戦争観なき平和論 (保坂正康 | 寅月

寅月

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■昭和天皇独白録
本庄だったか宇佐美(興家)だったか私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういうことを云われは迷惑だと云ったことがある。⒕頁


■昭和天皇は天皇機関説のもとで育ちそこで帝王学を身につけ西園寺や牧野のような宮廷官僚たちに徹底して「立憲君主制」の対応をするように教育されている。
臣下のものを信頼しその決定や判断に異を唱えないという姿勢。
           そのかわりその責任は臣下のものが負う。
          ―「天皇親政」は責任と天皇制の崩壊を招く―


末次信正 ■ 軍令部部長加藤寛治や次長の末次信正
対米7割ではアメリカと戦うことはできない。
戦略的にはアメリカと戦うというのはイギリスをも含めてということであり・・
      見通しの甘い戦略論に固執しての反対

■政友会 総裁の犬養毅、幹部の鳩山一郎などが議会において浜口内閣の決定は「統帥権干犯」だと激しく非難を始めた。
政府攻撃のキーワードとして持ち出され政治の自殺行為



ソ連のスターリンやドイツのヒトラーという独裁者にしても
政治は
軍事の上に君臨するという考えの実践者であったことを思えば
20世紀前半の日本はその初期の日露戦争時よりもはるかに時代遅れの国家体制を作り上げてしまった。
27頁





■アメリカ軍の兵士は陸戦法規のマニュアルを手渡されその教育も受けていた。ハーグ陸戦条約(1899年締結1907年改正)、そして1929年のジュネーブ条約などに日本は調印していたが、軍部の反対で批准はしていない。
日本兵は捕虜にならないから要求だけ押し付けられるのは不公平というのであった。
日本軍は行為した国際法規について教育もしなければ守ろうともしなかった。
兵士の誰一人としてとして、
いや将校とて国際法規を知らなかったのである。
国際社会のルールなど一切無視しての思い込みの激しい言ってみれば主観主義丸出しの戦争を行ったのだ。158頁 
1)第一次大戦から軍事の偏頗な知識以外何も学んでいない。
)第一次大戦後の国際社会のルールを理解していない。
3)戦闘体験をもつ軍事指導者がいなかった。
4)戦争を戦闘とだけ理解していた。
5)自らの時代にに与えられた責任と歴史上の責任を峻別する能力に欠けていた。
159頁

 国際法規に違反する戦陣訓を押し付けた。161頁

          ■近衛文麿の喝破「英米本位の和平秩序
だが例えそうであっても、日本はワシントン条約で多くの条約に調印し1929年のパリ不戦条約にも調印している。こうした交際法規を遵守することを誓ったのなら、、

国民もまた戦争観をもってなかった。
1)戦闘を知らなかった。2)戦争が政治と軍事の両面を持つという知識や理解に欠けていた。3)戦争を美学の中に押し込んで思考そのものを放棄した。4)国際社会のルールや20世紀の約束ごとに無知だった。
5)B29 空襲で戦争を理解した。≒中国や東南アジアの日常風景 
162頁



吉田茂 有田八郎 幣原喜重郎
■吉田茂 有田八郎 幣原喜重郎
 外交官出身者 尾崎行雄 斎藤隆夫
尾崎行雄 斎藤隆夫

内正文 佐藤光徳 辰巳栄一 下村定 陸軍の軍人として、
山内正文 佐藤光徳 辰巳栄一 磯田三郎 下村定
こうした交際感覚を持つ人は全て要職から外されていた。
昭和10年代の政治軍事指導者の資質そのものが戦争という選択を行う基本的な資質に欠けていたのがこの国の不幸




チャーチル
■チャーチル「これからの戦争は後方にあって暖衣飽食しながら 机の上で兵を動かす参謀たちの戦争となるだろう。そのぶん悲劇が拡大する。」


■去私 無私をなにより尊び思考力を持たない戦闘人間 消耗品
13歳で陸軍幼年学校 軍事以外は無知  150頁
軍事指導部にいた20代30代の幕僚が議会や内閣をなど全く気にかけず 運用
 39頁

 陸軍省 軍事課に属していた将校「確かに我々はあらゆる内容を勅令として政府に発してもらった。紙切れ一枚に条文を書いて政府に渡すとそれに陛下の御名御璽をいただいて公布するだけで法律以上の力をもってしまった。これがあまりに安易に行われたために 軍事指導者たちは議会や政党などに何一つそのプロセスを知らせずに戦争を遂行できたのだから・・」




■日本は満州事変をめぐるリットン報告書の採択に反対し、代表の松岡洋右は、総会の決議には納得できない、日本は連盟から脱退する以外にないと日本政府の方針を演説して退場していく。松岡の帰国時には熱狂的な騒ぎが起こっている。しかし国際連盟を脱退したために
日本は国際社会での発言の場をうしなった。
逆に中国にとってはこれは極めて好都合のことで、
以後国際社会では「加害国日本被害国中国」という図式が見事なまでに定着していく。





■東門容は近歩三に属していた早稲田出身の学徒兵だったが、やはり敗戦後に独立戦争に加わっている。東門は戦時下の折に、インドネシアの反オランダ軍(これが独立義勇軍となる。)で、教官を務めていたそのためインドネシアの人々の考え方や宗教、そして生活習慣などを良く知っていた。「日本軍は当時、インドネシアの人々を土民などと呼んでいましたが、実際は知的にも思想的にもはるかに日本より優れていました。政党も数多くあったし、労働組合や農民組合もあり、非常に近代的でした。むしろ日本軍がそれらをすべて抑えていた。それが日本の敗戦後に顕在化して独立運動の核となったわけです。
246頁




戦争観なき平和論
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 攘夷という感情に突き動かされてたって読みがわかり易い。
攘夷という感情が生じる様な地勢 
他所から見りゃ乳母日傘みたいな環境だったのかも

イエロー・バード ケヴィン パワーズ、







「イエローバード」レビュー
戦争の大義や愛国心はとっくに失せて、敵への憎しみさえも消えて、すべてが「殺すか、殺されるか」に収斂されていく。


■訳者あとがき
志願者に仕事や除隊後の大学奨学金を求める貧困層出身者が占める比率が高まった。
従軍兵士の州、地域ごとの戦死率が図抜けて高かったのは、本土を遠く離れた南太平洋の米領サモアである。失業率が5割というこの辺度では、軍が最も手っ取り早い就職先になってるという事情がある。『貧困大陸アメリカ』シリーズの著者堤未果氏は、
アメリカにおけるイラク戦争は国家レベルでの貧困ビジネスという見方をされている。


◆◇貧困ビジネス
1937年 貧困が後押ししたのかも