はじめに

 

今回は前回の記事の続きです。

こちらにリンクを貼っておくので、以下のリンク先の記事から読んでいただけると幸いです。

 

 

今回の記事は小学校4年生から6年生までの時代を描きます。

虐めが始まったのは、小学校4年生のときからでした。

 

 

小学校4年生

 

小学校の4年生に進級しました。

最初は、3年生からの持ちあがりの同級生たちと、そこそこうまくやっていたつもりです。

 

ところが・・・

何かをきっかけにです。

その「何か」を忘れてしまったのですが・・・

 

ある日、同級生たち2人と休憩時間中に話をしていました。

すると、私からみて右斜め後ろに座っていた同級生が、急に私の右肩を小突いたのです。

 

「なぜ、小突かれたのか?」

それが思い出せないのですが、なぜかその小突かれた事実だけはハッキリと覚えているのです。うっすらぼんやりと記憶にあるのは、たしか同級生から尋ねられたことに対して、私が明確な回答を示さなかったからではないかと、今となっては思うのです。

 

今思えば、その時から不穏な空気が漂うようになりました。

この時点から、私への陰湿な虐めは始まったのです。

 

 

虐めの始まり

 

私が記憶に残っている虐めは、以下のとおりです。

 

 

⑴挨拶や話しかけをしても、無視する。

 

⑵廊下から教室へ入り、自分の席へ座ろうとすると「お前、ムカつくんだよ!!」と急に胸ぐらを掴まれ、おなかにパンチを喰らう。

 

⑶人がやっと一人は入れるか入れないかくらいの「掃除用具入れ」の中に、5人~6人くらいの集団に無理矢理押し込まれ、閉じ込められる。そして、私が入っている掃除用具入れを何度も蹴り上げる。

 

⑷自分の机の中の教科書やノートが、私が気付かぬ前に荒らされていた。

 

 

思い出せる限りでは、こんなところです。

きっと今でも似たような虐めが横行しているのでしょう。

 

否、今はインターネットが普及している分、虐めの在り方もさらに陰湿になっているのかもしれませんね。

 

そして肝心なことは、なぜ自分がこのような目に遭うのか、全く理解ができなかったことです。前にどこかの記事でも書きましたが、虐められた側の人間というのは「自分を必死で守ろうとする」ので、他のことに構ってられないのです。

 

なので、自分がなぜ虐められるのか、そこまで分析している余裕がなかったのです。

そして極めつけは、担任の女性教諭が全く力になってくれなかったことです。

 

今にして思えば、たしかに教諭としての仕事量や日教組の教諭たちに対する影響力などを考えると、いろいろと仕事がやりづらかった面があったのかもしれません。ただ、当時の生徒の立場から言わせてもらえれば、間違いなく担任の教諭は「無能」でした。

 

私を虐めていた生徒たちの主犯格の生徒は、担任教諭のことを確実に馬鹿にしており、見下していました。教諭が彼に何かしらの注意をしても「うるせぇ!ババアは黙ってろよ!」という暴言が出るくらいに。

 

 

小学校5年生

 

そんな1年を何とかやり過ごし、5年生に進級しました。

5年生になると、虐めにも、もうひと手間加わるようになりました。

 

⑸10人くらいの同級生に、床に倒され、そこで押さえつけられたまま、私の上に次々に同級生が覆いかぶさっていき、息ができなくなりそうになる。

 

私が、そのときにあまりにも大きい悲鳴を上げるので、隣の教室の担任が怒鳴り込んできたくらいです。

 

私は、発達障害の特性もあってか、自分がここまで虐められることに全く心当たりがなく、ボケ~ッとして生きてきました。

 

ただ、ここまでくると、私自身も休憩時間になると、教室内にいることに恐怖感を覚えるようになりました。50分の授業が終わり、その後に10分の休憩、そして次の時限へ。

 

その10分の間、私はすぐに小学校の1階の廊下前で時間が過ぎるのを待つようにしていました。1階には何があったのでしょうか?

 

・・・職員室です。

 

職員室の中に入室すると「用もないのに勝手に入ってくるな」と教諭たちに叱られたので、職員室のドアの目の前にいて、10分間を耐えしのいでいました。職員室の前であれば、いくら無能な教諭でも何かしら助けてくれるという望みを持っていたからです。

 

 

小学校6年生

 

ここも何とか1年間を耐え抜き、6年生に進級できました。

6年生に進級し、最後のダメ押しで虐めがひとつ加わりました。

 

⑹女子生徒全員から気持ち悪がられ、話をしようとしたり、用事があって少し距離をつめようとするだけで「離れてよ!気持ち悪い!」と、声を揃えて言われるようになる。

 

