
たとえそれが途轍もなくしんどいことであっても、自分だけは気づいてあげてください。

そして、自分を虐待しないでください

ボクはこれをじぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」で伝えていきたいと思います。

また、長すぎました(笑)。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
最近、ボクが自分を保っていられるのは、この「中立」な感じを自分なりに持つことができたからです。
中立」がわかりにくければ、「ニュートラル」な感じといえばいいんでしょうか。
コーチングスクールではそういう言葉の表現で教えてもらいました。

今、書こうとしていることは、スクールで教えてもらったことというより、それを知ったうえでボクが自分の中に腑に落とした部分なので、ボクの考え方として捉えてくださいね。
今の時点でボクが思っていることをうまく表現できるかどうかわかりません。
かなり感覚的な部分なので。
ただ、勉強会の報告などを書いている状態で、そろそろ現時点での今のボクの感覚を表現していかないと、ボクのやりたいことやこれからやろうとしていることは伝わっていかないと思ったので、あえて書いてみることにしました。
じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」を立ち上げるうえでもね。

最近よく、ボクは「豆腐さん、メンタル強いね」とか「豆腐さんって、厳しいね」って言われます。
自分では、自分のことを「強い」とか「弱い」とかあまり思っていません。
結構弱い部分満載です(笑)。
ただ、言えるのは、ボクが自分のことを「強い」部分も「弱い」部分も持っていると思うし、「強い」からいいよね、とか、「弱い」からダメだよね、とか、思っていないということです。

中立」や「ニュートラル」は、「いい」「悪い」や「正しい」「間違い」のジャッジをなしに、状態として受け止める、もしくは受け入れることだと思っています。

弱い」のが嫌だったら、強くなろうと努力すればいいし、そのままでいいと思えば、強くないとできない部分は「強い」人に頼ればいいと思います。
そこにまた、「頼るなんて弱いよね、そんな自分ってダメだよね」ってジャッジが入っちゃうから、「強くならなければいけない」という思いが出てくるし、「弱い」自分をダメだと思っているから強くなることにハードルの高さを感じてしまって、より強くなれなくなっちゃう、っていうパターンに陥っちゃうわけですね。
しかもここには「頼ること」は「弱い」という決めつけがあるし、「弱い」ことだから「頼る」こともダメだよね、って思っちゃってるから、頼れなくなってしまう。
そしてさらに「強い」人に憧れを持ち崇めてしまい、自分はできないことだからと劣等感を持ってしまう。
さらにまた「こんな自分ってダメだよね」ってなってしまう(憧れたり崇めたりするのがいけないといっているのではないですよ)。

この連鎖が苦しみを生むと思うんです。

頼る」という言葉には、「自発的にできない」という側面もあるけど、「それだけ人を信頼している」とも言えます。
頼る」ことは「いいこと」でもあるし「悪いこと」でもあるけど、もっと言っちゃうと、「頼る」ことは状態であって、「いいこと」でも「悪いこと」でもない、っていうふうに思えたら「自分をダメだ」とは思わなくなるっていうことです。
それを決めつけて思い込むから、ダメ出しが始まるんですよね。

ジャッジを全くするな、というのではなく、人は何かを判断していくときに、どっちがいいかを判断して選択をしていると思います。
ただ、自分の判断で何度も同じ失敗を繰り返してしまうときには、そこに偏った思い込みがありませんか?と自問自答しないと失敗は続くと思うんです。

よくボクは、直感だけで動く人を苦手だと言っています。
苦手という表現を使っているけど、きっとボクはそういう人があまり好きじゃないんだと思います。
直感でうまくいっていればそのままでいいんだけど、その直感でいつも前に進めなくなるんだったら、「なんとなく」嫌だからその選択をしない、ってのはちゃんとその「なんとなく」を見つめたら解決することが多いと思っているわけです。
その「なんとなく」に変な劣等感や罪悪感やコンプレックスがくっついていないですか?
その劣等感や罪悪感やコンプレックスが「なんとなく」嫌だと思わせていませんか?
を問いたくなります。

先日。ボクは、Facebookにこんな書き込みをしました。

うつをどうしてもやめたくなって、カウセリングを受けながらNLPを学んだ。
自分と向き合いたくなり、コーチングを学んだ。
違和感と向き合わざるを得ない状況になり、鏡の法則に徹して成長した。
成長段階で、次元が上がると、鏡の法則では腑に落とせなくなり、パラレルワールドに没頭した。
すべてを受け止めきれなくなり、 女性性を高めることに挑んだ。
思考の現実化も統合もわかるようになってきた。
物事が解決しないことも、科学で解明できないことも、なんとなく理解した。
頼ることも、完璧主義を緩めることもやってきた。
中立感を実感した。
どんなに頑張っても結果がすぐついてこないことも受け入れた。
諦めることを覚えた。
そして、諦めない自分も受け入れた。
結果がついてこないときに人や物事と関係することも自分なりに取り組みだした。
もうこれ以上何をどうしていいかわからないのもなくなってきた。
どこに挑戦し、どこで流れに乗るかも、感覚がつかめた気がする。
もう自分の哲学や思想は固まった。

