【思索】車輪の再発明

自由とは、誰でも気づくことが出来るのに、案外、誰も気がつかないことに、ひとり、気づくことである。

気づくことの出来る人は自由だ。

それに対して、気がつかない人は不自由だ。

彼らも既知の問題は簡単に解くことが出来るが、未知の問題にぶち当たると、簡単に立ち止まってしまう。

だから、彼らは少しでも多くのことをあらかじめ知っておこうとするが、それには限界がある。



イエス・キリストは自由な人だったが、彼の弟子たちは必ずしも自由な人たちではなかった。

キリストは一人で人生の色々なことに気がついたが、彼の弟子たちは必ずしもそうではなかった。

有用なことをたくさん知っている人が自由なのではない。

自由に気付くことが出来る人が自由なのだ。


私たちは、他人に気づいたことを教えることは出来るが、気づき方を教えることは出来ない。

発明家は、発明した内容を説明することはできるが、発明の仕方を説明することは出来ない。

音楽家は、作曲した内容を聴かせることはできるが、作曲の仕方を説明することは出来ない。

だから、自由は教えることが出来ない。

自由は自分で身につけなければならない。


世の中には、同じ社会においても、恵まれている人と、そうでない人がいる。

子供にも恵まれている子供とそうでない子供がいる。

恵まれている子供とは、有益な親の下に生まれた子供だ。

恵まれていない子供とは、有益な親の下に生まれなかった子供だ。

親の中でも、子供にとって最も有益な親は、有能な親、すなわち、世間知の多い親だ。

世間知の多い親の下に生まれた子供は、世の中の様々な課題を解決するための方法を、今さら自分で考え出す必要がない。

恵まれている子供は、気付くための努力をする必要がないので、その労力をすべて、既知の道を進むことに割り当てることが出来る。

その分、彼らは若くして成功しやすい。特に大学受験のようにその制度が古くから確立されているような場合においては。


それに対して、恵まれていない子供は、親の教えが得られず、人生の様々な問題に対して常に独力で取り組まなければならない。

例えば、親、親戚、周囲の大人たちに大学出身者が一人もいないような環境で育った子供は、親や先生から「よい大学にいきなさい」と言われても、そのためにどうすればよいのかが分からない。

一生懸命勉強して、大学受験で良い点を取れば、自動的に良い大学に合格できるはずなのだが、モチベーションも含めて、道の見えない者にとっては、なかなか思ったようにはいかないものである。

結局、人生の問題をひとりで改めて考えるということは、大人なら誰でも知っているような世間知を再発明するということである。

これは子供にとって、なかなか容易なことではなく、必ずしも成果が得られるとは限らない。

また、仮に何かしらを発明したところで、それは世間においては誰でも知っているようなことでしかないのだ。

要するに、恵まれていない子供が、人生において、あらためてひとりでやっていることは車輪の再発明でしかないのである。

しかし、恵まれていない子供はそれを繰り返すしかない。


ところが、ここにひとつの不思議な現象が生じる場合がある。

若い頃に、親の世間知で他の子供よりも前を走っていた子供が社会人になって立ち止まってしまうということがある。

何故なら、彼らは必ずしも社会人としての世間知を親から伝授されてはいないからである。

子供が親の世間知を意識しないで利用できるのはせいぜい就職活動までである。

だから彼らは未知の問題にぶち当たると、簡単に挫折してしまう。


特に、救いとか、悟りというものは、人から教えてもらえるものではないから、彼らが心の病にかかっても、自分ではどうにもすることが出来ない。

精神科医のもとに通って、処方された薬を飲んだりしてみても、何の効果も得られないのではないか。

無知に起因する心の問題は薬では治らない。

無知に起因する心の問題を治すためには、悟りを得るしかない。

悟りは薬物では得られない。

悟るためには、あえて車輪を再発明しなければならない。


それに対して、親から社会人としての世間知を伝授されていないという点では、恵まれていない子供も同じである。

しかし、恵まれていない子供はそれまでの人生においても、世間知のない状態で暮らしてきたので、社会人になってもその生き方はさして変わらない。

彼らは、社会に出たところで、これまでどおり試行錯誤するしかない。

しかし、その試行錯誤において、新しい道を見出すことは、恵まれていない子供にとって、仮にそれがただの再発明であったとしても、さして困難なことではないのが普通である。

