昨日、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」5月度【セルフイメージチェンジルーム】 のご報告をしたばかりですが、今日は次のご案内です。


しろにじカーサロゴ

毎月第4土曜日は【マイノリティスタディ ルーム】です。

こちらのルームでは、ほかの人とどこか違う、違和感に感じているところを個性に変えていくアプローチで、よりよい行動の選択ができるように、マイノリティの題材を使って、参加者のみなさんにディスカッションを重ねていただきます。

本当の「じぶん」、話してみませんか?

じぶん発見プロジェクト「

【マイノリティスタディ ルーム】

日時 : 5月24日(土)13:15~16:15
参加費 : 3,000円
参加定員 : 20名
場所 : ナディアパーク(青少年文化センター) 8F ビデオルーム
    名古屋市中区栄3-18-1 ナディアパーク内
    地下鉄名城線・東山線「栄駅」より徒歩約7分, 名城線「矢場町駅」6番出口より徒歩約5分


ナディアパーク地図

どなたでもご参加いただけます。
興味のある方はぜひお問い合わせください。

今回は「ありがとうってなに?」というテーマで開催します。


しろにじカーサチラシ表

しろにじカーサチラシ裏

お問い合わせ・お申し込み先

「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)

  Tel : 090(9262)8782
  携帯mail : torff_sessionroom@ezweb.ne.jp

活動ブログ「豆腐の Activity Life 」、Facebook、mixiメッセージ、twitter、
こくちーず などからもお申し込み可能です。
定員になり次第終了させていただきますのでご了承ください。
お受付させていただいた方には24時間以内にご連絡させていただきますので、メールアドレスを添えてお申し込みください。

主催:「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)


たくさんの参加表明お待ちしております。

昨日は、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」を始めて2回目の【セルフイメージチェンジルーム】でした。


しろにじカーサSCR5月1

今回は「視点を変える」というテーマで、「認知の歪み」「リフレーミング」を説明しました。


しろにじカーサSCR5月2
しろにじカーサSCR5月3

今回は、クルー(スタッフ)も1人のみ、それ以外の参加者2名という小規模なワークショップになりました。
以下、参加されたみなさんの感想です。

【アキ子さん】小さな違和感を大切に、自分が自分にやさしくできるようにしていきたいと思います。
【tさん】さすが豆腐さん、テーマの掘り下げかたが「ここまで、いくかー!」って感じで、とてもよかった。
【さっちゃん】認知の歪みについては知っていたけど、どういう影響を及ぼしているかまでは考えられていなかったのでいい勉強になりました。


しろにじカーサSCR5月4

今回は、割とプライベートでも親密にしてもらっている方ばかりだったし、ボクのことをよく理解されている方ばかりだったので、ちょっと深めに講師させていただきました。

リフレーミングは、ネガティヴな要素をポジティヴに言い換えてみる、捉え直してみる、という手法ですが、その効果とともに、人間のココロの思考パターンの癖をあわせてお話し、具体的な参加者のみなさんのネガティヴな思い込みについてもひとつひとつ癖を探ったりもしました。
けれども、それは手法のひとつであって、本来は自分にダメ出しをしてしまいがちなところがネガティヴスパイラルになるということに気づいた方がいいこと、そのダメ出し感をどうやって解消していくかということについてたくさんお話させていただきました。
最近、ブログによく書いていることなどもたくさんお話させていただきました。
特に、自分の思い込みを作ってしまった環境を正しく憎むことについては、詳しくお話しました。


しろにじカーサSCR5月5


もっと、みんなに話をしてもらおうというのが、前回の方針だったのに、またボクがたくさん喋ってしまいました。
伝えたいメッセージがたくさんあったのもあるけれど、今回の参加者のみなさんは、ボクの話すことを聞いて理解したい人ばかりだろうな、とも思ったので、今回もかなり満足しています。

盛況になることも大切だけど、少人数のときこそ、より参加者の方に物足りない思いをさせたくなかったのもあったかもしれません。
少人数のときしかできないワークショップになりました。
みなさんの「よかった」という気持ちもきちんと伝わってきました。

参加してくれたみなさん、ありがとうございました。

比較する」ことがよくないことのようにいうひとがよくいます。
比較する」こと自体そんなにいけないことでしょうか。
思考パターンの悪い癖の例です。

ひとと比較して、自分が劣っていると劣等感が出て「そんな自分ってだめだよね」って自分にダメ出しが始まります。
ひとと比較して、自分が優れていると優越感が出て傲慢になり、ひとを傷つけます。
ひとによっては、もしかしたら、「傲慢な自分ってだめだよね」って自分にダメ出しが始まります。

ひとと比較して、相手が劣っていると相手を蔑み「こんなひとってだめだよね」って相手にダメ出しが始まります。
ひとによっては、もしかしたら、相手をダメ出しする自分にダメ出しが始まります。
ひとと比較して、相手が優れていると嫉妬心が出て、「そんな自分ってだめだよね」って自分にダメ出しが始まります。

