はじめに

 

《 関連記事 》

 

上記の記事の続きです。

勘違いばかりだった高校時代を終え、浪人生活に突入しました。

その後、無事大学へ入学し、大学生活を送ることになりました。

 

ここでも、母親と一悶着あったのです。

それを中心に、記事としてお伝えします。

 

 

入部したサークルについて

 

資格試験の合格を目指すサークルに入部したのですが・・・

元々、私の在籍していた大学では100年以上前から存在する伝統的なサークルがあり、資格試験を目指す学生は、大抵の学生はそこのサークルに入部していたそうです。

 

そこのサークルは、とにかく部員数が多く、OBやOGを多く輩出しているサークルでした。従って、そこのサークルでうまいこと立ち回っていた学生は、OBたちのツテなどで大企業に就職したり、また勉強の仕方を教えてもらっていた学生の中には司法試験などの資格試験に合格していた学生も何人かいました。

 

しかし・・・

 

私は、そういうサークルには興味が湧きませんでした。

否、そういう大所帯の集団に属することが苦手になっていたのです。

 

こじんまりとした所帯で、私のことを好意的に受けて止めてくれる先輩や同級生だけがいるサークルへの入部を強く希望していました。

 

そして、まさに私自身が希望していたとおりのサークルが見つかり、そこに入部することを決めました。

 

ただ、そのことを母親に話すと、喜ぶどころか文句を言ってきたのです。

 

「なんで、そんな小さいサークルに入っちゃったの?アンタの大学は規模が大きいから、もっと他にもサークルっていうのはあるんでしょう?昔からある大きな規模のサークルに入った方が良かったんじゃないの?アンタ、高校の時は友達が多くてコミュニケーションには長けていたじゃないの・・・」

 

・・・質問攻めです。嫌気が差しました。

私のことを理解していない証拠でした。父親が、とにかく組織というものを重んじる人間で、大きな組織の中にいてこそ価値があるという価値観の持ち主で、母親はその価値観に大きく影響を受けていました。

 

大きな規模の、しかも伝統と実績のあるサークルが存在するのなら、そこに入部するのが当然であって、敢えて小さな規模で結成したばかりのサークルに入部することの神経が理解できない!!

 

母親の顔に、そう書いてありました。

・・・もう無視するようにしました。

 

 

高校時代の幻影から現実の発達障害へ

 

高校時代の私は、ひとえに本音と建前を理解できていない裸の王様状態だったのです。その中で、たしかに表面的にはコミュニケーションに長けているように見えたのかもしれません。

 

しかし、浪人生活を経て、勉強以外の世界から敢えて自分を遮断していたこともあり、人とのコミュニケーションに自信が持てなくなっていたのかもしれません。

 

発達障害の特性をもつ本来の私が、目覚め始めていたのかもしれません。

元来、多くの人数を相手に自発的かつ積極的なコミュニケーションを図ることは得意でもあり、同時に苦手でもありました。

 

私とのコミュニケーションを好意的に捉えてくれる人との会話などは難なくできましたが、少しでも私とのコミュニケーションに否定的な捉え方をする人との会話などは非常に苦手とするところでした。

 

ですので、大学時代に付き合った友人の数も自ずと限られた人数となったのです。

非常に狭いコミュニティの中で、自分の居心地の良いように、友達付き合いをしていました。だから、この頃の友達付き合いがうまくいっていたのだと思います。

 

 

父親の身勝手な判断でアルバイトを退職

 

ある日、大学のサークルが発行している大学新聞なるものを手にしました。

これを持って帰れば、きっと家族と会話をする話のタネができると思い、持って帰りました。

 

ところが、これが逆にマズかったのです。

 

その大学新聞は、たしかに大学の名称を冠した「○○大学新聞」と書いてありました。しかし、その新聞を発行しているサークルが当時大学側と少々イザコザがあったようで、大学からは公認されていない「非公認サークル」だったのです。

 

そのサークルが発行している大学新聞の広告掲載欄として、当時私が始めたばかりのアルバイト先が広告を掲載していたのです。

 

それを見た瞬間に、何と父親が激怒し「こんな新聞に広告を掲載しているような会社でアルバイトなどしてはダメだ!今すぐ辞めなさい!」と言い放ったのです。

 

おまえは何様だよ・・・。

おまえのためにアルバイトしてるんじゃないんだけど。

 

・・・率直な感想でした。

 

あろうことか、母親も父親のトンチンカンな発言に乗っかり、2人してアルバイト先を退職するように要求してきたのです。

 

私は、アルバイト先に泣く泣く理由を丁寧に説明し、引き止められましたが、断腸の思いでキッパリ辞めました。ちなみに、そのバイト先は私が高校時代からお世話になっていた大学受験予備校で、大学受験から解放されたら絶対にアルバイトをしたいと切望していた会社だったのです。

 

【 この父にして、この母あり 】

言葉の使い方を間違えていると思いますが、何となく察していただければ幸いです。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

結局、狭いコミュニティ内での友人関係を継続し、大学4年の時に内定をいただいた会社に就職することになりました。

 

そして、ここからが本当の地獄の始まりでした。

発達障害の特性が牙をむき始めたのです。

 

今回の記事をもって、幼稚園時代から続いてきた学生編のシリーズを終えたいと思います。

企業への就職後の内容については、個別の記事で今後お伝えできればと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

 

はじめに

 

《 関連記事 》

 

 

 

事実上の上記関連記事の続きです。

割と壮絶な虐めを受けていた小学校・中学校時代と比べ、高校時代はそれまでとは180度違った生活を送るようになりました。

 

いわゆる「高校デビュー」というやつです。

高校は男子校でした。そう意味でも、今まで共学続きの生活だったので新鮮でした。

 

 

高校1年生

 