若い頃に、車輪の再発明を繰り返した人間は、若い頃にはなかなか成功できなかったかもしれないが、それで発明をする癖が身についていると、年をとってから、案外に困難な思いをしないものである。

何故なら、彼らは、どんなに困難な問題にぶち当たっても、簡単に人生の答えを再発明してしまうからである。

それが世間的には何の価値がないにしても、当人にとって価値があるのであれば、当人はそれで一向に困ることがないのである。

とは言え、ある程度の年齢を重ねれば、既知の知恵を学ぶことも大切ではある。そうでなければ、ただの独覚で終わってしまうだろうから。


上のような事情によって、恵まれている子供がただの物知りな人間にしかならないのに対して、恵まれていない子供が気付きの多い人間になることは十分にありうるのである。

冒頭にも述べたとおり、自由とは気付くことに他ならないから、気付くことの多い人は、それだけで人生の自由を享受することが出来るのである。


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【思索】言葉の病について

現代社会では、心の病が流行っている。

心の病は以下の2種類に分けられる。

1.言葉の病

2.言葉の病以外の心の病

現代社会で増え続けているのは、1.である。


言葉の病は向精神薬のような薬剤では治せない。

言葉の病は言葉の薬に拠らなければ治せない。



例えば、マタイによる福音書の中の、いわゆる「山上の説教」の中で、イエスはいくつかの故事をあげて、それを否定する考えを示している。

例えば、以下のようなものである。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
(マタイによる福音書 5 43-44)