幸せなひとを見て、自分の不幸を嘆きます。
で、また自分にダメ出しします。
成功したひとを見て、できない自分を嘆きます。
で、また自分にダメ出しします。

みんな、これってよく知っているよね。
でも、「だから比較することがよくない」とか「比較するのをやめよう」ってなるよね。

比較は悪くないと思うんです。
比較すると自分の個性が見えてくるから。

比較」が悪いのではなくて、比較してダメ出ししたり、余分な感情が自分や相手を傷つけることがよくないんだよな。

比較して、相手が優れていれば、嫉妬するんじゃなくて尊敬したり学べばいいんだよね。
比較して、自分が優れていれば、傲慢にならずに自信を持てばいいんだよね。

比較して、ただ、それをひととの違いと受け止めればいいのです。

昔は、ひとと違うことが辛かったです。
なんでこんな風になっちゃったんだろう、ひとの輪の中には入れない、共感するひとがいない、孤独だ、寂しいし悲しくて、こんなんで生きていけるんだろうか不安で。

でも今は、ひとと違うことがボクをいきいきと存在させてくれています。

こう生まれてこなかったら、こういう考えを持たなかったら、今のようなボクはありえません。
すべての苦しかった過去が、今のボクの肥やしになっています。

ひとや社会と「比較」することが苦しみだったし傷になったものだったけど、今はただの状態だと思っています。

比較」することがなければ、逆に今は自分の存在価値を確認できないかもしれません。

ダメなのは「比較するここと」ではなく、「比較すること」によって生じる意味のない思考パターンやダメ出しです。

比較することで、傷つくくらいなら、一旦比較するのを一時的に避けてみるのは大賛成です。
でも逆に比較せずに、自分の存在価値を見出すのも難しいです。

違っているから、関係するのが楽しいのです。
おんなじ考え方の人間なんて存在しません。
だけど、所属の欲求や共有感の欠乏や孤独感の回避から、人間はひとと関わり、生きる意味や生きる価値を感じるんだと思います。

そうしたら、比較しないなんて、無理ですよね。
上手に比較したいものです。
日曜日は「マインドスペース夢カフェ 」で「コンプレックスを個性に変える」というテーマで講師をさせていただきました。


第20回マインドスペース夢カフェ1

第20回マインドスペース夢カフェ2

コンプレックスはその人のただの特徴であり、短所とは限らないというような内容のものです。

そこで認知療法や認知行動療法で言う「認知の歪み」のハナシをしました。

認知を歪ませるココロのパターンについて10とおりあることを話しました。

①二分割思考(全か無か思考・白黒思考・二分化思考)
②過度の一般化(一般かのしすぎ)
③選択的抽出(心のフィルター・心のサングラス・心の色メガネ)
④マイナス化思考(マイナス思考)
⑤結論の飛躍(心の読みすぎ・先読みの誤り)
⑥拡大解釈(誇大視・拡大視・破局化・破滅化・双眼鏡のトリック)と過小評価(凝縮視)
⑦感情的理由づけ(感情的決めつけ)
⑧命令的思考(すべき思考・せねばならない思考)
⑨レッテル貼り
⑩自己中心的思考(自己関連づけ・個人化)


この詳しい内容については、5月のじぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」【セルフイメージチェンジルーム】 で説明するので、よかったら参加してね。

で、この内容はともかく、そういう心のメカニズムがあるとして、そこに引っかかってやられてしまったりネガティヴ思考になぜなってしまうんだろう、なぜこういう心のメカニズムになってしまったんだろう、ということが参加者の方から声がありました。

その話題が、「
マインドスペース夢カフェ 」のあと、ほかの参加者の方と懇親していたときに、なぜみんな自分にダメ出しをするんだろう、という話に発展しました。

何事もうまくいっている人は何も考える必要はありません。
うまくいってない人、うまくいかなかった人は、自分のダメ出し感に向き合う必要があるよね、ということになりました。

なぜ、うまくいっているひとは、何も考えなくてよくて、うまくいってないひとだけ、自分のダメ出し感に向き合わないといけないんでしょうか。

それは、そのうまくいっていないひとに何らかの痛み苦しみがあるからです。
苦しみ痛みががあることわかっていて、見ないように蓋したり、受け止めようとしないのって、病気だというのがうすうすわかっていて病気を治そうとせずに鎮痛剤打ってやり過ごしているのとおんなじだと思うのです。

もっというと、やりたいことができていないのに、それをやりたくないことにすり替えて、やりたいことだけやってりゃいいって思い込んでいるっていうのは、痛む前に鎮痛剤を予防のように飲んでいるのとおんなじだと思うのです。

鎮痛剤はいつか効かなくなりますよ。
体は麻痺していきますよ。
病気は悪化しますよ。

苦しまなくていい人は健康な人だけ。
と、ボクは思っています。
ボクが」思っているだけですが。

もともとの自分の考え方のパターンと、親の教育社会のルールが違うときに、両方が上手く受け入れられなかったり、深く傷ついたときに、自分へのダメ出しが始まるんじゃないかと思うようになりました。