私立高校だったので、受験競争の末、入学しました。

誰ひとりとして、同じ中学校からの持ち上がりの同級生はいませんでした。

全くイチからの高校生活でした。なので、ある意味すごく楽しみでした。

 

想像通り、虐めとは縁遠い環境でした。

1年生のときの同級生は、皆、人格高潔にして「私にとって居心地の良い環境」を提供してくれました。この時に、ほんの少しだけ「友情」というものが理解できた気がしたのです。

 

私の高校は、普通科・商業科・国際科の3コースが用意されていました。

私は、大学受験進学を念頭に置いた普通科に進学しました。

 

1年生の時のクラスはB組でした。通称:英語選抜と言われていたそうです。

クラスはA組からG組まで分けられ、入試の成績によって入学時のクラス分けが自動的になされていたようなんです。私の在籍していた英語選抜クラスは、入試科目(英語・国語・数学)のうち、英語の成績が優秀な生徒だけを集めたクラスだったそうです。

 

この時に、ビリヤードと麻雀を覚えました。

 

 

高校2年生

 

1年生の時の年間を通じた学業成績の値に応じて、2年生への進級時のクラスが分けられました。私はすぐに化けの皮が剥がれ、1年を通じて常に成績は「最下位に近い」ものでした。

 

2年生の時はC組でした。

クラスは、一番成績の低かった生徒たちの集まりでした。

 

1年生のときから、友人関係だけは広かったです。正確には「顔が広い」と言われるようになりました。同学年の生徒総数は400名近くいましたが、「そのほとんどの生徒と顔見知りだったのはtorao596くらいなものだ」と言われていました。

 

その言葉に有頂天になっていたのでしょうね。

ここに「本音と建前」の暗闇が隠されていたのです。

 

相変わらず、成績は最下位ラインをひた走り、赤点の常連でした。

試験結果発表後に職員室へ駆け込み、赤点を取った科目の先生の所へ頭を下げに行き、何とか追試または課題提出で救済措置をお願いすることがお決まりになっていました。

 

 

高校3年生~卒業

 

基本的に、2年生のときと変わらない生活を送っていました。

調子に乗った高校生活を送っていたと言っても過言ではないでしょう。

大学受験に挑戦するも、学校の成績で最下位ラインをひた走っていた私が合格できるはずもなく、浪人生活に突入することになりました。

 

 

今、振り返ってみると・・・

 

今、この記事を書きながら高校時代の記憶を掘り返してみると、以下のことが特筆できるかなと思います。発達障害の特性に繋がるものです。

 

⑴ 待ち合わせに2時間遅刻

 

1年生の時に同級生10人程度で遊びに行った際、待ち合わせをしていたところ、場所がわからなくて2時間も遅刻してしまった。しかし、その遅刻したことに対して「皆を待たせてしまい、申し訳なく思った」ことは間違いないのですが、深刻に捉えることができなかったのです。

 

⑵ 自分の気に入らないことに対して、怒り散らす。

 

これは、はっきりとは思い出せないのですが、何度かありました。一度だけではありません。

 

⑶ 場の空気を読んで、発言を控えた方がいいことを平気で口走る。

 

⑷ 思ったことをストレートに口にしてしまう。頭の中で、もう少しオブラートな表現で伝えた方がいいという変換機能がなかった。

 

⑸ 同級生の中で「顔が広い」と言われ続けていたのは、文字通り、ただ顔見知りが多いだけという意味合いで言われていたのにもかかわらず、それを勝手に「最も友人の数が多いと称賛されている」という言葉に変換してしまっていた。

 

知っている「だけ」の顔が多いことと、友人の数が多いこととは全く異なります。

当然のことですよね。

 

しかし、当時は、この「当然のこと」が全く理解できていなかったのです。「顔が広い」という言葉の意味を、「皆が私のことを知っており、私と親しい関係にある」と勝手に解釈していたんですね~。

 

「名」と「実」が伴っていないにもかかわらず、自分の都合のいいように言葉を解釈し、卒業後に何とも言い得ぬ孤独を感じました。今考えれば当然なんですがね。高校を卒業して、現役で大学に進学した者もいれば、私のように浪人したものもおり、または就職した者もいました。高校を卒業すれば、また新たなコミュニティが生まれます。

 

皆、それぞれ新しい環境下で新しいコミュニティの一員として参加し、各々の人生を歩んでいくことになります。顔が広いと言っても、いつまでも友人関係を続けられるとは限りません。

 

そこを理解できていれば何も落胆するところはなかったのですが、当時の私は「友人だと思っていた多くの同級生から、卒業後何の連絡もなく、そのまま音沙汰がなくなってしまった。顔が広かったと言われていたのに、どういうことなんだ・・・?」と思っていたのでした。

 

定型発達の他の同級生たちと比べて、把握力というか理解力が圧倒的に足りなかった気がします。

 

今思えば、世渡りがうまくできない素質は、この頃からあったように思います。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

高校へ進学でき、全く新しい世界が開けたと思いきや、最後の最後で「人の世を渡り歩いていくための理解力や処世術」が圧倒的に不足していました。今思えばの話ですね。

 

当時は、自分が発達障害の特性を持っていることなど、微塵も感じていませんでしたから。

 

よく発達障害者は、「自分の意見を言えない」特性があると言われます。

今の私は、まさにそうです。自分の意見を出すことが怖くなってしまったのです。

それは逃げでもあり、自己責任を否定できるようにするという意味合いもあります。

 

しかし、当時は「自分の意見しか言わない」ような感じでした。

しかもストレートに変換を加えずに言い放っていたので、それによって気分を害する同級生が多数いたと思います。ただ、不満に思っても敢えて口に出さなかっただけで。だから余計に天狗になっていたのでしょうね。お恥ずかしい限りです。

 

機会があれば、大学時代のお話も記事にできればと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

 

はじめに

 

《 関連記事 》

 