PTAの役員会などでも、虐めの件は話題に上ったそうです。

そして、虐めの壮絶さが私の母の耳に入る度に、私は母から烈火のごとく叱られました。

 

「なぜ、そういう虐めに遭っていることを直接話してくれないの!?他のお母さん方から話を聞くことになったじゃない!私がどれだけ恥をかいたか、アンタにわかるの!?それに、虐められているのなら、少しはやり返しなさいよ!」

 

・・・記事を書きながら思ったのですが、我ながら30年以上前に言われたことを、よくもこんなに詳細に覚えていたものだなぁと(笑)

 

結局、私の母はPTAの役員会の場で「自分が恥をかかされた」ということに対して怒りを感じ、それを当事者である私にぶつけてきた。それだけに過ぎないのです。

 

・・・自身の保身と世間体しか考えない母親です。

 

30年以上経った今でも、それは変わりません。

実の息子が虐められているのに、「息子の心配はしない」のです。

それどころか、「なぜ虐められたりするの!?」という叱責と追及のみ。

 

 

母親の思考回路

 

私は母本人ではないので、正確にはわかりません。

でも、大体は推測ができます。

 

まず、「自分の息子がそこまで壮絶に虐められていると知りたくなかった」。

 ↓

次に、「なぜ、私の息子が虐められないといけないの?」。

 ↓

次に、「虐める方に、もちろん原因はある。でも、息子にも原因があるのかもしれない」。

 ↓

次に、「うちの息子はしっかりしていないから、きっとそれが原因だろう」。

 ↓

次に、「なぜ、うちの息子はしっかりできないのだろう?・・・情けない」。

 ↓

次に、「そもそも、なぜやり返さないの!?」

 

・・・大体、こんなところだと思います。

 

同じDNAを受け継いでいるので、思考回路も似たようなものになると思います。

私には子供はおりませんが、同じようなシチュエーションに遭遇したとき、きっと同じ思考パターンに陥ることでしょう。

 

遺伝は怖いですね・・・

 

こうやって、地獄の小学校生活を何とか・・・文字通り「死に物狂い」で生き抜きました。

 

 

最後に

今回の記事は以上です。

虐めが小学校までで終わればよかったのですが、なかなかそうもいきませんでした。

次回は、中学校時代の内容を記事にしたいと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

 

小学校へ入学

 

 

発達障害の診断が下されないまま、卒園した。

そして、地元の公立小学校に進学した。家からは徒歩で5分もかからない場所にある。

 

今回の記事は、以下の記事からの続きになる。

以下の記事を読んでいただいてからの方が、よりわかりやすいと思う。

 

 

小学校の時代は、大きく分けて2つに分類できる。

ひとつは、1年生から3年生までの間の3年間。

もうひとつは、4年生から6年生までの間の3年間。

 

以下、それぞれに分けて記事にしていこうと思う。

 

 

1年生から3年生

 

⑴ 1年生と2年生の時代

 

とにかく右も左もわからないし、まだ精神的にも肉体的にも自立できていない状態。

そこへきて、何とも強烈な個性の担任。たしか、定年を超えて嘱託で勤務していた先生だったと記憶している。

 

何が「強烈」だったか?

以下に列挙してみたい。

 

まず、忘れ物をした生徒には容赦がなかった。

忘れ物をした場合、忘れ物をした生徒を教員机まで来させて、机の上に両手をついてお尻を出させ、サランラップの芯で力一杯にお尻を殴りつける。

 

これが尋常ではない痛さ。もう本当にハンパじゃない。

涙が出るのはもちろんのこと、痛すぎてじっとしていられず、お尻を押さえつつ、しゃがみながらジャンプをして悲鳴をあげる・・・

 

傍からみれば、気合の入ったうさぎ跳びそのものだ。

しかも、男女分け隔てなく、平等に「サランラップによる暴力」が行われていた。

今思えば、男子はまだいいにしても、女子の悲鳴は聞いてて不憫に思ったものだ。

 

極めつけは、お尻が痛すぎてじっとしていられないのに、お尻アタックの後すぐに「早く席につけ!!」と指導してきたのです。

 

 

次に、冬の季節での出来事。

今のご時世であれば、間違いなく社会問題化するだろう。

 

冬場は寒いので、セーターを着用する生徒が多かった。

セーターを着用しても手のひらがなお寒いので、多くの生徒がそのセーターの袖の中に手を隠して隈なく暖をとっていた。

 

ところが・・・何が気に入らないのか。

この先生は、セーターの袖の中に手を隠している生徒を見つけると・・・

教室まで呼びつけて手首を切断しようとするのだ。

 

何で手首を切ろうとしたのか。

それは、ペーパーカッターである。

 

 

このペーパーカッターに果敢に挑むような小学生はいない。

皆、恐怖に慄いた。泣き叫び、腰から崩れ落ちる生徒もいた。

 

先生のセリフも、ある意味、恐怖を増幅させた。

「セーターの中にしまうくらいなら、手は要らないということだな!?そうだな!?」

 

先生は、セーターに何か恨みでもあったのだろうか?

