はじめに

 

今から5年前に、自分の思いや考えを書き留めていたメモが出てきました。

時たま、こういうものが見つかるのです。

 

今回は、そのメモを公開したいと思います。

内容が長いので、4回に分けてお伝えします。

 

それでは、どうぞ。

 

メモ ①

 

思えば、新卒時に入社した会社で適応障害と診断され、明らかに支店内の職場の雰囲気がガラッと変わったのを覚えている。それは、職場の人間の私に対する態度の変化という意味だ。あの時の疎外感は、今でも忘れられない。まさに、精神的なリンチと言えよう。

 

憶測にすぎないが、支店長をはじめ、当時の所属支店の職員のほとんどが、私を早くに退職させようとしていたと思う。特に、支店長や次長といった役職者らは。

 

なぜ、私を辞めさせたいのか?

それは、ひとえに彼らの保身のため。

精神障害を患っている職員が部下にいるなどと知れたら、彼ら自身の人事考課に響くからだ。

 

ここが、最も保守的な職場環境を有する会社であることを、それまですっかり忘れてしまっていた。

 

退職日の当日、支店長と話をした。辞めさせたいと思っている人間のツラを拝んで、今さら何の御託を並べようというのか。

 

支店長室で、面と向かって「あなたは、この仕事に向いていない」と言われた。

たしかに、それは一理ある。しかし、もっと大事なのは人間関係だ。

 

 

日本と言う国は、一度失敗すると、復帰のチャンスがもらえない。

線路から脱線した列車は、クレーン車で車両の位置を調整してキチンと線路の上にのせても、二度と運行されることがないのと同じだ。

 

脱線の理由は、何でもいい。

整備不良による脱輪であったり、架線のトラブルであったり、ディーゼルエンジンの故障であったり、車内の乗客や外部からのいたずらであったり・・・。とにかく、理由は何でもいい。

 

二度目のチャンスはない。

これだけは、ハッキリしている・・・・・。

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

次回は、この続きを書く予定です。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

わが家には、姉ペキと妹ペキがおります。

 

特に、妹ペキは、笑顔も多く、本当に家族想いなのです。

 

家族がトイレやお風呂に入っていると、出てくるまで、ず~っとドアの前で伏せて待っているのです。

 

私達夫婦がそろって出かけると、帰ってくるまで、同じくず~っとドアの方を向いて、ソファの上で待っているのです。

 

そして、帰ってきたときの喜びようがすごいのです。

 

まるで、数十年ぶりに再会したかのような喜びようなのです。

 

ワンちゃんと人間との時間軸にはズレがあります。

 

人間でいう1年が、ワンちゃんにとっての約6年に相当します。

 

さらに、人間でいう2ヵ月が、ワンちゃんにとっての約1年になります。

 

そして、人間にとっての1日が、ワンちゃんにとっての約6日と同じくらいなのです。

 

だから、人間にとっての数時間が、場合によってはワンちゃんにとっての数日にもなり得るのです。

 

ちなみに、ワンちゃんが生まれてから1歳になるまでの間に、人間でいう18歳まで一気に成長します。だから、ワンちゃんの最初の1年は大切なのです。

 

このペキたちに出会えたことを感謝しながら、毎日過ごしています。

 

 

今回の記事は以上です。

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torao596

1日に1回は起こるコミュニケーションのズレ。

発達障害者の夫と、定型発達者の妻との会話です。

ある会話をしていて、妻としてはその会話自体は終了しており、次の会話を振ってくれるのですが・・・

私はというと、その次の会話を聞いておらず、未だに前の会話の続きをしているものと思い、そのつもりで妻との会話に臨もうとしてしまうのです。

そして、妻を怒らせてしまうのです。
「もうその話は終わったの!今は違う会話をしようとしてるの!話くらい、ちゃんと聞いてよ!」

これが妻の口癖になってしまいました。
ひとえに、私のせいなのです。

定型発達の人であれば、身近にいる家族との会話では、特に何かしら「神経を集中させる」という場面には遭遇しないと思うのです。

何気なくパートナーの話を聞いて、そこで自分の思ったことを口にして、笑い合ったり、時には怒り合ったり、憂鬱になったりと、会話が成立した後の喜怒哀楽を夫婦2人で楽しむことができるのが普通でしょう。

ところが、私はそのようにできません。
これは、夫婦間の会話に限った話ではありませんが、ひとつひとつの会話にものすごい神経を集中させないと咀嚼しきれないのです。

 