上記の記事の続きです。

中学校時代に入部した水泳部では、ロクな想い出がありません。

同級生からはバカにされ、先輩からも見下され、顧問のコーチからも見放され・・・そういえば、後輩が入部してきた記憶はなかったように思います。

 

当時の私は、こんな感じでした。

 

・同級生たちとの話の輪の中に入れない。

・コミュニケーション自体が成り立たない。

・自分が今何をなすべきかを判断できない。

・虐められる原因がわからない。

 

 

学習塾と鉄道

 

⑵ 学習塾に入塾。

 

小学校時代と異なり、中学校時代には唯一の「居場所」がありました。

それは小学校の卒業間際に、両親に無理矢理入らされた学習塾でした。

 

当時、私の地元では「高校受験専門の難関学習塾」と呼ばれる塾が3社ありました。

何を間違えたのか、そのうちの1社に入塾させたのです。

 

学習塾での勉強はもちろんのこと、学校での勉強にも全くついていけませんでした。

学習障害(LD)とまではいかなかったかもしれませんが、本当に勉強はできませんでした。

 

特に、苦手だったのは「国語」ですね。

文章読解が、とにかく苦手でした。あまりにも出来なさ過ぎて、担当の講師からはトコトンバカにされ、涙した日も多かったです。

 

しかし、この塾での私の在籍していたクラスは「私にとって居心地の良い場所」でした。

初めて、同級生と話をしていて「楽しい」と思える場所でした。塾が終わってからゲームセンターへくりだして、夜遅くまで入り浸っていたのは良い想い出です。

 

それと「趣味」ができたことも大きかったと思います。

塾の同じクラスにいた同級生から「鉄道」の世界に誘われました。

鉄道の雑誌を購入したり、鉄道の写真を撮影しに行ったり、鉄道模型を眺めに行ったり。

 

本当に「鉄道」には夢中になりました。

あれだけひとつの事象にのめりこめたのは、後にも先にも、このときだけだったでしょうね。無心になって情熱を傾けられた経験を持てたことは、幸せな経験だったのかもしれません。

 

通い詰めていた鉄道模型店の店主に、私が撮影した鉄道写真を見せたところ、こんな言葉を言われました。

 

「これ~・・・、もしかしたら売れるかもしれないぞ。どうだ?俺の店で展示してみないか?もし欲しいっていうお客さんがいたら売ってもいいか?」

 

半信半疑でした。

こんな素人の、しかも中学生なんかが撮った写真が売れるのだろうか、と。

 

数日して・・・また、その模型店に行ってみました。

すると店主から「おい、あの写真、売れたぞ」と。

 

嬉しかったですね~。

1枚100円で販売していたので、その半分の50円を駄賃としていただきました。

 

そして店主から「おまえには才能がある。画角もいいし、フレームの捉え方もいい。将来、鉄道写真で食っていくのもアリなんじゃないか?」と言われたのを覚えています。

 

もし、この時に発達障害であることがわかっており、家族などの理解も得られていれば「得意な分野での才能を伸ばすだけ伸ばす」という特性を生かして、本当にその道での人生もアリだったかもしれません。

 

今でもこの話をすると、妻からは「本当に勿体ないことをしたね~」と言われます。

 

今となっては、情熱を傾けられるものは何もないですから・・・。

 

 

中学校時代を振り返ってみて

 

中学校時代は、はっきり言って学習塾の存在がなければ、くじけていたことでしょう。

あるいは、勉強にも、部活にも、同級生たちとのコミュニケーションにも・・・ついていくことができず、不登校になっていたかもしれません。

 

今になって振り返ってみると、私自身、同級生たちとのコミュニケーションに障壁を感じていたのは、やはり発達障害が原因であったと思っています。

 

定型発達者とのコミュニケーションでは必要不可欠なものである「何か」が、恐らく足りていなかったのだと思います。それが何だったのかは、正直未だにわかりません。

 

あとは、マジョリティが異質なマイノリティを排除したがるという「世の論理」を無理矢理あてはめて、納得させるようにしています。それが虐めの原因ではないかと思うからです。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

虐め抜かれたけれども、持ち前の鈍感さで何とか「生き抜いた」中学校時代が終わりを迎えます。

 

高校も私立校に合格でき、進学しました。

そこでは全く違う世界が、私を待ち受けていました。

機会があれば、記事にしたいと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

 

はじめに

 

《 関連記事 》

 

 

上記の記事の続きです。

中学校時代の虐めは、小学校時代の虐めとは違って、精神的な辛さはあまりなかったように記憶しています。良くも悪くも、虐められ慣れてしまっていたのでしょう。

 

それよりも、肉体的な辛さが群を抜いていました。

やはり、小学生よりも肉体的にも成長していますし、虐める側の生徒にはスポーツを経験している者が多数いたので、純粋に暴力を振るわれると「痛い!!」という感じでした。

 

 

部活と学習塾

 

⑴ 部活は水泳部に入部。

 

前もって断っておきますと、自分から入部したくて入部したわけではありません。むしろ、入部したくなかったのです、どこにも。では、なぜ入部してしまったのでしょうか?

 

小学校時代からの同級生2人に誘われたからです。

なぜ、彼らは私を一緒の部活に誘ったのでしょうか・・・?

普通は、こんなことを考えたりしませんよね。

 

私を水泳部に誘ってきた同級生たちも、同じ小学校だったので、私が小学校のときに虐め抜かれていた事実を知っています。その2人も、虐めに加わりこそはしなかったものの、からかってきたりはしていました。

 

虐めの酷さに心身ともに慣れてしまっていたので、からかわれるくらいではあまり精神的な痛みを感じないようになっていたのです。

 

「この2人と一緒の部活なんかに入部したら、小学校のときと同じ状態になってしまう」

 

そう思って、一度は断りました。

しかし、世の中、余計なことをする人が必ずいるものです。

 

その同級生の母親たちが、私の母親と外出中に会ったらしく、私が水泳部の入部を誘われたのに断った話も、その場で出たそうなのです。

 

さぁ、何よりも「協調」「和を乱さない」「世間体が第一」「学校で恥をかきたくない」の4拍子を揃えている私の母親が、そのことを聞いて黙っているわけがありませんでした。

 

母親が帰宅後、説教タイム開始です。

 

・なぜ、せっかく誘ってくれたのに断ったの?