自分のルールが間違っているわけじゃないのに、親の方針社会のルールと合わないと、はじき出されて、自分へのダメ出しが始まるんですよね。

自分のルールを「間違っている」ことにしないと社会で生きていけないから。

そうだとしたら、自分が「間違っていない」ことを受け入れるために、一旦、社会のルール親の決めつけた教育が自分を苦しめていたことをしっかり恨んだり憎んだりしないと、自分が「間違っていない」ことに気づけないんですね。

親や社会を恨んだり憎んだりするなんてダメだよね、ってさらに自分にダメ出しをすることも止まらなくなっていくわけです。

親や社会に怒りをぶつけろ、と言っているのではなく、そういう思い込まされ方が自分を苦しめていたことをしっかり知って、しっかり落ち込むことが必要だと思うんです。

そうして初めて、こう思い込んじゃったのは仕方がないんだ、自分が悪かったわけじゃないんだと思えるのだと思います。

そうすると、ダメ出ししちゃってた自分が自分で赦せて癒せるようになるんだと。

自分にダメ出しをしなくなると、そういう決めつけをした親やこうなってしまった社会のルールも赦せるようになります。

そうして自己否定満載の自分になっていってたことに気づきます。

自己肯定感を上げるには、本来の自分と違う決めつけをし続けた親苦しいルールを押しつける社会を「正しく憎む」ことが必要なんだよね、って思いました。

正しく憎む」ことをして「正しく挫折する」ことをきちんと出来ている人は、自己肯定感も上がり、一旦憎んだ親や社会も、自分を赦せているから簡単に赦せるんだろうな、って。

自分が「変わっていく」ことは怖いです。
変わる」ということは新しい考え方を始めるのだから、未経験のことをするのは怖いに決まっています。

その恐怖のあまり、「変わらない」ことを選択してしまうんですね。

でも「変わらない」ことはいつまでたっても苦しいままです。
みんな恐怖のあまり苦しみ続けているんです。

苦しい」ことは、経験済みで、ずっと耐えていたことだから怖くないのです。
変わらない」ということは、恐怖に向き合わなくていいから楽なんです。

みなさんは「苦しいままの人生」を続けますか?
気づいて、変わって、「苦しまなくていい人生」を選びますか?

今日の「マインドスペース夢カフェ 」は、ボクにいい気づきをくれたと思います。

反省点はあるけれど、いいワークショップになりました。
ボクは「頑張る」ことが大好きです。よく「頑張ります」と言います。
そうすると、決まって返ってくる反応が「豆腐さん、頑張りすぎてて心配」とか「豆腐さんにとって頑張るって無理することなの?」といった反応。

そこで、「頑張る」を辞書で調べてみました(笑)。
頑張る」とは「我に張る」の転で、意味としては3つ掲載されていました。
ちなみに広辞苑です。

①我意を張り通す。
②どこまでも忍耐して努力する。
③ある場所を占めて動かない。


そうか、この意味だと、ボクはみんなが言うとおり「無理しているのかもしれないな」と思いました。
普段ボクが使っているのは②の意味。用例が書かれていたけど、「成功するまで頑張る」、まさにこの使い方です。

ボクは確かに無理するほど頑張りすぎてうつになりました。
このときは確かに無理をしていました。
ただ、今のボクは、そもそも頑張りたい自分というものを受け入れてしまったので、無理をするほど頑張りません。
多少は「無理」に近いかもしれませんが。

言い換えると、100%力が出せるとして、いつも60%くらいでやっていることを、どうしてもやりたいことに関しては,100%に限りなく力やエネルギーを注いで、成果や結果を残したいので、そうできるようにモチベーションを上げてみる感じでやってみているのがボクです。
決して、120%や150%にしようとしているのではないし、ましてや倍返しするつもりもありません。
「成功するまで」っていうのは、そもそも「成功」が「無理」だというときに、100%を超えるって解釈です。

ボクの中に、「頑張る」の中に「健気」みたいなイメージがあるのは、間違いなくボクの観念だけど、「頑張る」の中に勝手に「無理する」イメージを付けているひともそのひとの観念ですよね。

よく、うつのひとは、頑張れなくてうつになってるんだから、「頑張れ」って言っちゃダメだと言います。
総体的に見て、それはその通りだと思います。
ただ、うつになった自分は明らかに「無理」だったけど、うつの最中でもボクには「頑張れ」は励ましでした。
朝起きられたとき、食事が取れたとき、外出できたとき、眠れたときは、「よく頑張ったね」と自分に言っていました。

オリンピックのときなど、「がんばれ、ニッポン!」とかいうロゴ見ると元気出たもんです、ボクは。

そもそも悪いイメージの言葉でないのに、無理に悪いイメージの言葉を意味づける必要はないと思います。
頑張る」という言葉自体に、良いも悪いもありません。
たまたまボクがいい意味づけをして使っているだけです。
それでボクの内面がうまくいっているのに、他人に「頑張れ」って言っているわけでないのに、それって余計なお世話だと思います。
心配してくれてるのに悪態つくようだけど。