発達障害者だからなのでしょう。

なので、ひとつの会話が終わった後に、次の会話に移行しようとするとき、身体の調子如何によっては、頭がボーッとした状態で返事や相槌をうってしまうのです。

そんな状態での返事や相槌なので、会話が進むに連れて、話が噛み合わなくなってくるのです。

そうすると、妻から「わかっていないのに、わかったような返事しないでよ!」と、注意を受けます。

本当にその通りだと思います。
普段、定型発達者のことを羨ましいなどと思うことは滅多にないのですが、このコミュニケーション能力についてだけは、定型発達者が羨ましいと思う時があります。

今回の記事は以上です。
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torao596

あくまで私の個人的な経験に基づくものです。

 

発達障害特性には「物事に対する執着」が異常に強くなるときがあります。

今現在は、そうでもないのです。
でも、少し前までは、それは酷いものでした。

私の場合、執着したのは「資格」でした。
資格にも色々と種類がありますが、あろうことか文系の難関資格と呼ばれる資格にばかり、執着していたのです。

どの資格を取ろうか・・・
まだ勉強も始めていないのに、勝手に目移りばかりしていたのです。

私の場合、資格を取得しないと不安でたまらなかったのです。仕事が安定せず、次の転職先で新人であっても先輩達から見下されることなく、ある程度の威厳を保ちながら仕事を継続させるには難関資格を取得する以外に道はないと思い込んでいたのです。

難関資格を取得したからといって、次の転職先が見つかる保証がないのにもかかわらず。

その考え方が、なぜ変えられたのか
それは、インターネットの記事か何かで見た「発達障害者には依存性の特質もある」という内容を目にしたからでした。



依存性・・・
この言葉は、個人的には良いイメージがありません。

浮かんでくる言葉といえば・・・

アルコール依存、薬物依存、課金性ゲーム依存など・・・。

そこで、「ハッ」としたのです。
私は資格という「目には見えない魔物」に操られ、そして気が付かない内に依存してしまっていたのだ、と。

依存は断ち切らねばならない

咄嗟に、脳内に浮かんだ文章でした。
そして、その文章に、身体中の全神経が驚くほど従順になったのです。

私は妻とも相談し、以下の条件のもとに、今後ひとつだけ資格試験を受けようと考えています。

 

 

・自分の学力に見合うこと。つまり、無理せず、勉強の時間を持ちながら家族との団らんの時間も確保できること。

 

・資格登録時の要件ができるだけ緩やかであること。

 

・登録時の費用があまりかからない資格であること。資格のためだけに多額の経済的な負担をかけたくない。



そして、その受験を最後に「資格試験は一切受けない」ことを家族に誓ったのです。


今回の記事は以上です。
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torao596

昨日、家族である愛犬が胃腸を悪くしました。

 

車の中でお腹をくだし、排便してしまったのです。

その清掃に追われました。

 

その時、普通なら「具合、大丈夫かな~」と心配するでしょう。

特に犬は人間の言葉を話せませんから、飼い主である私達が率先して原因究明に勤しまないといけないのです。

 

しかし、私はそうではありませんでした。

 

2つの理由で、怒り散らしました。

・車の中で粗相をされたこと。

・清掃に余計な手間暇をかけさせられたこと。

 

私の予定では、買い物を終えて、あとは車に乗って帰宅するだけでした。

にもかかわらず、愛犬が粗相をして、その清掃をすることになったのです。

 

つまり、予定外のスケジュールが、私の意思とは関係なく、追加されたのです。

それにカチンときてしまったのです。

 

そんな単純なことで、そんな「愛犬にとって理不尽な理由」で、私の怒りスイッチが入りました。

 

ただ、怒り散らすと言っても、無言でひたすら「ムスッ」と不機嫌になっているくらいでした。昔と違い、怒鳴り散らしたりはしませんでした。

 

こんなんでも・・・

昔と比べると「少しは怒りの度合いがマシになってきたのかな」と思うようになりました。

 

その後、2日間かけて動物病院に通院し、今はなんとか悪い菌を出し切って、下痢が止まっている状態です。処方された胃腸薬が早く効いてくれることを祈るばかりです。

 

 

今回の記事は以上です。

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torao596

絶対に思わないです。

 

絶対に・・・。

 

 

 

だって、『絶対に』妻を苦しめることになりますから。

それは、今までの私の人生が如実に物語っています。

 

 

どれだけ妻を苦しめてきたか?

どれだけ妻は「私から逃げたい」と思ったであろうか?