・友達が誘ってくれたのだから、快く引き受けるのが友情でしょ?

・あの2人は小学校からの友達でしょう。もっと友達を大切にしなさい。

・そもそも、水泳部に誘われたことも、それを断ったことも、なんでアタシに言わないの?

・他の母親から、自分の息子のことを聞かされるのが一番嫌だってこと、アンタ知ってるよね?そんなにアタシに恥かかせたいの?

 

・・・覚えているのは、それくらいですね。

本当に身勝手な言い訳ばかりを並べてくれたものだなと、腹立たしさしかありません。

 

根本的な間違いは、私の母親が、私を水泳部に誘った同級生2人のことを、勝手に友人認定していたことです。

 

結局のところ、母親は私のことを何もわかっていなかったのです。

そして、何か報告したところで、上記のように無駄な4拍子を盾に説教しかしません。

そりゃ~、何も言いたくなくなりますよね。

 

・・・ここで、ひとつ反省してもいいかなと思う点があるとすれば・・・

小学校時代の虐めを引き金に、友人という概念が完全に理解できなくなってしまったことでしょうか?

 

それが、虐めをきっかけにそうなったのか?

それとも、発達障害の影響で「友人」という存在自体を認識できなかったのか?

 

友人って、何だろう?

実は、今でもそう思うのです。

 

今思えば「何かが抜けている」と思うのです。

定型発達の人間であれば、普通に理解し、それを実生活に生かすことができることを、発達障害者はできません。

 

友人だから友情があるという考えに、至らないのです。

私が想定している友人というのは、「一緒に居て私が居心地が良いと思える人間」というだけの定義になるのです。だから、友情なんて言われても、正直わかりません。

 

前置きが長くなりましたが、結局母親に無理矢理「水泳部に入部したいって言ってきな」と言われ、渋々入部することになったのです。

 

そして、多分に漏れず、私は水泳部でも仲間外れでした。

何よりも運動が大の苦手な私が、水泳部でうまくやっていけるはずがありませんでした。

 

水泳競技でもタイムが振るわず、4人で200mを泳ぐリレー競技では、いつも他の同級生から罵声を浴びせられていました。

「おまえ、やる気ないんならやめちまえよ!」

「おまえがどんだけ俺たちの足を引っ張っているのか、わかってんのかよ!?」

先輩からも、「おまえは、もう大会には出ない方がいいよ。見てて恥ずかしいから」と言われる始末でした。

 

もとより、やる気はありません。

無理矢理入部させられたようなものですから。

やめてもいいのであれば、すぐにでもやめたかったですけどね。

 

水泳部では、日常のコミュニケーションの障壁に加えて、実戦で結果が出せないという現実もあってか、本当に苦痛以外の何物でもありませんでした。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

私自身、母親の家系が発達障害の要因をもたらしたものと考えています。

考え方が似ているのです。

 

次回は、この続きから始めます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

 

はじめに

 

《 関連記事 》

 

 

これらの記事の続きです。

それまで通院していたメンタルクリニックをやめ、新しいクリニックを開拓し、そこへ通院したことになったときの感想メモを掘り起こします。

 

 

メモの内容 (実際の診断内容)

 

〇〇クリニック

□□医師

 

妻も同席。

診察内容は大きく4項目に分けることができた。

 

⑴ 成功体験を作り上げること。

→ 失敗体験ばかりを積み重ねてもプラスにはならない。

 

⑵ 薬さえ服用すれば病気が治る、そんな魔法の薬は存在しない。

 

⑶ 社会復帰するための条件を整理する。

→ 自分がどうしたいか?

 

・これから自分が生活をどうしたいのか。

・何を優先させたいのか。

  ↓

マスタープランを描くことが大切である。

 

⑷ 薬に頼らない治療の提示。

→ 仕事が長続きしないのは、病気「が」原因ではなく、病気『も』原因であることを、しっかり認識すること。

 

何もかも病気のせいにしてしまうのは筋が違う。

 

PTSD → トラウマ

たしかに、今までの経緯を聞く限り、トラウマとして残っている部分が多々ある。しかし、仕事が長続きしないのは、それだけが理由だろうか?

 

マスタープランとは?

・日々の生活 → 日々の稼ぎ (生活費の確保)

 

 

メモを今見返してみて・・・

 

今でこそ、日々の生活費は毎日が「火の車」程度で済んでいるが、当時は本当に毎日が「地獄の炎の車」状態だった。そのことを一番に気にしての相談であったような気もします。

 

まず ⑷ についてですが・・・

たしかに医師の仰るように、仕事が長続きしない理由を病気だけのせいにしていたかもしれません。しかし、それを言ってしまえば、今の方がその理由を強く病気に求めてしまっているかもしれません。

 

なぜなら、この時に下されていた診断名は「適応障害」だけでしたが、現在は双極性障害に加えて先天性の広汎性発達障害との診断名を下されています。当時はまだ、病気のみを原因にして「仕事が長続きしない」という言い訳するには説得力が弱かった気がするのです。

 

しかし、現在は2つの診断名が下されており、組織で働くことの難しさ、コミュニケーションを図ることへの障壁の高さを、日々痛感するようになっています。このような現在の状態では、はっきり言って「病気だけを言い訳にしても過言ではない」と思っているからです。

 