ボクは確かに頑張りたいことに夢中になりすぎて体を壊していました。
だから「頑張る」ことに罪悪感がありました。
でも今は、ときどきやりすぎるけど、充分体を壊さないように配慮しながら頑張っています。
それがたとえ、ほかのひとにとっては「無理」なことでも、ボクには「無理」じゃないこともあります。
もちろん、一般的に見てやりすぎてることに自分が気づいてないときはありがたいし嬉しいんですが、そもそも、頑張れるエネルギー量は人それぞれなんだし、やる気を削がないで欲しいな、と思っていたりしました。
社会的に、これは「無理している」って捉えられるんだなぁ、って解釈していました。

でも、ボクは「頑張っている」人が大好きです。
そういうボクも頑張っているひとに「無理はしないでね」とやっぱり言います(笑)。

この辺は去年の11月に別のブログに書いたことです。

最近感じるのは、急にまた「頑張るな」とか、「頑張らないで自然体でいる」っていうひとがたくさん増えてきたような気がして。
ブームなんですかね。
そういう方たちが提唱しているのは、きっと無理して頑張っちゃう人に向けて言っているんだと思います。

・頑張らないと結果が出ないに決まっているから無理やりやる気を出して頑張っちゃって心や体を傷めてしまう人
・頑張らない自分ってダメだよね、って自分にダメ出しをしている人
・頑張ることで人に認めてもらおうとしている人
・罪悪感や防衛本能で頑張っている人


こういう人は「頑張る」ことをやめたほうがいいとボクも思います。

でも好きなことわくわくすることをついつい頑張っちゃうのはやればいいと思います。
ボクの場合は度が過ぎて、やりすぎて体壊すことが多かったから、ブレーキかけましたが。

最近は、やりたいことやりながら、体が疲れないように横になる時間を作るようになったから問題なくなってきました。
体休めながら、やりたいことをやることもできる方法を覚えました。

たとえば、スポーツ選手が筋肉を衰えさせないように毎日トレーニングしたり、ピアノの練習は指が忘れちゃうから毎日するとか、そういうのを「頑張れ」っていうことにはきっとみんな「頑張るな」って言わないですよね?

いつも出している力より、ちょっと余分に努力をプラスアルファしたほうが結果がうまく出ることもありますよね?

なにかの目的があって、そこに少し頑張りを入れたほうが加速がつくときは頑張ればいいんだと思います。

そこに無理が出てくるなら、頑張らなきゃいいと思います。
なんでもかんでも「頑張るな」っていうと、何もしなくなっちゃうひとがいるんですよね。
大きな勘違いだとボクは思います。

今はなんでもやってみるべきという人や、あとちょっとの努力で成果が出る人に「頑張るな」はやめてほしいと感じます。

今やめちゃいけない人が、「頑張るな」というのを読んでやめちゃうことを悲しく思います。

無理してやっている、「頑張る」ことをやめたほうがいいひとが頑張っちゃうんです。

ちゃんと意味をよく理解して自分のやり方に取り入れて欲しいとつねづね思います。

ちゃんと「頑張る」ことの苦しみ価値も両方分かっているひとは頑張ればいいのです。
それを理解しているだろうひとには、「心配」をせずに「応援」をしてあげればいいのです。

心配」が迷惑だと言ってるのではないですよ。
応援」が欲しくて言っているのではないですよ。

まあ、「頑張る」ひとも「心配する」ひとも「応援する」ひとも、選択する人の勝手ですけど。

あくまで、個人的見解です。
4月24日のCNNニュースで、「米女優ジョディ・フォスターさんが同性婚」というニュースが出ました。

↓詳しい記事はコチラ。
米女優ジョディ・フォスターさんが同性婚
http://www.cnn.co.jp/showbiz/35047022.html

ジョディ・フォスター同性愛者であることは、ずいぶん前からよく言われていたことだし、去年は大々的にカミングアウトもしていたので、さほど驚きもしませんでした。
というか、ボクは勝手に彼女はスマートだし、そういう形式的なことは興味がないのかと勝手に思い込んでいました。

一方で、ネームバリューのある有名人がこういうことをおおっぴらにすると、いろんな人に影響も与えるし、たくさんのセクシュアルマイノリティの方たちに勇気を与えるとも思いました。
結局のところ、それぞれ個人の選択なので、自分が生きやすい選択をすればいいのだと思います。

そんなことを思っている矢先、4月30日のハフィントンポストに「『日本では同性愛を話題にすらしない』LGBTの祭典『東京レインボープライド』参加者が訴え」という記事が出ました。

↓詳しい記事はコチラ。
「日本では同性愛を話題にすらしない」LGBTの祭典「東京レインボープライド」参加者が訴え
http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/27/tokyo-rainbow-pride_n_5222427.html

この訴えは「差別しない寛容さを持って」というのが主たる中味ですが、こういうことが話題に出るたびにいつもボクが思うことがあります。

こういう運動をして、汎く社会に存在を知ってもらい、生きにくさを少しでも和らげて、いろんな選択ができるように選択肢を増やしていくのは、とてもいいことだと思う、ということです。
このことは、本当に心からそう思っているので、勇気ある活動家の方々にはものすごく感謝をします。

でも、その一方で、ボク自身は今の社会でさほど生きづらさもなく、苦しんでいないせいもあって、今の世の中や、社会の制度や仕組みを受け入れているので、なんら変わることはありません。
カミングアウトする前の、ゲイである自分罪悪感を感じてたころに、もっと寛容な社会だったら、早くに今の生きやすさを手に入れられらたな、と思います。