 

 

妻には、血の繋がった家族がいません。

頼れる人もいません。

 

 

だから、逃げようにも「逃げられる場所」がなかったのです。

妻は「どのような私であっても受け入れようと思って」一緒に居てくれているわけではないのです。

 

 

逃げる場所がなかったので、一緒に居ざるを得なかっただけなんです。

本当に申し訳ないことをしたと思い続けています。

 

 

もし、事前に自分が発達障害者であるとわかっていたのなら、発達障害者である自分については「これは宿命であるから仕方がない」と思って人生を諦め、生涯独身を貫いたことでしょう。

 

 

 

 

ところで・・・

よく「発達障害というのは、障害ではなく個性です」という文章を目にします。

仰りたいことはわかります。

 

 

例えば、健常者の方が発達障害者に対して言った言葉だとしたら、どう捉えますか?

「発達障害者の方を元気づけようとして言っているのかな?」と思われるかもしれません。

 

 

他方で、発達障害者自身が「自分にそう言い聞かせよう」と思って、敢えてこの文章を飲み込むこともあるでしょう。

 

 

あくまで個人的な見解ですが・・・

両者とも、残念ながら「誤った認識をお持ちなのでないか」と思ってしまいます。

 

 

なぜ、そう思うのか?

たしかに、発達障害というのは個性のひとつかもしれません。

 

 

では、なぜ症状名に「障害」という文言が使われているのでしょうか?

ここに明確な回答があると思うのです。客観性が尊ばれる世の中にあって、どの医師がみてもわかる診断名一覧に「発達『障害』」と書かれているのです。

 

 

百歩譲って個性であったとしても、それと同時に「障害でもある」ということを、私を含めた発達障害者は再認識をすべきではないでしょうか?

 

 

誰がなんと言おうと、どのように思おうと、発達障害の特性を持っている人間は「障害者」なのです。私は、この『現実』を受け入れるのに、かなりの時間を要しましが・・・。

 

 

逆に、障害者としての人生をスタートさせるだけの覚悟を持てたときが、本当の意味で「現実を受け入れた」ことになるのではないでしょうか?

 

 

 

今回の記事は以上です。

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torao596

発達障害の特性を持っている私が「家族」とうまくやっていく方法がないものか、日々苦悩しています。

 

【 自分中心で世界が回っていると勘違いしている裸の王様 】

 

おそらく、この一言が発達障害者の特長を最も端的に捉えているのではないでしょうか。

少なくとも、私自身がそうです。

 

自分が世界の中心なので、変な横やりを入れられることを最も嫌います。

そして、実際にまともな横やりであっても、入れられた瞬間に瞬間湯沸かし器の如く怒りが生じます。

 

その横やりが、たとえ発達障害者自身にとってメリットになることであってもです。

 

 

昔、就労移行支援事業所に通所していたときに・・・

・怒りはコントロールできる。

・怒りは「自分が怒ろう」という選択をしているから、結果的に怒っていることになる。

 

だから「怒るという選択肢を選ばないようにすればよい」というアドバイスをいただいたことがあります。

 

たしかに、初めて拝聴した時には目からうろこが落ちた気がしました。

しかし、実際に何度か試しましたが、長くは続かなかったんですね。

 

「選択する」「選択しない」以前の問題で、スイッチが入ったらそれまでなんですから。

もし本気で、この理論を実用化するのであれば、正直私の場合、脳みそをとっかえてもらうしかないと思っています。

 

私が通所していた事業所だけかもしれませんが、一見「なるほど!」と思わせるようなことアドバイスをくださるのですが、蓋をあけてじっくり底を観察してみると、そこまで実用的ではないし、根本的な解決策を見つけるための「糸口にすらなっていない」ということが意外とありました。

 

結局、発達障害の特性を持っているのは私なので、私自身が何とかするしかないのです。

 

 

「発達障害者としての生きづらさから脱出する方法」のひとつは、自分の限界点を把握することだと思います。

自分には、一体何ができるのか?
これを見極めることは、大事な気がします。

【 何ができないのか? 】

・・・を考え抜くよりも・・・

 

【 何ができるのか? 】

・・・に目を向けた方が、考え方もプラスに働きます。

それに、自分のできることって、割と想像しやすいと思うんですよね。

自分が気付いていないだけで。


それは他人、例えば健常者から見て、たとえポジティブに捉えるまでには至らないようなことであっても、発達障害者自身としては「自信をもってできること」なので、ある意味では自立に向けての良い作用として働くと思うのです。

 

「何ができないのか?」の見極めをするということは、自ずと健常者と自分自身を比べざるを得なくなります。嫌な現実を突きつけられるだけで終わってしまい、生きづらさを少しでも解消させようとする気が失せてしまいます。

 