仮に、イエスの言うことが正しいと仮定するならば、以下のように言える。

『隣人を愛し、敵を憎め』は言葉の病である。

それに感染した者は、敵を憎むことに自制が効かなくなり、結局は自ら苦しむことになる。

『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』は、それに対する言葉の薬である。


『隣人を愛し、敵を憎め』という言葉を受け入れた人たちは、回りまわって、色々なことに苦しむことになる。

彼らの中には、感染についての自覚症状がないまま、精神科医に相談し、色々な向精神薬を処方してもらう人がいるのかもしれない。

しかし、それらの薬は一向に効かないだろう。

向精神薬で、白を黒とすることが出来るだろうか。

向精神薬で、罪を滅ぼすことが出来るだろうか。

向精神薬で、自分が他人を憎んだことに対する罪悪感を一時的に抑制することは出来ても、罪悪そのものがなくなるわけではない。

罪悪感は心理学的な問題だが、罪悪は哲学的な問題である。

向精神薬で、罪悪感は解消出来ても、罪悪は解消出来ない。

ある人が、他人を憎んでは、その不快感を向精神薬で抑えるということを繰り返していると、罪悪感は抑えられても、罪悪はどんどん蓄積されていく。

向精神薬の服用を止めたとき、その人は我に返ることになる。

そのとき、罪悪を重ねて、憎悪の肥大したその人の精神はどうなっているだろうか。


結局、『隣人を愛し、敵を憎め』は言葉の病であって、それは薬剤によって治せるものではない。

それを治すことが出来るのは言葉の薬だけである。

その言葉の薬として、例えば、イエスは以下のようなものを処方している。

『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』

それが適切かどうかはともかくとして、上の例のように、言葉から罹った心の病は、言葉の薬で治すしかない。


言葉の病は、例えるならば、バグだらけのソフトウェアである。

それをインストールしたコンピュータは正しく動かなくなる。

それを修正するためには、正しいソフトウェアで修正(fix)しなければならない。

ソフトウェアの問題(言葉の病)はハードウェア(肉体)上の問題(故障=疾患)ではないのだから、ハードウェアを交換(手術、投薬)しても、治らない。




【思索】世の中はお金がすべてについて その1
テーマ:思索

よく、以下のように言う人がいますね。

A.「世の中はお金がすべてだ。」

それに対して、以下のように反論する人がいますね。

B.「世の中はお金がすべてではない。」


それに対して、僕はこう考える。

「言い方はBの方が正しいけれども、考え方はAの方が正しい。」


Aは考え方は正しい。しかし、言い方が正しくない。

本来は以下のように言うべきだ。

A’.「世の中は価値がすべてだ。」

つまり、Aで言うお金とは、貨幣のことではなく、価値のことだろう。


世の中においてお金がすべてではないことは、貨幣のなかった原始社会を考えてみれば分かる。

貨幣がなくても社会は成り立つ。

その貨幣のない社会においても、人間の生き方はそんなに変わらなかったはずだ。

また、猫に小判と言う言葉もある。

猫は小判がなくても生きていける。


ところで、Bのように言う人の中には、さらに以下のようなことを言う人がいるかもしれない。

B’.「世の中はお金がすべてではない。善悪の方が大事なこともある。人間には、たとえお金にはならなくても、やらなければならないことがある。」

その言い方は分かるが、ここでいうお金を価値として考えるならば、それは違うと思う。

善悪は結局のところ、他人を利するか害するかによって決まる。

他人を利するか害するかは、他人に価値を与えるか損なうかによって決まる。

結局のところ、道徳論と価値論は表裏一体だ。


ただ、B’のように主張する人の気持ちも分からないではない。

その人はもしかするとこう言いたいのかもしれない。

B’.「世の中は自分のお金(=価値)がすべてではない。善悪の方が大事なこともある。人間には、たとえ自分のお金(=価値)にはならなくても、やらなければならないことがある。」

それは確かにあるかもしれない。


以下に続く。

【思索】世の中はお金がすべてについて その2
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10065458788.html


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【思索】世の中はお金がすべてについて その2
テーマ:思索

以下の続き

【思索】世の中はお金がすべてについて その1

http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10065429297.html

お金と価値の違いは何か。


お金がすべてという言い方をする人をよくみかける。

そういう人に共通していることが一つある。

それは、たいした価値観(鑑識眼、審美眼)を持っていないと言うことだ。

つまり、見る目がないのだ。


そういう人ががんばってお金持ちになることはある。

しかし、お金持ちになっても、価値のあるものを理解するだけの価値観がない。

ピカソの絵を買えるだけのお金があり、実際に買ってしまったりするのかもしれないが、その絵のどこがよいのかさっぱり分からないのだ。

それでは猫に小判だ。


あなたが価値があるとされる絵を買ったところで、その絵にはそのよさが分かる審美眼が付属品として付いてくるわけではない。

審美眼のない人がよさの分からない絵を買うのは、3D眼鏡をしないで3D映画を見るようなものだ。

それでは本人が面白くないだろう。


かと言って、審美眼をお金で買おうとするのは、英会話能力をお金で買おうとするようなものだ。

お金で、有能な通訳を雇ったり、英会話教室に参加することは出来るが、英会話能力自体はお金では買えない。

英会話能力は自分で養わなければならない。

それと同様に、審美眼は自分で養わなければならない。


価値観はそれ自体が価値であり、それはお金で買うことが出来ない。

価値観のない人が価値のあるものを買うのは、眼の見えない人が絵画を買うようなものだ。


結局のところ、ある人がお金持ちになるのは、その人がお金の使い道を知らないからだ。

お金の使い方を知らないから、使い切れずに溜まってしまう。

そういう人は、一度、「お金の使い道」を買い求めてはどうか。

売っていればの話だが。


以下に続く。

【思索】世の中はお金がすべてについて その3

http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10065509573.html


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【思索】この世はお金がすべてについて その3
テーマ:思索