誰もそんなことを言っていない。

 

カッターの刃もとに手首を押し付けて怒鳴る様は、本当に手首を切り落とさんとする鬼気迫るものを感じた。

 

 

⑵ 3年生の時代

 

3年生の時は、これといって記事にするようなことはない。

同級生とは、可もなく不可もなく、適度な距離間で付き合っていた気がする。

 

強いて言えば、担任の先生が「ジャイアンのかあちゃん」のような人だった。

とにかく声の大きい人だった。

 

選挙カーに乗ってて拡声器を使わなくても注目を集められるくらいに声が大きかった。

そして1・2年生の時の担任の先生同様、忘れ物には厳しかった。

 

忘れ物の多さについては、発達障害をそのまま物語っているようなものだった。

忘れ物をする度に、きつく怒鳴られていた。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

小学校の1年生から3年生までの時期は、いじめを受けた経験がありませんでした。

仮に受けていたとしても、そのことにネガティブになるほどのものはなかったと思います。

 

「本格的ないじめ」が始まったのは、4年生になってからでした。

それは次回の記事に譲りたいと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

torao596

 

 

はじめに

 

20代で適応障害を発症してから、何度もメンタルクリニックを変えてきた。

様々なクリニックで、様々な薬を処方されてきた。

 

抗不安剤のアナフラニールは「よく効く薬です」と言われ、服用を継続していた。

そうかと思えば、クリニックを変更した時に「こんなに古い薬を処方しているクリニックに通っていたんです!?」などと驚かれたりする。

 

同じく抗不安剤のリフレックスを処方された時には、副作用にかなり悩まされた。

食欲を増進させる作用があり、しかも体が浮腫むように太っていくのだ。30代に突入した時、体重は3桁(103kg)に及んでした。

 

今回は、そんなメンタルクリニックでの「あるやりとり」を記事にする。

 

 

夫婦で同じクリニックに通院

 

今の土地に転居してから、あるメンタルクリニックに通院していた。

 

そのクリニックは、「夫婦そろって通院しても構わない」というスタンスだった。

メンタルクリニックとしては、珍しいところだった。

 

メンタルクリニックは、大抵、夫婦そろって同じクリニックへ通院するのを嫌がる。

というよりも、断られる。心療内科独特の診療方針があってのことだろう。

 

妻の要望もあり、夫婦で同じ医師に診てもらえるところが望ましいということで、そのクリニックを選んだ。

 

 

そうして、夫婦そろっての通院が始まった。

 

 

医師の言うことを聞かない

 

冒頭でも書いたが、私は何度もクリニックを変えてきた。

特にメンタルクリニックでは、医師との相性が通院を続けるか否かの決定打となる。

 

今までの通院の経験から、私自身、医師には何も期待しなくなった。

何年かけても、症状が良くならない。処方された睡眠導入剤を服用しても寝付けない日々が続くこともある。予約をしても長時間待たされることが多々ある。そして、やっと順番がまわってきたかと思えば、医師と話をする時間は5分もあれば長い方だ。

 

2時間以上待たされて、診察時間が3分弱なんて日もザラだった。

医師に頼りすぎても、自分がバカをみるだけだ。今後は、医師との会話は必要最低限でとどめ、あとは「いつもの薬」を処方してもらうだけでいい。その後、病気の症状が良くなるかどうかは自分次第だ。時間が解決してくれる。そう思うようになった。

 

「発達障害の特性が一番ひどかった時期の話 (その1)」の記事でも書いたように、私はとにかく自分の意見を一切曲げず、押し通していた。妻の意見やアドバイスに耳を貸そうとせず、夫婦での会話すら成り立たない状況だった。

 

 

言い訳にしかならないが、このような状態の中で「医師の意見を取り入れる」という頭に切り替えることが、どうしてもできなかった。

 

 

《 医師からのアドバイス 》

 

「あなた(=私)には『認知の歪み』が認められます。まず、日常生活において、奥さんを先生だと思って、常に奥さんの言うことを聞くようにしてください」

 

普通ならそこで納得するのだ。

「はい、わかりました」と。

 

事実、アドバイスを耳にしたときには「よし、そうしよう」と思っていた。

だが、家に帰り、いざ日常生活を再開すると「気をつけておこう」と思っていたことが吹っ飛ぶのだ。頭からスッポリ抜け落ちる。

 

そして、妻に対して頭ごなしに怒ったりする。

妻も思った。「先生がアドバイスしてくれたことも、すべてムダだったんだなぁ」と。

 

 

・・・そういう出来事も重なり、妻は余計に私に対して何も期待しなくなった。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

torao596

 

はじめに

 

私の発達障害の特性が、誰に一番影響を与えたのか?