それでも、まだまだな自分もいっぱいいる。
まだまだやることは出てくるかも知れない。

だいぶ、理想に近づいたけど、
自分のこと大好きだし、大切にできているけど、
傲慢にならないように、天狗にならないように、謙虚でいようとする自分が、いろいろブレーキをかける。

でも、もっと自分を信頼し、もっと自分に自信と誇りをもつ許可を出していいと思う。
今はなんだかそう思う。


うつをやめようと思ったときは、まだ「うつなんてダメだから」「うつなんて弱い自分だから」と思っていました。
そこから脱出するために学ぶうち、ボクの過去の人生は、ダメ出しにダメ出しを上塗りし、そんな自分を受け入れられず否定しまくって、そんな自分には蓋をし、隠し続けて、自分の強いところ、闘えるフィールドで優越感を味わおうと必死でした。

その最たる部分が「同性愛者である」自分を「受け入れられない」ことでした。

受け入れられない自分はひた隠し、「普通」を装える自分を前面に出し、弱くないと思っている部分はとことん強くなってやろうと思いました。

仕事、マラソン、料理などの得意分野で、人からの評価を気にしながら、まだダメ、まだ弱い、と自分を追い込み完璧を目指し、そのうち、その無理矢理な頑張りを受け止められなくなった心と体は壊れていきました。

結局のところ、いくら頑張っても、結婚し子供を作り子孫を残し苗字と墓を守ることで幸せになって欲しい親の期待は、他のものでは変えられませんでした。

母の介護がピークに来て、母の期待に沿うどころか、うつで面倒も看られなくなり、特別養護老人ホームに追いやった罪悪感に駆られました。

うつから脱出しようと思って、自己啓発な学びをして、結局ボクは、親の期待に応えられない自分を受け入れて、「それはできない、無理なんだ」と言う選択しかありませんでした。

周りから「気持ち悪い」と言われ続け、「本当に男が男を好きになること」に罪悪劣等を感じなければいけないのか、すべての自分の中のこだわりを捨てて考えたとき、ボクはそれが、「社会の決めつけ」であることに気づきました。

ひとを好きになるのに、性別は関係ないはず

ここから、ボクの自分を受け入れる作業が始まりました。
ゲイである」ことが苦しくなくなりました。
むしろ、ゲイだからこそ感じられるものがあると気づきました。
ゲイでなければ経験できない貴重なものがあることに気づきました。
ゲイであることがだんだん誇りに思えるようになってきました。

ボクは自分の全部を受け入れるためには、母にカミングアウトをする以外、考えられなくなりました。
しかし、それは自分のわがままを貫くだけではないのか、母はショックを受けて苦しむだけの結果にならないか、死ぬほど苦しい局面で究極の選択をしました。

でも、ゲイである自分受け入れたボクには、そのことを伝えるとき、もはや母に対する苦しみは「ゲイに産んでくれてありがとう」の感謝に変わっていました。

結果、母はボクのカミングアウトによって、「自分の介護で息子をうつにした」という勘違いからくる罪悪感から解放されることになりました。
まあ、ここはおまけでついてきたことではあるけれども。

これがまだ2011年12月のハナシです。

うつになったことも結局同じでした。
うつであった」ことが苦しくなくなりました。
むしろ、うつだったからこそ感じられるものがあると気づきました。
うつでなければ経験できない貴重なものがあることに気づきました。
うつであったことを乗り越えたことがだんだん誇りに思えるようになってきました。

でも、自分を受け入れ堂々と生きられるようになってからも、ずっとずっとまだまだやってくる違和感に向き合い続けてきました。
自分をごまかしていることに気づくたびに、逃げずに向き合ってきました。

そうして、やっと去年の秋に完全に腑に落ちたことが、物事にも出来事にも「いい」「悪い」や「正しい」「間違い」はないということ。
それは社会が作った「決めつけ」であること。
そして、さらに自分のなかに「思い込み」を作ってしまうことが起こしていること。

自分の中に、自分が苦しくなるような「決めつけ」や「思い込み」を自分で作っていたことに気づけば、苦しいことは何もなくなり、恥ずかしいことも何もなくなるのです。

そして、つい先日のFacebookの投稿のときに、この感覚があれば、「傲慢にならないこと」「天狗にならないこと」「謙虚でいなければならないこと」に縛られてまた苦しくなる必要もない気がしてきたわけです。

中立」を手に入れるためには、相当なしんどさがつきまといます。
もしかしたら、しんどすぎて受け入れられなさ過ぎて、死にたくなっちゃうかもしれません。
でも、これを手に入れたら、苦しいことなんてなくなります。
苦しむことが素晴らしいものだとさえ思えるようになります。

本当は心の奥が苦しんでいるのに、蓋をして明るいふりをして、「なんとなく」で生きるということが、いかに自分の本心をないがしろにし、いかに自分に不正直であるか、考えてみてください。

そして「中立」を手に入れたら、なんでも「受け入れられる力」をつけたら、怖いものなど何もないのです。
びくびくして生きなくていいんです。

みんな、自分の本心には自分自身が味方であってください。
自分自身を大切にしてください。
せめて、自分だけは自分自身をわかって守ってあげてください。

ボクの言う「自己理解」とはそういうことです。

長すぎました。
読んでくれてありがとう。