以下の続き。

【思索】世の中はお金がすべてについて その2
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10065458788.html

首題について思うこと、2,3。


1.「価値の高い人」と「高い価値を持つ人」との違い。

ピカソは「価値の高い人」だが、ピカソの絵を持っている人は「高い価値を持つ人」でしかない。

ところが、世の中には見る目のない人が多く、多くの人がこの両者を見誤ってしまう。

ピカソの絵をたくさん持っている人が、ピカソのように価値の高い人だと思われてしまう。

ある人が価値の高い人であるかどうかは、その人が金の卵を産む鶏であるかどうかで見分けられる。


2.道徳論と価値論の優先順位。

高い価値を持たない人は道徳論を優先する。

彼らはこう考える。

善とは他人に価値を与えることである。

悪とは他人の価値を損ねることである。

彼らにとって、善悪は客観的なものである。

だが、それは机上の理論に過ぎないかもしれない。

その善は誰が実践するのか。


高い価値を持つ人は価値論を優先する。

彼らはこう考える。

私に価値を与えてくれるものが善である。

私の価値を損なうものが悪である。

彼らにとって、善悪は他人に対する主観的なものである。

彼らが他人を裁くことはあっても、自分を裁くことはない。

高い価値を持つ人は自己中心的な人間になりやすい。



【思索】会話の効用について


僕は若い頃、芸術の魅力にとりつかれていた。

素晴らしい音楽や漫画に出会うたびに、いろんな人に紹介した。

しかし、大体の場合、相手には何のことだか分からず、首をひねられた。

あんまり、しつこく紹介すると、最後には上のような意味のせりふが帰ってきたものである。


結局、人間の会話というのは、以下の2種類の目的がある。

1.コミュニケーション

2.情報伝達

で、世の中には、ときどきこういう極端な人がいる。

1.コミュニケーションは好きだが、情報伝達には興味がない。

2.情報伝達は好きだが、コミュニケーションには興味がない。

前者は人付き合いは上手だが、センスは悪かろう。

つまり、大衆的なものしか知らないのだ。

後者は物知りだが、人付き合いが苦手だろう。

つまり、空気が読めないのだ。

で、最初に話を戻して言えば、この場合、「お気持ちだけいただいておきます」と言う人は前者であって、言わせるのは後者だろう。

参考:
【思索】ネットワーク型性格分析
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10068445832.html