多くの方が、まだまだしんどい思いをしているし、当事者であるので、「マイノリティのパイオニア」とか名乗って、こういう記事を書いたりしているわけです。

ボクが望んでいるのは、もちろん寛容な社会であることでもあります。
でも、それより望んでいるのは、セクシュアルマイノリティ当事者の、内面です。
セクシュアルマイノリティに限らず、あらゆるマイノリティであるとも言えます。

今、セクシュアルマイノリティ5.2%存在すると言われています。
先日、左利きの人が全体の12%いると聞きました。
セクシュアルマイノリティの2倍以上いるとも言えますが、似たような数字であるとも思えます。
どちらもマイノリティであるとしたら、なぜ、セクシュアルマイノリティ左利きの方のように堂々としていられないのでしょうか。

かつては、左利きの方も矯正させられたものでした。
社会の理解の変化によって、ただの利き腕の違いのように捉えられていったように思います。

確かに、性の問題は、ただそうであるというだけで話題になりにくいダブー視されやすいカテゴリーだとは思います。
でも、最近は多くのオネエの台頭によって、それも和らいできていて、相当生きやすいようになったとは思います。

今日の朝の情報番組で、ジョディ・フォスターが取り上げられ、メインMCの方が「ジョディ・フォスターの子どもはジョディ・フォスターのことを『パパ』と呼ぶんだろうか?」という実に陳腐な疑問を投げかけていました。
そういうのを聞いて、当事者以外は何も違和感を感じないのです。
そういう世の中なのです。

理解されて始めてきた、とか言いますが、ボクが「同性愛者」だとカミングアウトしているのに「性同一性障害の豆腐さんはどう思うの?」とか訊かれたりします。
豆腐さんは「男役なの?女役なの?」とみんな平気で訊いてきます。

ボクは、性自認は「」だし、「」であることになんの違和感も感じていませんし、「」として性対象が「」なので、どちらがどちらの役割をするとかはないのです。

みんな、興味本位に興味を持ちますが、理解しようとして興味をなかなか持ちません。

ボクはそれが嫌で不快だと言っているのではないです。
みんな、当然そう思うだろうな、と思うので、普通に答えてますよ。
答えるのが面倒だとも思っていません。

でも、確実に、カミングアウトする前のボクは、そういうのが嫌でたまりませんでした。
だから、多くのセクシュアルマイノリティの方はまだまだそう思うだろうから、社会に知識を増やしてもらいたいな、と思います。

では、なぜ、ボクはそれが平気になったのでしょうか。

こういうことを多く取り上げてくれている番組などでも、当事者や周りが「まず理解をして欲しい」ということを言います。

ボク自身、「もっとボクらのことを分かってよ」と言わんばかりになっていた時期があります。
そんなに分かってもらわないと何もできないの?」とも何度も言われました。

先日、このブログの「愛情というコップ」の記事で、「ボクは、ボクの望む幸せに見合った『愛情』をくれなかった親に対して、居心地の悪さを感じました。家はボクのいていい場所ではないと、ほかに居場所を求めました。親の期待に添えない自分を責め、ときにはそんな親に対して憎しみや怒りを憶えたりしていました」と書きました。
ボクの親は自分の子どもに「結婚して子どもを産んで家庭を持つ」ことが子どもの「幸せのカタチ」だと思い込んでいました。
しかし、それが同性愛者のボクには叶いませんでした。
ボクの求める「幸せのカタチ」は違うところにありました。
子どもの「幸せのカタチ」についてそういう思い込みを持った親に育てられると、子どもはどうなるでしょう。
ひとつの「幸せのカタチ」をそれしかないように刷り込まれて育てられると、そうでない子どもは「自分は幸せになれないダメな人間だと思うようになります。
しかもそのうえに、「親の期待に添えないダメな人間だと思うし、ほかのひとのように普通に「幸せな家庭を作れないダメな人間だと思うようになります。
その日常の繰り返しや積み重ねが、自己肯定感を失い、自己否定感でいっぱいになっていくわけです。

でも、ただ利き腕が違う子どものように、ただ恋愛対象として好きになる性別が多くのひとと違うだけと親に認識があれば、その一方的な「幸せのカタチ」の押しつけはしなくなるんじゃないでしょうか。

ボクは、そのひとと違う部分を隠すようにして、そうじゃない普通に出来る自分をアピールして、「ここまで長けている部分があるなら、そのハンデは見逃してくれるだろう」という無意識の思い込みで、反発で何でも頑張ってきたわけです。

いちばん肝心なコンプレックスを自他ともにダメ出ししているんだから、それはいつまでたっても生き苦しいに決まっています。

ひとを好きになるのに性別など関係ない」と思えるようになるのには50年がかかったわけです。
なんとなく、そう思っていたけど、きちんと腑に落ちて、同性愛者であってもなんら恥ずかしいことなどなく、性の多様性のひとつだときちんと思えるまでは、50年かかったわけです。