次に、⑴ の「成功体験を作り上げること」と ⑵ の「薬さえ服用すれば病気が治る、そんな魔法の薬は存在しない」という診察内容については、納得する部分もありました。

 

たしかに、その通りです。

薬だけ服用していれば病気が治るのであれば世話はありません。ただ、これは勝手な個人的見解ですが、内臓疾患のような病気などは「何とか治そう!」という患者自身の強い思いと「症状に見合った薬剤の服用」を組み合わせれば、大抵の病気は完治まで持って行ける気がするのです。もちろん、病気を発見した時期にもよるとは思うのですが・・・

 

ここからは個人的な意見です。

薬が大切だということは否定しません。ないよりあった方が良いでしょう。

ただ、精神疾患は、「寛解」という状態までは行くことはあっても「完治」に至ることはありません。つまり、一度精神疾患という診断名を下されたら、もう一生付き合っていくしかないのです。

 

私の母方の祖母が・・・

「いいかい?病気は患った方が負けなんだよ。自分が病気を患っても、誰も真に助けてはくれない。どんなに苦しくても。結局は他人なんか頼らず自分で何とかするしかないんだよ」

・・・と口癖のように言ってくれていたことを、今になって身に沁みるようになりました。

 

特に私のように発達障害を患っている人間は、特性のひとつとして「白か黒かをはっきりさせないと気が済まない」という性質を持っています。

 

先程の「寛解」という言葉が、とてもとても中途半端な意味合いに感じられ、全く意味のない状態のことを言っていると直感で思ったものです。

 

病気は完治しなければ意味がない。

今でもそう思っています。

 

寛解という状態が「良くなった状態」とされ、「完治はありえない」と言われたときから、この精神疾患系の病気を治すための努力を一切しなくなりました。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

今回の記事に書いたような内容も、もっと早くに発達障害だと診断されてさえいれば、する必要のなかったムダなことだと、ただただ悔しくなるばかりです。妻にも迷惑をかけ放しで、本当に頭が上がりません。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

 

はじめに

《 関連記事 》

 

今回の記事は、上の記事の続きです。

 

改めてになりますが・・・

数年前に短期間通院していたメンタルクリニックでの感想を書いたメモが出てきました。

これから通院を始めようとするときに書いたようです。

 

双極性障害の前段階の「適応障害」と診断されていた頃のものです。

今回は、その記事をご覧に入れたいと思います。

 

日時は、8年前の2015年(平成27年)4月1日です。

 

 

メモの内容(続き)

 

【 Part 1 】

最後に、適応障害がもたらした弊害は、被害妄想とも言えるものだ。自分が意見を言った後に、相手が納得したような返事をしたとしても「いや、本音では納得などしていないはずだ」と勝手に思い込んでしまう。

 

また、何かトラブルや失敗事案が発生すると、必要以上に自分のせいだと思ってしまい、それから先の行動を起こすことができない。

  ↓

夫婦生活において、最も影響を及ぼしているのは、この部分だと思う。

  ↓

きっと、あの人は表面上は面倒見が良いようにしているが、裏では私の悪口ばかりを言っているに違いない。

  ↓

トラブルが発生すると、たとえ自分が関わっていなくとも、自分が原因だと思い込み、さらに塞ぎこんでしまっていた。

 

 

【 Part 2 】

本当に、周りの人間は自分のことを注視しているのか?

逐一、自分の行動や言動に目を光らせ、耳をそばだてているのだろうか?

  ↓

自分と同じように、周囲の人間も業務に勤しんでいるのだから、そこまでヒマであるはずがない。イチイチ見ていないし、イチイチ覚えていない。

  ↓

自分だけが必要なく気にしている?

  ↓

周りの目は忘れること、気にしないこと。

何か言われても、言葉通りの意味で受け止めれば十分。

そこを勝手に深読みしようとして、裏を探ろうとして自分だけ空回りしても、かえって周りに迷惑をかけるだけだ。

 

 

「今思えば」の感想

 

前回の記事の内容と今回の記事の Part 1、それに今回の記事の Part 2 の両方を見比べてみると、正反対のことを言っているように思えました。

 

考えがまとまらず、とにかく出せる意見を出し尽くしたという感じだったのでしょうか。「誰かに監視されている気がする」という反面、「皆はそんなにヒマではなく、監視などしていない」という相反する考えが同時にあったことになります。

 

「視野が広いのか、それとも狭いのか?」

「医師に良いように見られたいがために、様々な視点からの意見を出しておいたのか?でも、意見を出したところで、本来はそう思っていないのだから言っても意味がないのではないのか?」

 

まだ本気で医師のことを信じ、医師の診察を受けていれば「きっと快復に向かうだろう」と本気で信じていた頃に書いたメモです。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

今となっては、メンタルクリニックの医師のことは全く信用していません。

ただ単に、薬をもらいに行っているだけようなものです。

 

現に15年以上もの間、通院を継続しているにもかかわらず、良くなる兆しがみられるどころか、診断名は年数を重ねるごとに悪くなり、先天性の障害が40歳になって発見されるという始末です。

 

「信用しろ」という方が無理ではないでしょうか。

そう思うところです。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

 

はじめに

 

体育の授業でバスケットボールをチーム戦でやっていたとき、当時同級生の中で最も背が高く、最もチンピラな男子に、授業中にもかかわらず、顔面に思いっきりハイキックを喰らいました

 

私も当時は既に身長は170cmはありました。しかし、彼は背が高いうえに脚も長かったので、彼の脚が私の顔面を捉えることなど造作もないことだったのです。

 

私は当時、眼鏡をかけていました。

首がもげるかと思いましたが、眼鏡は吹っ飛んだだけで損傷はありませんでした。

 

そんな幕開けで始まった中学校時代の記憶の掘り返し、始めたいと思います。

 

 

胸ぐらを掴まれた1年生の頃

 

どこか足りない・・・

今思えばの話です。

 