【思索】人間関係に生じる磁場について

人間の中には愛憎の激しい人とそうでない人がいる。

愛憎の激しい人は磁石に似ている。

好きな人を強力に求め、嫌いな人に強力に反発する。

愛憎の激しい人ほど、はっきりとした人間関係を形成するものなのかもしれない。

また、愛憎の激しさとともに、人間に磁力をもたらす要因がある。

それは恵まれているか、恵まれていないかである。

人間の中には恵まれている人がいる。

しかし、それもその人のある部分においてでしかない。

すべてにおいて恵まれている人や恵まれていない人はそういるものではない。

それどころか、ある部分で非常に恵まれているのに、別の部分で非常に恵まれていない人もいる。


例えば、ある女性は、大変貧しい家庭環境に育ったが、大変美しい容姿をしていた。

つまり、彼女は経済的には恵まれていないが、容姿においては恵まれていたのである。

こういう立場に生まれた人は、恵まれている部分で、恵まれていない部分を埋め合わせようとするかもしれない。

その結果として、その人の体内にはある種の磁場が生じる。

それが、その人の生き方や、人間関係にも影響を与える。


これについては、以前にも書いた。

【寓話】片翼の天使
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10046514784.html


人間関係というのは、愛憎を磁力にして成り立っているのかもしれない。

だから個人においては憎しみが、社会においては偏見や差別がなくならないのかもしれない。

なお、ジンゴイストたちは民族や国家という名の強力な磁石の周りに集まった蹉跌の塊である。



【思索】何を考えているか分からない人について

我々はある他人を指して、以下のように言うことがある。

「あの人は何を考えているか分からない人だ。」

言う人をAさん、言われる人をBさんとしよう。

この場合、上のような発言が出てくると、我々はBさんに注目する。

Bさんがいかに理解しがたい変人であるかについて確かめようとする。

しかし、実際のところ、注目すべきはBさんではなくて、Aさんかもしれない。

何故なら、上の発言における「分からない」の主語は、Bさんではなくて、Aさんだからである。

例えば、こう考えてみよう。

あるところに、Aさんという人がいた。

彼はコンピュータについてちんぷんかんぷんだった。

ある日、彼はあるコンピュータ会社において、雑用係のアルバイトをすることになった。

さて、そのコンピュータ会社にはBさんというコンピュータのエキスパートがいた。

ある日、Aさんの横で、Bさんが後輩のCさんに仕事の指示を出していた。

Aさんは横でそれを聞いていたが、何を言っているのかちんぷんかんぷんだった。

それで、Aさんは友人たちに言った。

「うちの会社のBさんは何を考えているのかさっぱり分からない人だ。」

するとその話をたまたま聞いたCさんは言った。

「そうかな。別にBさんは何を考えているのか分からない人ではないよ。」

Bさんという人は、Aさんにとっては分からない人でも、Cさんにとっては分からない人ではないのである。

本当の問題は、「Bさんが何を考えているのか分からない人であるかどうか」ではなくて、「AさんにBさんを理解する能力があるかどうか」にあるという場合もあるのかもしれない。

例えば、ある思春期の子供を抱えるお母さんは、自分の息子を指して以下のように言うかもしれない。

「最近、うちの息子が何を考えているのか、さっぱり分からないんですよ。」

その場合、本当の問題は、母と子のどちらにあるのだろうか。

もしかしたら、その子は凡庸な母親の理解をはるかに超えた非凡なことを考えているのかもしれない。


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【思索】いわゆるパクリについて

パクリについて考える。


企業間の買収には2種類ある。

1.友好的買収
2.敵対的買収

例えば、A社がB社を買収する場合、A社がB社の許可を得て買収するのが前者、得ないで買収するのが後者である。

前者の場合、その買収は、B社にとっても利益があり、後者の場合、必ずしもそうではないのが普通である。


ところで、引用にも2種類ある。

1.友好的引用
2.敵対的引用


例えば、著述家のAさんがBさんの文章を引用する場合を考えてみる。


友好的引用とは、引用者であるAさんが、引用元であるBさんの許可を得て行う引用である。

この場合、結果的に、その引用は好意的なものであり、Bさんにとっても利益があるのが普通である(そうでない場合もある)。

Bさんにとっての利益とは、例えば、以下のような利益である。

1.経済的利益(印税など)。

2.引用文の作者としての認知度。
3.その文章を読んだ人間による、引用文の作者に対する敬意。


これに対して、敵対的引用とは、引用者であるAさんが、引用元であるBさんの許可を得ないで行う引用である。
いわば、無断引用である。

この場合、その引用は必ずしも好意的なものではなく、Bさんにとって利益があるとは限らない。


無断引用(敵対的引用)は、さらに以下の2種類に分けられる。

1.否定的無断引用
2.肯定的無断引用

否定的無断引用とは、引用元の考えに共感しない人間が、それを否定するために許可を得ないで行う無断引用である。

それに対して、肯定的無断引用とは、引用元の考えには共感するが、許可を得ないで行う無断引用である。
(なお、友好的-敵対的、肯定的-否定的の並び順は逆でもよい。)