マイノリティであったっていいじゃん」と簡単には当事者は思えないのです。

だから理解を求めるのです。
寛容を求めるのです。

何度も言いますが、今は相当寛容な社会です。

でも、欲を言うなら、「豆腐さんはそのままでいいけど、やっぱ50歳で独身だと、どこか欠陥があるよね」ってみんなが思ってしまう世の中なのです、という感じはなんとかしたいところです。

そうして、多くのひとが、小さな表現ひとつに傷つき、「マイノリティだっていいじゃん」なんてとても思えないわけです。

ハンデと思わなくていいことを、ハンデと思わせてしまう社会や思い込みに憤りを感じます。

でも、そうなってしまったら、当事者自身が、まず、自分に「ハンデ」であり「ダメ」だと思っている部分を、「ダメ」じゃなくする必要があります。

周りが認めてくれたって、自分自身が「ダメ」だと思っていたら、「幸せ」にはたどり着かないと思います。

不公平さ・不条理さ・理不尽さは改善されたほうがいいと思います。
でも、その不公平さ・不条理さ・理不尽さから、権利取得に行きがちなんだと思います。
だから、こういう記事や話題はものすごくよくわかります。

ボクは、権利を主張する前に、自分の中味を整え、自己肯定感を上げる作業をしながら、今出来ると思える限りの最高の選択をしながら、生きていくほうが「幸せ」を感じられると思っています。

社会の寛容さは必要です。
それ以上に、自分のダメだと思い込んでいる部分を受け入れることが重要だと思います。

このところ、ずっと「共有」が大事だとも言ってきました。
相互理解」と「受容」と「共感」が「共有」に繋がります。

小さいころから、親にいっぱい共有してもらってきた子どもは自己肯定感の高い子どもに育ちます。

だから、ちょっとくらいひとと違っていても、小さいころから、親や大人や社会の決めつけを押し付けず育ててくれれば、自己否定感でいっぱいの子どもにはなりません。

そして、それは、どんなに年を取ってからでも取り返しがつくのです。
ボクのように。
今からでも、自分自身自己肯定感を高め、汎く共有感を得られれば、充分幸せになるのです。

そういうことがクリアされていれば、「カミングアウト」など、してもしなくてもどっちでもいいのです。

ボクのことを「面倒くさいヤツ」と思う方は、ぜひ、「あなた自身の中にある本当は大事な気持ちを面倒くさいからとおざなりにして見ないフリをしている部分の投影(反映)」だと思ってください。

みなさん、自分のココロと向き合って欲しいと心から願います。
昨日、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」4月度【マイノリティスタディルーム】 のご報告をしたばかりですが、今日は次のご案内です。

しろにじカーサ ロゴ

毎月第2日曜日は【セルフイメージシェンジ ルーム】です。

こちらでは、深く自分を理解し、よりよい行動の選択ができるように、コーチング・カウンセリングなどの手法を使って、参加者のみなさんにディスカッションやワークをしていただきます。

本当の「じぶん」、話してみませんか?

じぶん発見プロジェクト「

【セルフイメージチェンジ ルーム】

日時 : 5月11日(日)13:15~16:15
参加費 : 3,000円
参加定員 : 20名
場所 : ナディアパーク(青少年文化センター) 8F ビデオルーム
    名古屋市中区栄3-18-1 ナディアパーク内
    地下鉄名城線・東山線「栄駅」より徒歩約7分, 名城線「矢場町駅」6番出口より徒歩約5分


ナディアパーク地図

どなたでもご参加いただけます。
興味のある方はぜひお問い合わせください。

今回は「視点を変える」というテーマで開催します。

しろにじカーサ受講生募集用チラシ表
しろにじカーサ受講生募集用チラシ裏

お問い合わせ・お申し込み先

「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)

  Tel : 090(9262)8782
  携帯mail : torff_sessionroom@ezweb.ne.jp

活動ブログ「豆腐の Activity Life」、Facebook、mixiメッセージ、twitter、
こくちーず などからお申し込みください。
定員になり次第終了させていただきますのでご了承ください。
お受付させていただいた方には24時間以内にご連絡させていただきますので、メールアドレスを添えてお申し込みください。

主催:「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)


たくさんの参加表明お待ちしております。
今日は、4月の入って初めての「じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』【マイノリティスタディルーム】」でした。

じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』」自体は2週間前に開催しましたが、「セクシュアリティ勉強会」を終わらせて、同じような動画を見てディスカッションしてもらう形式の、ある種続きのようなワークショップは初めてで、当事者じゃないマイノリティを題材にするのは初めてだったので、少しわくわく感と不安感が同居するような緊張感を楽しみました。

4月MSR1

以下、参加されたみなさんの感想です。

【R.I.さん】いろいろ考えることが多く、なかなか感想が出てきませんが、友人が少ないことを悩まないようにしたいですね。
【田村さん】マイノリティスタディって何をするのって思っていたから、とても面白かったです。
【かすみさん】むずかしい。「弱者」って自分は意識あまりないけど。