それは親でもなく、他人でもなく、「妻様」なのである。

今回は、その時のエピソードを書きたい。

 

 

読んでいただきたい方

 

発達障害者の方をご家族に持つ方に、特に読んでいただきたい。

同じようなことを言われた経験のある方、おそらくいらっしゃるのではないか?

 

 

「自分の意見がすべて」

 

《 エピソード1 》

 

妻との日常生活において、まず「絶対に自分の意見を曲げようとしなかった」。

妻が意見を出してくれても、こんな言い訳をしていた。

 

 

「俺はこのやり方でずっとやってきたから」

「俺はずっとこの考え方でやってきたから」

結論「だから仕方ないよね」で、私が勝手に締めくくっていた。

 

 

私がそんな態度を貫いていたから、喧嘩が絶えなかった。

喧嘩しても全く会話が成立しないので、妻が悲しくなって泣いてしまう。

妻が泣くと、泣いている妻に苛立ちを感じ、「泣くな!!」と言って、また怒るのだ。

 

妻は、「もう、この人とは『心が通じない。届かない。何を言っても意味がないんだ』」と思うようになり、妻の思い描いていた家庭像が崩れた。私が崩してしまったのだ。

 

そんな毎日を送っていたので、妻の自己肯定感がどんどん低くなっていった。

妻は、「(妻自信が)こういう扱いを受けるのは、私(=妻)が悪いからなんだ」って。そう思うようになった。そのことを妻が通院しているメンタルクリニックの先生に相談したら「それはちがう。あなたはよくがんばっている」と励ましてくれた。

 

 

妻にとっては、メンタルクリニックの先生だけが妻の味方なのだ。

 

 

《 エピソード2 》

 

当時住んでいた賃貸物件でトラブルを抱えることがあり、弁護士に相談する機会があった。

 

妻は「法テラスで相談してみた方がいいんじゃない?」と言ってくれていたのだが、私が頑なに「いや、俺の学生時代の同級生に弁護士がいるから、絶対に彼に相談する」と突っぱねた。

 

詳細は省くが、結局、その頼んだ弁護士の力量が乏しいこともあって、私達夫婦がその賃貸物件を退去せざるを得ない状況になった。

 

妻の言葉に耳を貸さず、自分の勝手な判断と根拠のない自信が、家庭内に大きな亀裂を生じさせることになった。

 

妻は「あの一件だけは、一生許さないから」と、常々口にしている。

私の意見をゴリ押しして、良い結果が得られたことは一度もない。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

 

発達障害の特性を持つご家族から「同じようなことを言われたことがある!」または「同じようなことを思ったことがある!」などのご意見・ご感想、その他「ギモン・質問・イチャモン」、何でも結構です。コメントなどをいただければ幸いです。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

torao596

 

はじめに

 

前回の続きである。

8月14日の深夜1時、つまり8月13日の25時。

体温計には37.4℃と表示されていた。

 

そこからズンドコズンドコ、体温が上がっていったのであった。

 

 

8月14日の朝

朝の6時、目が覚めた。

起きた原因は、ただひとつ。

 

・・・「悪寒」である。

 

体温を測ってみた。

(ピピピピッ、ピピピピッ・・・)

 

・・・37.9℃。

 

まもなく、門が開く。

38℃への門が。

 

この時に感じた悪寒は、今までに感じたことのないほどのものだった。

とにかく寒い。寒くてたまらない。

我慢しようとしても、自然と声が漏れてしまうくらいに。

 

こうなると正常な思考を保てなくなる。

とにかく早くに、少しでも熱が下がって欲しい。

その一心で、絶対にやってはいけない薬のチャンポンをしてしまった。

 

市販薬のベンザブロック。

整形外科でもらったロキソニン錠。

「いつどこでもらったのか」すら忘れた、家に残っていたカロナール錠。

 

 

 

さらに追い打ちをかけるように、何時にどの薬を何錠服用したのかを覚えていない。

さて、効き目はどうだったか?