肯定的無断引用は、さらに以下の2種類に分けられる。

1.匿名ではない肯定的無断引用
2.匿名での肯定的無断引用

匿名ではない肯定的無断引用とは、引用元を明かした上での無断引用であって、他意のない無断引用である。

匿名での肯定的無断引用とは、引用元を明かさずに行う無断引用である。

匿名での肯定的無断引用が意図的に行われるのが、いわゆる、受け売り、盗用、パクリである。

(匿名での肯定的無断引用にも、他意のないものはありうる。)


では、受け売り、盗用、パクリは何故行われるのか。

それは、友好的引用において、本来であれば、引用元が正当に受けるべき、例えば、以下のような利益を、引用者が横領するためである。

1.経済的利益(印税など)。

2.認知度。
3.その文章を読んだ人間による敬意。


個人的な話ではあるが、昔、こんなことがあった。

大学時代のことだったと思う。

私は20人ほどの男女とサークルの合宿に行った。

ある夜、私は男数人と飲んでいて、その席で、何かけっこうな話をした。

人生についての個人的な私見、すなわちこのブログで書いているようなことを語ったのではないかと思う。

すると、その話を聞いていた男たち数人は私の話にひどく感心していた。


さて、その翌日である。

私が朝起きて、廊下を歩いていると、そのサークルで一番かわいい女の子、B子さんが私の方にやってきて言った。

「ねえねえ、toraji君、知っている。A君って偉いんだよ。私、感心しちゃった。」

何の話かと思って聞いてみると、そのしばらく前に、A君があるいい話を聞かせてくれて、感心したと言うのである。

いい話と言うのは、私が昨日男数人に話して聞かせた話である。そして、A君はその中にいたのである。

要するに、A君は、その話をB子さんに自説のように話して聞かせていたのである。

(A君はこういうことをしかねない、やたらと調子のいい男だった。)

私はあきれてものが言えなかった。


より抽象化して言えば、こういうことってあるんじゃないか。

Aさんが、Bさんによい話を聞かせる。

Bさんが、それをさらに他の人たちに話して聞かせる。

しかし、そのときに、BさんはそれがAさんから聞いた話であることを意図的に伏せて話す。

すると、その話を聞いて感心した人たちは、てっきりその話を考えたのがBさんだと思って、Bさんに尊敬の念を向ける。

本来ならば、その尊敬の念は、Bさんではなく、Aさんが受けるべきものである。


私たち人間は、社会に対して善いことをすれば、それに対して尊敬という報酬を受けることができる。

知的財産の創出においては、特にそうである。

ところが、世の中には、この「社会に対する善いこと」をしないでおいて、尊敬だけを受けたがるような連中もいるのである。

すなわち、稲垣足穂の言う「横着者」であって「玉子丼の上皮だけ食べようという手合い」である。

そういう生き方は、長い目で見れば、ご本人にとって決してよいことではない。


例えば、上の私の大学時代の話において、もしかしたら、A君は以下のように弁明するかもしれない。

「torajiの話があまりにも素晴らしかったから、ぜひみんなに紹介したいと思ったんだ。」

それはそれで大いに結構なのである。

本当の問題は彼の内心における誠実さである。


ケータイやインターネットが普及し、コミュニケーション万能の現代において、自分から知的財産を作り出そうとする人間はずいぶん減ってしまったような気がする。

誰も彼も、話す内容は、「クチコミ」という名の受け売りばかりである。

「ねえ、知っている?○○って、××なんだって。」

(それが正しいことを、君は自分で確認したのだろうか。)

ある人から聞いた話を、それを知らない他の人に流して、尊敬という名の利ザヤを稼ぐ生き方が、ケーブル型の人たちの間で流行っているのかもしれない。
(「私は有名人の知人だ」という自己紹介の類も、これと同じ動作原理である。)