4月MSR3

今回は、発達障害の例を動画で見てもらいながら、「友達ってなに?」というテーマでディスカッションしました。

動画の中心人物は10歳のADHD(多動性障害)高機能発達障害の男の子で、家族の理解を得ながら、「友達」をたくさん欲しいと思っている「光くん」という名前の子でした。
まず、参加者のみなさんの持っている「友達」の概念や定義を話してもらって、光くんの欲しい「友達」とどう違うかを話し合ってもらいました。
光くん理解者を求めるときに、家族や先生以外では、その理解者が「友達」でした。
理解者がたくさん欲しいし、生きていくのに助けが必要だったので、「友達」はたくさん必要でした。
でも、たくさんはなかなかできないし、なかなか理解されないから、「友達」を作るために、「言いたいことを我慢する」ことが必要でした。

参加者のみなさんからは、「友達の数は関係ない」「何でも話し合えるひとが友達」というフレームがありました。

どうして「友達」の概念や定義が光くんと違うのでしょう?
みなさんは光くんの「友達」になれそうですか?
なれたとしたら、どんな配慮をしますか?
どんな配慮をしないようにしますか?

などをディスカッションしてもらいました。
セクシュアリティ勉強会」のときと同じように、みなさんとまったく違うひとの立場になってみたり、周りにそういうひとがいたらどうするか、を当てはめてもらいながら、またほかの参加者の方の意見を聞きながら、ひととの違いを知り、自分の理解を深め、相手の理解も深め、本当の自分を伝えながら、社会の中でどういう行動をしていくかの応用をしていけたらな、と思いました。
ひとと違うことは「ダメ」なことではなく、ひとつの「特徴」であり、それがこれまで伝えてきた「個性」なんだとお話しました。
相手を「弱者」として捉えるのではなく、「関心を持つ姿勢」でいると「理解者」になれるのではないでしょうか、とも伝えさせていただきました。
弱者」として捉えることは、自分の弱い部分を受け入れてないのではないでしょうかということもお話しました。

少し、気合を入れすぎたかもしれません。
ちょっとメッセージが入りすぎて喋り過ぎたかもしれません。
みなさんの、もっと話したい「本当のじぶん」には、ちょっとずれていたかもしれません。
ちょっと参加者のみなさんを疲れさせたかもしれません。
ボクも少し疲れました(笑)。


4月MSR2
4月MSR4

もう少し、スローなテンポでゆっくりメッセージを伝えたほうがいいのかもしれませんが、このプロジェクトで伝えていきたいことはとても明確化しつつあるように感じました。
ボク自身はすごく満足していますが、もっともっと講師力を上げる必要も感じました。

4月MSR5

参加してくださったみなさん、ありがとうございました。
今日は「愛情」のお話です。

ボクのところにセッションを申し込んでいただいてるクライアントさんは、ほとんどが、セクシュアルマイノリティの方か、メンタルの病気の方か、なにかの障がいを持たれている方か、過去に大きなトラウマを持っている方か、人間関係がうまくいっていない方のいずれかです。
誰にも言えなくて、これからも言わずに墓場まで持っていこうと思っていることを、なんか豆腐さんなら言えそうな気がするとか、豆腐さんにだけ言いたくなったという方もいらっしゃいます。
また、女性のクライアントさんの場合は、ボクが同性愛者ということで、男性独特の本能的なものを感じず、女性の気持ちも汲みやすいという方もいらっしゃいます。

そうして、セッションさせてもらっていると、大体の方がご両親との関係から出来上がってしまった思い込みによって苦しくなっちゃっている方ばかりのように思います。
というか、問題となっている出来事はまったく違うけれど、最終的にご両親への感情にたどり着きます。
その感情に無意識に蓋をしてしまっている方が多いと思います。

最終的には、そういう感情を持ってしまった自分の環境を受け入れ、自分の本当の感情に気づき、自分を赦し、親を赦すことによって、自分を取り戻していってすべて癒されることがほとんどだったりします。

ボクの場合は、長男として苗字を引き継ぎ木股家の墓を守るという形が親の望みでした。
それは、両親と子どもがいる家庭が幸せに決まっているという親の観念からくるものだと思いますが、残念ながらボクは同性愛者だったので、その形では幸せになれませんでした。

親に対する怒りや、親から受けた虐待などによって、多くの人が同じようなことになってしまいます。

親の望む子どもへの期待が、子どもの幸せの価値観と合致していれば、その期待はおおきな後押しになるでしょう。
小さなころから、親の英才教育を受け、それが子どものやりたいことと合致していると、素晴らしいプロフェッショナルとして才能を開花することになります。
でも、親から無理矢理にさせられていた習いごとは、大して実を結びませんよね。

それを経験してしまった子どもは、親の歳になってようやく親の立場を理解できて、自分も子どもに無理な期待をかけてしまっていることに気づいたりします。
自分が、そういう思いを子どものころにしていたのに、自分の子どもには自分の価値観を押し付けてしまいます。
自分の親と同じことを、自分もしてしまったりします。

ボクは、ボクの望む幸せに見合った「愛情」をくれなかった親に対して、居心地の悪さを感じました。
家はボクのいていい場所ではないと、ほかに居場所を求めました。
親の期待に添えない自分を責め、ときにはそんな親に対して憎しみや怒りを憶えたりしていました。