私は当時、クラスの生徒を班ごとに分けて話し合いをさせる「レクリエーション」という授業が、ものすごく苦手だったように記憶しています。それは、何か意見を言っても批判されるばかりで、「もっとまともなことを言えよ」とか「今、そんなこと関係ないだろ!?ちゃんと集中しろよ」など、他の同級生の癇に障るような発言しかできなかった想い出しかないからです。

 

何か意見を出しても、恐らくものすごく的外れなことばかりを言っていたのだと思います。それはすなわち、私自身がレクリエーションで話し合っている中身や議題の趣旨などをほとんど理解できずにいながら話し合いに参加していたからだと思います。

 

「耳で聞くだけで話を理解しようと思っても、元々の発達障害の特性からそれはできない」と、この時に悟っておくべきでした。

 

しかも、小学校時代から続いて、クラスの女子全員から相変わらず嫌われていました。

 

私が中学生だった当時、公立中学校は予め定められた学区ごとに、進学する公立中学校が決められていたのです。学区は、ある程度の住所地のまとまりがあったので、自然と同じ小学校に通学していた同級生も、同じように持ち上がりで進学してきました。

 

彼らは、私が小学校時代に虐められていたことを当然知っています。

そして、中学校で初めて知り合った同級生に、私を虐めるようけしかけたりしていたのです。想像はしていましたが、改めて現実を突きつけられると、ホトホト嫌気が差しました。

 

そして、虐めをけしかけてきた一団が、私の前に立ちはだかると突然「おまえ、随分と生意気だそうじゃねぇか。あまりナメたことしてんじゃねぇぞ」と胸ぐらを掴まれながら、言われました。

 

まだ、中学校1年生の4月頭の頃です。

「これが3年間続くのかぁ~」と・・・できるだけ思わないようにしていました。

 

 

顔面にハイキックを喰らった2年生の頃

 

私の中学校では、各学年ともA組からC組の3組制でした。

1年A組 → 2年B組 → 3年C組 という変遷でした。

 

そして、2年B組のときに、ある同級生と出会いました。

一番ケンカが強く、一番背が高く、一番迫力のある同級生でした。

その同級生に、目をつけられたのです。

 

冒頭の記述に戻ります。

ある日、バスケットボールの授業でチーム制でプレイをしていました。そして、その同級生との対戦で、彼がシュートをしようとしたところ、私がそれを止めに入ったのです。それで軽く身体が接触したのです。

 

そのときです。

彼の中で、何かブチンと切れたのでしょうか?

気付けば、私は彼から強烈なハイキックを顔面に喰らっていました。

 

吹っ飛んだ眼鏡を拾い上げると、私は無我夢中で、体育館から逃げました。

彼も追っかけてきたのですが、ちょうどその時に一時席を外していた担任の教諭が体育館に戻ってきたのです。それで、それ以上の事態には発展しませんでした。

 

その日の帰宅後、眼鏡が壊れていることに気付いた母親が、私に問い詰めたのです。

 

母親「あんた、なんで眼鏡が壊れてるの?何かあったの?」

 

私「カクカクシカジカ・・・」

 

母親「なんで、そんなことされるの?あんた、しっかりしなさいよ!それで、その彼にはちゃんとやり返したんだろうね!?」

 

ここまでのやりとりが、母親との会話のテンプレートでした。

繰り返しになりますが、私の母親は私が虐められると、以下の順番で問い詰めました。

 

⑴ なぜ、虐められたのか?

   ↓

⑵ 私がしっかりしていないから虐められたんだ。

   ↓

⑶ 「虐めの仕返しをしたのか」の確認。

   ↓

⑷ 私の家の家名や父親の名に傷つけるようなことはしなかったか?

 

・・・私の心配なんかしません。

私の父親のキャリアに傷がつくようなことをしなかったか。

そんなことばかりを気にする人間です。私の母親は。

 

私の家の家名も父親も、そんな気にするほど大したものではありません。

・・・ちっとも。「ふざけるな」って感じです。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

今思い出しても、中々スリルのある中学校時代だったと思います。

続きは次回に譲りたいと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

 

はじめに

 

《 関連記事 》

 

今回の記事は、上記関連記事の続きともなる記事です。

 

家の中を整理してたら、数年前に短期間通院していたメンタルクリニックでの感想のようなものを書いたメモが出てきました。恐らく通院をこれから始めようとするときに書いたようです。

 

双極性障害の前段階の「適応障害」と診断されていた頃のものです。

今回は、その記事をご覧に入れたいと思います。

 

日時は、8年前の2015年(平成27年)4月1日です。

 

 

メモの内容

 

今日から新しい一歩。

まずは心身ともに健康でいること、これが第一。

4月2日に新しい病院へ、妻も付き添ってくれる。

自分の患っている病気を、あと35%治すこと。

今は、50%しか治っていない。

 

 

4月2日に医師に話しておくべきこと(まとめ)

 

2007年5月~7月の間に、当時の勤務先の上司からパワーハラスメントを受け、それにより適応障害を生じることになった。

 

ひとつの質問をすると、それに対する回答ではなく、説教しか言われなかった。その上司の口癖は「黙っていないで何とか言えよ!!」だった。今でも夢に出てくるくらいだ。怒号のような言い方しかしない上司だったため、社会人としては基本中の基本である「上司に対する報告・連絡・相談」が全くできなくなった。

 

上司はもちろんのこと、親しくしてもらっていた先輩や同僚にさえも、声をかけることができなくなっていた。声をかけて相談しようものなら、「また何か怒号が飛ぶのではないか」、そういう不安しかなかったからだ。

 

いわゆる対人恐怖症、人間不信ともいうべきものであったと思う。

つまるところ、人に話しかけるのが怖くなった。

 