 

・・・効くわけがないよね。

飲み物は、ひたすらイオンウォーターのみ。

糖尿病になるかと思うくらいに飲んだ。

悪寒を抱えたまま、また床に就いた。

 

 

同日11時以降

11時に目を覚ます。

また体温測定。

(ピピピピッ、ピピピピッ・・・)

 

・・・38.9℃

 

キタ、38℃ダイ。しかも39℃台にも手が届きそう。

 

この時に一番ツラかったのは、唾を含む水分が喉を通る時の激痛。

ハンパじゃない痛さ・・・

 

いつもは「喉を通るので喉が痛いだけ」という感覚だったが、今回は違った。

喉に水分が通過すると、頭がバクハツするような痛みが全身に走るのだ。

 

イメージとしては、こんな感じである。

毎回毎回こんな感じだったので、イオンウォーターを口に含んだ後も毎回地獄だった。

 

 

発症2日目の症状

 

一番ひどかったのは、発熱である。

その次に、悪寒。

その次に、喉の痛み。

その次に、咳と痰。

その次に、鼻水の詰まり。

最後に、頭痛。

 

正直、頭痛は発熱の陰に隠れてしまい、あまり目立つことはなかった。

鼻水の詰まりは、横になって寝ようとすると息ができないほどだった。

あと、咳と痰の悪化スピードは尋常ではないほどの早さだった。

 

 

その後の経過

 

各時間の体温測定

16時30分:38.6℃

19時00分:38.3℃

21時20分:37.8℃

 

一番最後に測った体温で37℃が表示された。

37℃台に下がったので、少しだけ希望が見いだせた。

このまま下がり続けてくれれば・・・

 

だが・・・・・そんなにコロナは甘くなかった・・・

 

 

最後に

また次回もご期待ください。

ちなみに、世間でよく聞く「味覚障害」は、この時点では発症していませんでした。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

torao596

 

はじめに

 

「自分だけはかからない」

「自分だけは大丈夫、こんなに用心しているんだから」

 

・・・と思っていたら、コロナにかかってしまった。

 

「自分はコロナにはかからない」と根拠のない自信に満ち溢れていたので、正直コロナのことを舐めていた部分があったかもしれない。

 

令和5年5月8日に、コロナは「新型インフルエンザ等感染症(2類相当)」から「5類感染症」へと位置付けが変わった。たしかに変わった。だからといって、感染症の威力が少なくなるわけではない。

 

 

異変を感じた瞬間

 

私の平熱は、驚くほど一定の数値なのだ。決まって36.5℃。

ここから上がりもしなければ下がりもしない。

 

だから体に異変が生じたかどうかを調べるには体温測定が一番の手っ取り早い。

8月13日の22時、少し体に違和感を感じたため、久しぶりに体温を測定した。

 

(ピピピピッ、ピピピピッ・・・)

体温測定が終了した。

 

・・・36.9℃。

 

すぐに思った。

「あっ、ヤバい・・・」

 

37℃にも満たない。

平熱の範囲内だろう。気にし過ぎだ。

 

きっと、そう思われた方も多いだろう。

私もできれば、そう思いたかった。

 

だが、長年の勘と経験が、どうしてもそれを許さなかった。

培われてきた勘と経験は、私に不安しか与えなかった。

 

私は、小学校の3年生くらいから26歳までの約18年間、ずっと熱に悩まされ続けてきた。冗談ではなく、1年のうち180日は発熱し、その都度耳鼻科に通院していた。そして、26歳の時に、扁桃腺を手術で摘出したのだ。それから、ほぼ発熱はしなくなった。

 

やはり、長年付き合ってきただけのことはある。

私の身体、そして勘と経験。

 

この日は早めに寝ることにしたが・・・

与えられていた不安は、見事的中することになった。

 

 

8月14日深夜

 

深夜1時、目が覚めた。

身体がポカポカした感覚だった。

 

すぐに感じ取った。

「確実に悪化しとる・・・」

 

怖くなって、体温測定をした。

先程測定してから、まだ3時間しか経過していないというのに。

 

(ピピピピッ、ピピピピッ・・・)

 

・・・37.4℃。

 

「あっ」

思わず、声が出てしまった。

 

たった3時間しか経っていないのに、そんなに頻繁に熱を測ったって変わるわけがない。

神経質になっているだけだ。少しは落ち着いたらどうだ?

 

自分にそう言い聞かせた。

これは人によって感じ方が千差万別だろうが、私の場合「たった3時間しか経っていないのに、体温が0.5℃『も』上昇していた」と感じた。

 

だだっ広いおでこに冷えピタを貼り、解熱鎮痛剤を服用して再度床に就いた。

「どうか37℃台でおさまりますように」と祈りながら・・・

 

 

最後に

 

今回から、数回に分けてコロナ奮闘記を記事として書いていこうと思います。

次回もご期待ください。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

torao596

 

はじめに

 

「いつもそんなに怒ってばかりで、よく体が疲れないね~」

妻の口癖である。

 

妻にそう思わせてしまうほどに、いつもいつも「怒りスイッチ」が入りっぱなしなのだ。

今回は、その怒りにまつわるエピソードを記事にしようと思う。

 