なお、ある人の創作物がパクリによるものであるかどうかを見極める一つの基準は、その一貫性である。

複数の人間からパクリをしている人間の創作物は、大体において一貫性がない。

例えば、受け売りが多い人の話は、どこか一貫性がないものである。


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【思索】ネットワーク型性格分析


最近、人間の性格分析に興味がある。

性格分析と言うのは、数え切れないほど多くの種類がある。一説には心理学者の数だけあるのだそうだ。

ところで、私は以前からこの性格分析のうちの一部に疑問を感じるものがある。

考えてみるに、性格分析と言うのは2種類に分類できるようだ。

それを仮に、以下のように名付けよう。

1.赤青黄性格分析

2.白黒性格分析

1.は、人間を、赤、青、黄の三色にたとえている。この場合、それぞれの色に上下はない。

それに対して、2.人間を白と黒の二色にたとえている。この場合、白のほうが黒よりも上であることが暗示されている。

私は1.は正しいが、2.は間違っていると思う。

2.の典型的な性格分析が「明るい性格」と「暗い性格」だ。

この性格分析においては、明るい性格の方が、暗い性格よりも正しい、あるいは上であることが暗示されている。

上の明るい、暗いのような差別的なニュアンスを含まないない性格分析として、「外向的」、「内向的」という性格分析がある。

これにしたがって言えば、人間の性格は2種類ある。

ひとつは内向的な性格であり、もうひとつは外向的な性格である。

この性格分析を用いると、それぞれの性格についての特徴は把握できるが、それぞれの人間が社会においてどういった役割を持つのかについては不明確である。

私はこの点を踏まえて、以下の性格分析を行いたい。


【ネットワーク型性格分析】

人間には2種類の人間がいる。

それは以下の2種類である。

1.コンピュータ型

2.(ネットワーク・)ケーブル型(厳密にはEathernet、FAXモデムのような通信装置を含む、また無線形態も含む)

コンピュータ型の人間とは、一人で思索や創作にふけり、何かしら社会的に有用な価値を創出するが、それを社会に提供する能力を持たない人間である。

彼らの財産は自らの価値観、知性、創作能力である。

このタイプの人間の欠点は内部でどんなによいものを発見、あるいは創作しても、それらを世に出す能力を持ち合わせないことである。

本来ならば、もう少し人付き合いを増やして、自分の考えたことや創作したものを世に広めるべきである。

先述の外向的/内向的の性格分析で言えば、後者の内向的性格の持ち主である場合が多い。

ケーブル型の人間とは、他人から受けた情報を別の他人に伝えることを生きがいにする人間である。

彼らの財産は自ら作り上げた人脈である。

彼らは少しでも多くの情報を少しでも多くの人間に提供しようとする。そのため、このタイプの人間は、少しでも多くの情報が流せるように太い回線、出来れば幹線(バックボーン)になろうとする。その一方において、このタイプの人間は自分自身のケーブルを流れるパケットの中身にどの程度の価値があるかについては関心がない。
このタイプの人間の欠点はコンテンツを創作する能力を持ち合わせていないことである。そのため、彼らは情報の良し悪しを見分けることが出来ない。また、創作能力がないので、受け売りを恥とする感覚もない。

彼らは、例えば、流行の大衆音楽の話で盛り上がるが、その音楽がいかに芸術的に優れているかについては関心がない。みんなと同じ流行の音楽を、話のネタとして仕入れておけば十分なのだ。彼らにおける情報とは、話のネタになるのであれば、哲学も、芸能人のゴシップも大差はないのである。

先述の外向的/内向的の性格分析で言えば、前者の外向的性格の持ち主である場合が多い。

さて、先述の外向的、内向的という性格分析では、両者の社会的な役割やお互いのつながりが不明確であったが、このネットワーク型の性格分析を用いれば、両者の役割がはっきりする。

コンピュータ型の人間は様々な思索や創作をして、それをケーブル型の人間に渡す。すると、ケーブル型の人間はそれを他の多くの人たちに配信する。配信された人の中にはやはりコンピュータ型の人間がおり、彼はそこから受けた刺激から、新たな思索や捜索を行う。後はそれの繰り返しである。