また、人の視線が怖いと思ってしまう。

上司が、課長席で他の先輩職員などに対して、大きな声で怒号を発することは日常茶飯事であった。課長席は私の自席からそこそこの距離があったが、はっきりと一言一句内容がわかるほどの大きな怒号だったのだ。

 

最初はそれほど気にはならなかったが、日が経つにつれ、その怒号が私だけに集中するようになってきた。まさに集中攻撃だ。その時から、その上司が私に視線を向けている時、非常に不安を感じるようになってしまった。

 

自分に視線が向けられていると感じると、身体が萎縮し体が硬直し、何もできなくなってしまう。体中の毛細血管が一瞬にして「ギュッ」と締め付けられる感覚に襲われるのだ。

 

先輩職員や同僚たちが、私の方を向いて何かコソコソと話をしている。

そう思った瞬間、「きっと彼らは私の悪口を言っているに違いない」としか思えなくなってしまっていた。

 

常に監視されているという感覚、何をやっても怒られる。

課長の直属の部下である課長代理も、課長とはグルだと思っていた。

会社の人間全員が、私のことを蔑んだ目でしか見ていなかった。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

このメモには、もう少しだけ続きがあります。

しかし、それは別の稿に譲りたいと思います。

 

今になって改めてメモを見返すと、内容だけからすると「統合失調症の一部とも取れるような症状も出ていたんだなぁ」と思いました。結果的に、今までにメンタルクリニックで統合失調症の診断を受けたことはありません。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

 

はじめに

 

今回の記事では、障害者手帳のことについて触れたいと思います。

特に、私も持っている精神障害者保健福祉手帳に焦点を当て、他の障害者手帳のことにも多少触れながら記事を進めます。

 

関連記事

 

 

 

本記事をおすすめしたい方

 

・障害者手帳について、歴史的背景などをつかみたい方。

・障害者ご本人または障害者がご家族にいる方で、これから障害者手帳の申請を検討されようとしている方。

 

手帳の種類

 

一般に障害者手帳と言われるものには、以下の3種類が存在します。

 

⑴ 身体障害者手帳【根拠:身体障害者福祉法】

⑵ 療育手帳【根拠:昭和48年9月27日厚生省発児第156号厚生事務次官通知】

⑶ 精神障害者保健福祉手帳【根拠:精神保健福祉法の一部改正により実現】

 

上記の各手帳を紹介した順番は、ランダムではありません。

これは、上から「制度のモトとなる法律等が制定された順」で紹介しています。

 

そうです。

身体障害者であることを証明する身体障害者手帳の制度が、最も早かったのです

それでは、法律が制定された年代を加えて、改めて紹介します。

 

⑴ 制定:1949年「昭和24年」 身体障害者手帳     

⑵ 制定:1973年「昭和48年」 療育手帳        

⑶ 制定:1995年「平成07年」 精神障害者保健福祉手帳

 

 

なぜ、身体障害者が最初?

 

身体障害者手帳の制度開始だけ、やたら早いですよね。

なぜ・・・国は、身体障害者手帳だけ、こんなに早く制度の整備を急いだのでしょうか?

 

これには歴史的な背景があります。

身体障害者手帳が制度化されたのは1949年。

つまり、第二次世界大戦での敗戦を迎えてから4年後。

 

 

身体障害者手帳は、元々、第二次世界大戦の敗戦により復員した傷痍軍人への手当の意味合いで定められた制度です。

 

 

傷痍軍人とは、戦争への兵力として駆り出され、大変な手傷を負いながらも生きながらえてこられた軍人のことです。

 

指が欠損している・・・

右腕の肘から下すべてが欠損している・・・

左足すべてが欠損している・・・

焼夷弾や銃撃などの影響で内臓に疾患がある・・・などなど。

 

それでも、生きて帰ってきたからには、国の再建に尽力してもらわないといけない。また、傷痍軍人ご本人もそう思っておられたことでしょう。障害を負った元軍人たちのサポートをするために更生施設等を設け、国としてできる限りのことをしようとしたわけです。

 

 

復員兵に対する手当

 

補足ですが、「1945年に日本が敗戦を迎えたと言っても、国は、戦地に赴き傷つきながらも必死に戦い抜いた復員兵たちに対して、何の手当も与えなかったのか?」というと、そうではありません。

 

ちゃんと、あったんです。

恩給という制度が。

今ではほとんど聞かなくなりましたね。

 

恩給とは、簡単に言うと、国のために尽くしてくれた公務員に対して、その尽くしてくれた分の国から公務員に対する恩返しのようなものです。内容としては年金と同じようなものです。

 

日本国としては、軍人恩給という形で、傷痍軍人を含む復員兵に対して、手当を出しており、継続的に支出したかったのだと推測します。

 

しかし、当時の日本は敗戦国であり、GHQの植民地でした。

このGHQが「日本の軍事力を小さくしたい」という思惑のもと、1946年(昭和21年)に軍人恩給を廃止するよう日本国に命令したのです。それで、実際に廃止されました。

 

手傷を負っていない復員兵は、軍人恩給が打ち切りになっても、自力で何とか生活できたかもしれません。

 

困ったのは傷痍軍人たちです。

大変な手傷を負っている中、敗戦後の混乱期でまともな治療も望めない。だから、自分で生活を営むことができない。軍人恩給だけが生活の糧であった。そんな中で、恩給が打ち切りとなると生活が営めなくなる。まさに死活問題です。

 

 

歴史上の人物が・・・

 

このような状況の中、当時の日本国政府は植民地国だったのでGHQの命令には逆らえなかったのです。傷痍軍人たちは途方に暮れたことでしょう。

 

しかし、ある人物の活躍によって事態は一変します。

 

ヘレン・ケラー女史です。

言わずと知れた、世界的に高名な社会活動家です。

 

1歳7か月のときに視力と聴力を失い、発声も満足にすることができなかった女史ですが、ご本人の類まれなる努力、そして周りの人々の協力、そして何よりも・・・「障害に対して決して希望を捨てなかった両親」に支えられながら、ハーバード大学で学位を取得した方です。

 

その女史がアメリカから来日し、日本国を交えて、GHQに対して交渉してくれたのです。

そして、賢明な女史の交渉が実り、GHQも「傷痍軍人に限り手当を与えるように」と方針を変えました。そのおかげで1949年に成立した法律が身体障害者福祉法なのです。

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

次回は、「障害者手帳について (その2)」として療育手帳の概要、そして可能であれば本題である精神障害者保健福祉手帳の詳細にも入りたいと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

 

今回のテーマ

 

私は、発達障害を抱えています。

40歳になってから発覚という遅咲き組です。

 

今後の生き方を考えていく上で、自分はどうするべきか?