 

前提事実

 

ある日、私は勤めていた会社を退職した。

退職した理由は覚えていない。恐らく、人間関係の不調によるものだったと思う。

 

そして、今まで加入していた勤務先の健康保険を脱退し、市区町村が運営している国民健康保険へと切り替える手続きが発生した。その手続きを済ませに、役所へ訪れた。

 

手続き完了後に、役所から渡された書面に目を通した。

その書面というのは、「国民年金保険料の納付義務が生じます」という内容だった。納付する金額や納付開始時期などについて書いてあったと思う。

 

今までは勤務先によって厚生年金保険料が自動的に天引きされていたので、私が個別に済ませる手続きはなかった。しかし、その勤務先を退職したことによって厚生年金保険料の天引きがなくなり、その代わりに自身で国民年金保険料の納付をしないといけなくなったのだ。

 

 

怒りスイッチ

 

その書面をみて、怒りスイッチが入った。

問題は、なぜ怒りのスイッチが入ったのか?

書面の内容の「どこが怒りポイントだったのか?」

 

たしか、国民年金保険料を納付しなくてはいけなくなったことに対する怒りだったと思う。

納得がいかなかったのだ、国民年金保険料を納めること自体に。国民健康保険料を納めるだけでも結構な出費なのに、その上、年金保険料まで納めていられる余裕なんかない!!

 

いや・・・聞いていたはずなのだ。役所の担当者の説明を。

つまり、説明を聞いている時は、いかにも聞いている風に相槌を打ちながら、その時点で理解はするのだ。ただ、その説明のすべてのうち、おそらく半分以上は聞き取れていない口頭での説明では、頭に入らないのだ

 

加えて、忘れっぽい。

説明したはずなのに、忘れている。

私としては、国民健康保険料を納付すれば事足りると思っていた。

年金保険料の納付は不要だと思い込んでいた。

 

だが実際には、年金保険料の納付も必要だった。

自分の思い描いていた予定、心づもりとは違うレールの上で走行せざるを得なくなった。

 

思い通りにならなくなった。

予定外の行動を強制された。

予定外の行動強制を受け止めるだけの容量がないのに。

 

ここで怒りスイッチが入るのだ。

 

「発達『障害』」と言われるゆえんだろう。

勤めていた会社を辞めた後の手続きなどを一通り理解していれば、怒るポイントはないのだ。逆に、退職する前に気付くくらいだ。「あ~、退職したら天引きがなくなるから、健康保険も年金も自分でやらないとなぁ」と。

 

書類ぶちまけ

 

私は年金保険料納付の案内を見ながら、年金事務所に連絡を入れた。

電話口で応対している人も、おそらく驚いたことだろう。突然、「こんな年金保険料なんて払えるわけないでしょう!?」と怒鳴られれば。

 

そこで、納付書番号か何かを尋ねられたので、おそらくその納付書を探そうとリュックを下ろし、チャックを開けて、中に入っている書類を地面に全部ぶちまけたのだ。

 

ぶちまけた場所は、役所から程近い居酒屋の目の前だった。

昼時だったのが幸いして、お店にお客さんの出入はなかった。

 

妻は、そんな私の行動をみて「どうしたらいいだろう・・・」と動揺していたそうだ。

私は怒りで我を忘れ、そこまで気を配っていられなかった。

 

行きゆく人達も、私が地面に座ってぶちまけた書類をにらみながら電話で怒鳴っている姿を見ていたことだろう。

 

妻も、こんな私の姿が晒されることになり、さぞ恥ずかしい思いをしたことだろう。

本当に申し訳ない思いで一杯だ。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

いかに妻に迷惑をかけてきたか、今回の内容はほんの一部に過ぎません。

他にも妻に迷惑をかけた家族史があるので、今後記事にしていきたいと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

torao596

 

懐かしいものに遭遇

 

夫婦2人で買い物へ出掛けた。

本当はペキたちも連れて行きたがったが、この猛暑の中で車の中に放置することはできないのでペキ2頭はお留守番。

 

近所のショッピングモールへ行き、久しぶりにゲームセンターへ寄ってみた。

かつて私が中学、高校時代に夢中になった「ストⅡ」や「餓狼伝説」といった格闘ゲームはなかった。

 

その中で注目したのは、ゲームセンターの隣のテナントに入っていたガチャガチャのコーナー。そこで、懐かしいものを目にした。

 

私達が都内に住んでいたときに、よく山手線を利用していた。

その山手線の駅名表示が商品化されていたのだ。

 

早速、買ってみた。

すると、これが精巧に作られていた。

300円とは思えない出来栄えだった。

 