でも、ほとんどの親は、子どもを愛しています。
子どもに「愛情」を注がない親などほとんどいないのです。

自分の求める「愛情」と違う形の「愛情」をくれていたはずです。
自分の求める「愛情」と形が違うと「愛情」をくれていなかったことにしてしまうんですよね。

心の中の「愛情」という名のコップの中身はからっぽだと思い込んでしまっています。
でも、本当は、自分の心の中にある別の「愛情」のコップが見えていないだけなんですよね。
いつも「愛情」で満たされていたいコップの横に別のコップがあって、そのコップは「愛情」が溢れかえっているのに、見えていないから気づかないだけなんです。
愛情」を満たしたいコップしか見ていないのです。

愛情」をもらえなかったと思っている人は、残念ながら小さいころからの共有感があまりなく、自己肯定感の低いひとになっていきます。
自己肯定感の低い、自尊心の育っていない子どもは、自信がなかなか持てず、人との関係性もうまく築けず、目標を持ったり達成したりすることが困難になっていくんですね。

でも、今からでも遅くはないのです。
周りの「愛情」に溢れているコップに気づけば、自分で欲しいと思っていたコップに「愛情」を注ぎ直せばいいんです。

形は関係ないんです。
別の「愛情」に気づくだけなんですよね。

暴力」や「虐待」という形でしか、「愛情」を表現できないひとも残念ながらいます。
憎しみ」や「嫉妬」という形でしか、「愛情」を表現できないひともいます。
もちろん、傷を受けないように自分を守ることは必要です。
でも、もし、過去に受けた傷がすべて「愛情」から来ているものだと知るだけで、ずいぶん気持ちは楽になっていかないでしょうか。

本当に誰からも愛されていない人などいないと思います。
みんな、自分の欲しい「愛情」じゃなかっただけです。

カウンセラーやコーチは、クライエントさんが、自分で自分のいちばん欲しいコップに「愛情」を注ぎ直すお手伝いをしているのかもしれません。

そうして「愛情」に気づき、愛されていたことに気づくだけで、自己肯定感は上がり、自信がついていくんです。

心のコップが「愛情」で満たせれていけば、ひとにも「愛情」が注げるようになります。

いろいろうまくいっていない方、心のコップは「愛情」で満たされていますか?
自分が嫌いで嫌いで仕方ない方、心のコップは「愛情」で満たされていますか?
自分が欲しいコップだけを見ようとしていませんか?

それが、ひとを好きになれなかったり、自分を好きになれなかったりする理由かもしれませんよ。
今日は、「第19回 マインドスペース 夢カフェ 」でした。

ずっと、「自己理解」についてさせてもらっていましたが、初めてシリーズ「相手理解を深める」を講義させていただきました。
参加された方は初対面で、先に「自己理解」の方を話したくなっちゃったけど、予定通り「相手理解」についてお話させていただきました。

自己理解」をするということは、自分の内面に深く入っていくことなので、1回目でもそれなりに効果は得られるように思うのですが、「相手理解」は相手が要ることなので、少し難しさを感じました。

何度もお伝えしているとおり、ボクは「自己理解」「相手理解」「自己開示」はすべて同時進行していかないと深まっていかにと思っているので、ここを丁寧にしていきたいと考えていました。

今日は、そのうち「話を聞き受け止める」というテーマで、「傾聴」の仕方について、トーマス・ゴードン博士の「親業」の話を使って、「コミュニケーションを阻む対応」について話しながら、「受容」と「共感」の大切さと、仕方について、かなり丁寧にお話させていただきました。

第19回マインドスペース夢カフェ

そのあと、主催の
あいくん とファミレスで反省会を長い時間かけてしました。

今日の講義の中身は、学んだカウンセリングの視点から、日常のコミュニケーションに活かせる部分を抽出し、そのうち、今日はとにかくひたすら相手の話を聴きまくること、なんのジャッジもなく、何の言葉も発せず、ただうなづちとあいづちだけで相手を理解しながら関係性を深めていくことができることを、実践を交えながら講義してみました。

話しながら、自分でもその大切さを再認識しました。
相手に「意見」したり「提案」したり「激励」したり「分析」を入れたりすることも、まずただ「受容」し「共感」をした後でないと、相手には「批判」や「非難」が伝わるということを話しました。

こういうことって、カウンセラーでなくてもとても大切で、みんなに実践して欲しいと思いました。

そして、今、自分の感情にも「受容」と「共感」をしてあげると、「相手理解」をしながら「自己理解」にもつながるということを実感していたりします。

普段、われわれはいかに相手を「否定」し「非難」しながら、ひとや自分をジャッジしているか、もっというと、いかに無責任に傲慢にひとや自分を捌いているか、講義しながら思い知った感じがします。

帰り道、
あいくん と、この「マインドスペース 夢カフェ 」でいかに素敵にそういうことを伝えられるか議論し、今後に活かしていきたいかを確認し合った気がします。

こういうことを講義させていただけることに、改めて幸せを感じました。

今日、参加してくださったみなさん、ありがとうございました。

ボクを講師に選んでくれたあいくんにも感謝します。

そうしてこういう環境を与えてくれている環境にも感謝しています。