今回の記事は以上です。

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torao596

自分にとって不都合なことが起きると、とにかく自分以外の人間や物のせいにします。

妻曰く、私は「自分にも厳しい」らしいのですが、今振り返ってみると他力本願のような特質もあるように思えます。

自分の意見によって何かを決定することに、躊躇してしまうのです。

悪く言えば、単に責任逃れをしたいだけなのかもしれません。

私の場合、何も意見が言えない理由がひとつあります。
それは、相手との会話の内容を勝手に且つ瞬時に作り上げてしまうのです。

『こう言ったら、きっと相手はこう言ってくる。そうしたら、次に私はこう言えばいいから、その後もし相手がこう言ってきたら・・・』

・・・という思考が止まらなくなるのです。
なので、いつまで経っても終着点に到着できず、自分の意見が出てこないのです。

それで大抵コミュニケーションがストップするのです。

思ったことをそのままストレートに伝えて場の空気を乱したとして責められた経験も多々あるので、その塩梅に今でも悩んでいます。

 

 

今回の記事は以上です。

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torao596
 

発達障害の特性を持つ人間。

 

その特性はいくつもありますが、その中のひとつに「許容量(キャパシティ)が少ない」というものがあります。

 

キャパが少ないので、例えば仕事をするときにも、複数の仕事(タスク)を同時進行で処理をする『マルチタスク』が苦手です。シングルタスクであれば得意です。

 

例えば、同時に4つの仕事を処理しないといけない場合、健常者の許容量を100%とした場合、各タスクに25%ずつの力量をバランスよく配分することができます。

 

どの仕事を最優先にすべきかという問題もありますよね。

健常者の方は、コミュニケーション能力に壁がないことを前提としているので、上司と打ち合わせの上で優先順位をカチッと決めて、仕事を進めることができます。

 

しかし、発達障害者はコミュニケーション能力に自信がなく、それもあってか仕事の優先順位をつけることが苦手です。上司が進めて欲しいと思っているタスクと、発達障害者自身が進めたいと思っているタスクとが異なるケースが本当に多いのです。

 

たまらんですね。

 

発達障害者の場合、マルチタスクができない分、シングルタスクの処理で健常者以上の力を発揮することができると確信しています。

 

健常者がシングルタスクで100%の力を発揮できるとすれば、発達障害者は125%の力を発揮できると、勝手に考えています。

 

力を分散させることができない代わりに、ひとつに力を集中させることできます。そして、集中させられる分、濃度も濃くなっている気がするのです。

 

 

今回の記事は以上です。

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torao596

 

はじめに

 

私は、40歳で発達障害だと診断されました。

幼少期の頃に診断されていれば、成長とともに「色々と手立て」を講じることができたであろうと、今でもそう感じています。

 

自分が発達障害者だと自覚しながら成長するか・・・

自分が発達障害者だと知ることができず、定型発達者と偽られ、成長するか・・・

 

健常者と障害者とのズレ。

想像以上でした。

 

 

発達障害とわかった瞬間

 

よくインターネットで、発達障害者の方の意見や感想を掲載した記事を目にします。

最近多くなってきたのか、それとも自発的に探しているので記事が多いと思うようになっただけか、それはわかりません。

 

こういう記事を拝見する時、よく目にするのが「発達障害だと診断された瞬間、ホッとした」という感想です。

 

たしかに、今までに自身に起きていた「生きづらさ」の原因が自身の努力不足ではなく、先天性の障害にあったと判明し、そういう意味では『原因がはっきりした』という確証を得られたのですから。

 

しかし、私自身、ホッとすることはありませんでした。

むしろ、「今までの人生は何だったのか」と、その瞬間に思いました。

 

私の思っていた先天性の障害というのは、生まれた時から備わっている障害のことで、生まれた時から「その障害特性が目に見えてわかるものであり、両親もその子供が生まれたときから当然承知しているもの」というものでした。

 

だから・・・「子供である私の先天性の障害を両親が知らないのはおかしい」と瞬間的に思ったのです。

 

その思考から、両親は私の先天性の障害を知っていたにもかかわらず、私に発達障害者としての人生ではなく、単なる親のエゴで定型発達者としての人生を無理矢理歩ませたのだと。

 

そう思いました。

発達障害の特性があると診断された瞬間、私はこう思いました。

 

「両親よ、なんでおたくらは知らなかったの?」

 

「両親よ、なんでおたくらは『知ろうとしなかったの』?」

 

「両親よ、なんでおたくらは『見て見ぬフリ』をしていたの?」

 

それだけプラスアルファの苦労をしてきたから。

 

先天性の障害があることを見抜き、そして理解するのは、親のツトメです。

どんな事情があれ、どんな理由があれ、私に先天性の発達障害の特性があることを見抜けなかった両親を一生許すことはないでしょう。

 

そういう人間もいる・・・というお話でした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596