こんな感じの商品。

しかも、この駅名表示。

ちょっとしたカラクリがあった。

 

 

 

この側面にあるON/OFFのスイッチ。

 

これをONにしてみると・・・

 

 

なんと掲示板が光るのだ。

繰り返すが、やはり300円のスペックではないように思った。

 

私達夫婦は、2人そろって「人が大勢集まるところ」が苦手だ。

それは妻で言えば元々の精神疾患、私にしてみれば年を重ねるごとに苦手になっていった。

 

発達障害持ちの私としては、人とコミュニケーションを取らずに済むガチャガチャは、ある意味ありがたい存在でもあるのだ。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

torao596

 

 

 

発達障害の片鱗

 

幼稚園児のときから、発達障害の特性は出ていた。

 

協調性がない。

 

落ち着きがない。

 

忘れ物は多い。

 

人の話を聞かない・・・などなど。

 

ただ、ひとつだけ、「記憶力抜群」と通信簿だか何だかに書かれていたことは覚えている。

その記憶力も、恐らくは私の興味を引く事柄に限定されたものだったと思う。そうでなければ、「忘れ物が多い」と言われるはずがない。

 

母親の心配

 

そんな様子だったので、担任の先生からの親への連絡事項も多かったそうだ。

「今日も、あまりお友達と遊ばなかったです」とか「今日持ってくるように伝えておいた『お道具箱』を忘れていたようです」とか。

 

そして、その都度、母親から大目玉をくらう。

「自分(=母親)の教育が悪い」と思われるのを余程嫌がったのだろう。

 

だが、私からしたら、そんなことは知ったことではない。

私は発達障害を持ちながら、自分なりに精一杯生きているのだから。

 

何度も大目玉をくらうような出来事が続いたので、母親も心配になったらしい。「この子の将来が不安になってきた。本当に大丈夫なんだろうか?一度、医者にみせた方がいいんじゃないだろうか?」と。

 

それで、幼稚園の当時の園医に診察をしてもらったそうだ。

伝えられた診断内容は以下のとおり。

 

医師 )

「『落ち着きがなく、協調性がない』という話でしたが、それは心配ないですよ。この年頃のお子さんにはよくあることです。協調性については個性がありますし、落ち着きは成長するに連れて徐々に備わってきます。発達障害の特性にも似たような症状がみられますが、torao596くんはそこまでの症状ではないので、心配ないですよ。大丈夫です」

 

この医師がまだ生きていれば、今の私の姿を見せてやりたい。

「40歳になって発達障害の診断を受けましたよ」って。

 

母親は、この診断を受けて一安心したようだ。

「この子は、将来に不安がなく成長してくれそうだ」との希望を持てたそうだ。

 

 

当事者としての感想

 

親は、勝手に一安心していた・・。

 

だが、発達障害の当事者としては、今までの四十数年の人生を省みたときに・・・

簡単な一言で片づけられてしまったこと、発達障害の診断を下されなかったことで今に至るまでの壮絶な凸凹人生を味わうハメになったことなど・・・

 

 

本当に憎しみや悔しさ・・・それしかない。

 

 

本当に、それだけの苦労をしてきた。

もちろん、100人いれば100通りの人生模様があり、それぞれの苦労の形があることは承知している。私より苦労している人は、星の数ほどいるだろう。

 

でも、この時にもし発達障害と診断されていれば、その後の人生が変わっていたかもしれない。

 

少なくとも、定型発達者としての生活環境へ放り込まれ、様々な場面においてボタンを掛け違え、それゆえの凸凹した人生を・・・送ることはなかったと思う。

 

凸凹した人生を送ることになった原因は、私自身の不徳の致すところにある。ただ、発達障害と診断されなかったことによって「背負わなくてもよかった苦労」も背負うことになったことだけは間違いない。

 

その「背負わなくてもよかった苦労」というのが、私の四十数年の人生の中で、あまりにも大きなウエイトを占めているのだ。

 

最後に

 

私のような、いわゆる「大人の発達障害」で悩み苦しんでいる人は、たくさんいると思います。本当にここ最近になって、やっと発達障害という症状がクローズアップされるようになり、人に話すことが憚られなくなりました。

 

ほんの少しずつですが、やっと発達障害が社会的にも認知され始めてきたと思います。

 

次回以降も、発達障害の特性ゆえに苦労した家族史を書いていこうと思っています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

torao596

 

いじめられる理由

 

遡ること三十数年前、5歳くらいの時だったと思う。

年中さんというのか。そこでの出来事をつづろうと思う。

 

私は、昔からいじめられていた。

幼稚園の頃からだ。いじめの被害者として、長い歴史がある。

今思えば、発達障害の特性が知らず知らずのうちに発症していたのだろう。

 

 