考えました。

 

・・・私は、大学時代に法律学を、少しだけかじっていました。

「法律的に」ものごとを考えるという視点を、ほんの少し身に付けることができました。

 

そこから、この発達障害を「法制度の観点から徹底的に調べてみよう」と思うに至りました。発達障害の特性のひとつで、ものごとを幅広い視点から観察することができません。その代わりに、ひとつのテーマを掘り下げ、徹底的に追求することは得意です。

 

そこで、発達障害だけでなく、もっと「障害『そのもの』」の法制度について調べてみようと思いました。

 

 

少しわかったこと

 

2つのことがわかりました。

 

 

⑴ 障害福祉の法制度の仕組み

 

法は登場人物が2名以上いるときに出番となる。障害福祉に関する法律が適用されるケースでは、役所と障害者の2名が登場人物になります。

 

障害福祉の法制度では「役所側が障害者に対して、どのようなサービスを提供してくれるのか?」

 

これは個人的な感想になりますが・・・

障害福祉サービスに関する法制度では、役所側が「障害者側のニーズを完全に把握した上で障害福祉サービスを提供できている」との前提で関係が成り立っているように思えるのです。

 

⑵ 国の障害福祉に対する態度が変わってきた。

 

19世紀から20世紀にかけて、ゆっくりと障害福祉に対する法整備が重ねられてきたようです。ただ、20世紀までの法制度では、国は基本的に障害福祉サービスを提供することに非常に消極的でした。

 

国が積極的な関与を始める前までは、民間の福祉事業者が障害福祉サービスの担い手として活躍してくれていました。しかし、民間の福祉事業者によるサービスも、あくまで補助的な役割しかありえなかったのです。

 

 

《 障害のある子供の面倒は親御さんが看る 》

《 障害者は更生施設等に収容し、社会に害悪をもたらさぬよう監視する必要がある》

 

 

障害者は害悪をもたらす存在として扱われていたのですね。

そりゃ〜、優生保護法などという法律も存在できていたわけですよね。

 

非常に残念ですが・・・

これが、2004年までの国の障害福祉に対する態度でした。

あくまで個人的な調査による見解です。

 

それが2005年(平成17年)、障害者自立支援法という法律が制定されたことにより、状況が変わる兆しが見え始めました。

 

その後、2008年(平成20年)に、この障害者自立支援法は障害者の方々からの提訴を受け、廃止の方向に向かいます。そして、2012年6月に障害者総合支援法が新たに制定されます。

 

この法律が作られたことにより、何が変わったのでしょうか?

 

 

障害者の人権を尊重するように

 

障害者総合支援法が制定される前までの障害者には、語弊を恐れずに言えば、健常者と同じ人権が認められていませんでした。

 

本当は、この法律が制定される35年も前に、障害者基本法という「障害福祉行政やサービスの根本的法律」とも言える法律が、既に出来上がっていたのです。

 

それにもかかわらず、障害者福祉の現状は、基本法が整備されてから35年近く経過しないと変わらなかったのです。

 

 

障害者基本法が制定されてから35年経って、ようやく障害者福祉の現状が「35年前に制定された基本法の理想像」に追いつくようになってきたのです。

 

 

健常者と同じく平等な人権、これの獲得なくして障害福祉サービスの充実はあり得ません。

 

障害者には、手を差し伸べてくれるサポーターの存在が必要であり、それらサポーターの方々の援助を受けながら、障害者の自立や社会参加を積極的に促すことができる。「障害者であっても、そういうレッテルを貼られても、自分らしい生活を営むことができる権利はある」

 

これこそが、障害者の方々が長らく望んでいたことなんです。障害者の方々は、更生施設のような場所に収容され、朝に起床して、決まった時間に3食与えられ、適度な運動とレクリエーションをこなして、あとは就寝するだけ・・・。

 

たしかに、そのような生活を送りたいと希望されている障害者の方には、それが理想的と言えるでしょう。

 

でも、障害者全員がそう思っているわけではありません

障害者の方は、「自身が障害者であること」は痛いほど認識されているんです。その上で、福祉事業所などからのサポートを受けつつ、障害福祉サービスとしての訓練を受け、障害者雇用なり一般雇用なりで就業し、可能な範囲内で健常者に近い生活を送りたいと思う障害者がいらっしゃることも、また事実です。

 

多様性を求めるという言葉が叫ばれて久しいですが、これこそ多様性の最たるものではないでしょうか?

 

障害者は、必死にもがき苦しみながら、何とか健常者の輪の中に溶け込もうと尽力はするのですが、それをマジョリティである健常者たちが消極的に、ひどいときには否定的に捉えられます。

 

だが、それも転換期を迎えるときが来たようですね。健常者の方々は、もっと障害福祉サービスについて知識の吸収を図って欲しいものです。

 

障害者基本法は、後に出来上がる障害者総合支援法や何度も改正されてきた障害者雇用促進法などの障害福祉関連法のすべての基礎となる法律です。

 

 

最後に

 

次回以降は、障害福祉サービスの歴史的背景を、もう少し深掘りしてみたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596