いじめとは違うが、幼稚園の担任の先生に、こんなことをよく言われていた気がする。

 

・もう少し落ち着けるようにしましょう。

・もっと他のお友達と一緒に遊ぶようにしましょう。

・忘れ物が多いので、忘れ物を少なくしましょう。

 

これらは発達障害の典型的な特性である。

 

 

いじめられてきた人間だからこそ言えることだが・・・

いじめる側は当然非難されるべきだが、いじめられる側にも何かしら相応の理由があるのではないかと。そう思うようになった。

 

私の場合で言えば、当時は自分ではわからなかったものの、他の園児とは何か違う特性を表していたのだと思う。恐らく、それは発達障害によるものであろうとにらんでいる。

 

人間は・・・子供も大人も、集団に同調しない異質な存在を排除したがる傾向にある。心理学などは勉強したことがなく、全くにもって疎い方だが、四十数年の間、勘と経験を積み重ねた結果、そう思うようになった。

 

いじめられる人間は、自分を必死で守ろうとする

それに手一杯で「なぜ、自分はいじめられるのだろう・・・」などと考え込む余裕などない。だから、いじめられる本人は、自身が他の人たちとは異質な何かを兼ね備えていることに気付かずにいるのだ。

 

私もそうだったから。

 

同級生のMくん

 

同じ幼稚園の同じ学級に、M君という男の子がいた。

ガキ大将気質だが、母親には絶対に頭が上がらない。

まさにジャイアンそのものだった。

 

M君の母親は、他人にはすごく腰が低く、優しかった。

M君が私のことをいじめていたことも知っており、お迎えの時間帯で会うたびに謝ってくれていた。

 

ただ、M君に対しては、まるで鬼にでもなったかのような態度に切り替わるのだ。

 

 

幼いながらも、M君は私のことをいじめている人間であるにしても、あの強力な母親とずっと一緒にいるM君のことを不憫にも思ったものだ。

 

そんな幼稚園時代を過ごしていた、ある日のこと・・・

事件は起きた。

 

 

【積み木】投てき事件

 

記憶は定かではないが、たしか朝の登園を終えて、何かしらのお遊戯をしていたときだったと思う。もう少しで昼食という時間だった。

 

M君が、いつものように、私にちょっかいを出していた。

そして、ヒートアップしたのか、M君がすぐ近くにあった「かなりデカイ積み木」を、私に目掛けて「〇ね~!!」と叫びながら投げてきたのだ。

 

どれだけデカイ積み木であったか。

少なくとも、大人の顔の1.5倍くらいの大きさはあった。

もちろん、私やM君の顔の大きさなど比べ物にならない。

 

 

M君の顔の大きさと比べてみよう。

《 M君 》           《 積み木 》

 

これは誇張しているのではなく、当時の私からすれば恐怖心とも相まって、これくらいに大きく見えたのだ。しかも、M君は肩にやっとこさ担いで、全身の力を使って投げつけてきたのだ。

 

今でも覚えている。

正方形の「とてもカタイ木材」で出来上がっている積み木だった。

幼稚園児に対して投げつけた場合、〇傷能力が認定されるレベルだと思われる。

 

私は何とかそれを避けた。

避けたのはいいが、その避けた積み木が床に叩きつけられたときに、衝撃で教室の床が割れてしまったのだ。

 

            《 イメージ 》

 

当時、幼稚園の教室の床は木材に漆を塗って艶を出しているような仕様だった。「木材なのに、やたらツルツルしているなぁ」という印象があったのだ。

 

積み木の落下時に、ものすごい音がしたので、先生方が教室に駆けつけてきた。

 

先生「今の音は何ですか!?・・・・・あっ!!なんで床が割れてるんですか!?」

 

私は昔から「ボォ~~」っとしていたので、何もしゃべらなかった。

代わりに、教室内にいた他の園児が、先生に一部始終を話してくれた。

 

他の園児「せんせ~、あのね、M君がね、カクカクシカジカ・・・」

 

 

・・・・・先生、発狂。

 

 

先生「M君!!ちょっとこっちに来なさい!!」

こんな感じで、M君は職員室へと連れ去られていった気がする。

 

 

事件後のこと

 

その後のことは、ほとんど覚えていないのだ。

ただ、M君の母親が、何度も何度も謝ってくれたことだけは記憶にある。

 

その後、M君が母親からどのようなお説教をされたのか、定かではない。

M君は三途の川を渡ってはいないだろうか。母親のことを考えると心配になった。

 

ただ、その翌日も登園はしていたので、とりあえず生きてはいたのだ。

M君は、この事件に懲りることなく、その後もコンスタントに私をいじめ続けたのだった。

 

 

最後に

 

今回の記事は以上です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

torao596