コンピュータはネットワーク機能の持たなければ、20年前のスタンドアローン型のコンピュータに逆戻りしてしまうが、ケーブルはコンピュータにつながらなければ、ただの紐である。

結論として言うならば、人間において、コミュニケーション能力の高さとセンスの高さは反比例するものである。


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【思索】憎しみは誰が作り出すのか


例えば、AさんがBさんを憎まずにはおれないという場合、以下の2つのことを、それぞれ別問題として、考えてみるべきである。

1.誰のせいで、憎まずにはおれないのか。

2.誰が、憎しみを作り出しているのか。

AさんがBさんを憎まずにはおれなくなったのがどちらのせいかは分からないが、少なくとも、今、憎しみを作り出しているのはAさんである。

憎悪はあなたの自我を守る優秀なエージェントである。

それは迫り来る罪の意識からあなたを守り、

無能な者に対して浪費される慈悲を節約し、

小うるさい助言者を門前払いにし、

なされるべき反省を巧みな解釈で無効にしてくれる。

別の言い方をするならば、憎悪はあなたの優秀な通訳である。

彼がいるおかげで、あなたはいつまで経っても語学が身につかないのだ。

本物の憎しみと偽物の憎しみ。

本物の憎しみはやむをえないもの。普遍的なもの。

偽者の憎しみは凡庸なもの。

愛憎の激しい人の全体像は、他人からは見えにくい。

愛憎の激しい人は、愛する人には憎悪を見せず、

憎む人には愛を見せないからである。

ところで、愛憎の激しい人は、第三者に対しては、愛は隠すことがなく、憎悪は隠すものである。

そのため、愛されている人は、いつまでたっても愛憎の激しい人の憎悪を見ることがないが、憎まれている人は、汝の立場で愛憎の激しい人の憎悪を、第三者の立場で愛憎の激しい人の愛を見ることになる。

その結果として、愛憎の激しい人に憎まれている人は、いずれ愛憎の激しい人の全体像を見てしまう。

そして、その人は、愛憎の激しい人が都合よく愛憎を使い分けていることにやがて気づく。

愛憎の激しい人はこれを何よりも恐れる。

そのため、愛憎の激しい人は、憎んでいる人を警戒し、これをなるべく遠ざけようとし、さらに内心で憎しみを増幅させる。

好きな人よりも、嫌いな人と心中しようというのか、君は。

私は人間を加点法で見ることにしている。

だが、ときどき、良い点と悪い点が極端すぎる人に出会って、評価に困る。

特に愛憎の激しい人は評価するのが難しい。

憎しみは中毒性が高い。

憎しみと愛について。

あなたが目の前の人たちを憎むと、

目の前の人たちは憎み返す。

横の人たちは熱狂する。

後ろの人たちは哀れむ。

ことわざに「罪を憎んで人を憎まず」とある。

しかし、罪を憎むと、罪人が慌てる。

実は、罪は、それを背負う人、すなわち罪人の信仰対象である。

だから、罪を憎むと、罪人はそれを守ろうとして、いわば代理人の立場から反撃してくる。

罪を憎んで人を憎まないことは簡単だが、罪を憎んで罪人に憎み返させないで済ませることは難しい。

今、我々がすべきことは愛を与えることではなくて、憎悪を解明することかもしれない。

得体の知れない憎悪が愛を阻んでいる。



【思索】心の強さについてテーマ:思索


今ここに水道に繋がれたホースがあるとしよう。


ここから一定量の水が出ているとしよう。


もし、この水流の勢いを2倍にしたいと思ったら、どうすればよいだろうか。


正解は、以下の2種類のうちの、どちらかを行えばよいのである。


1.水道の蛇口をひねって放出される水量を2倍にする。


このとき、ホースの口の断面積は変わらないのだから、水は2倍の勢いで噴き出す。


2.ホースの先を握って、ホースの口の断面積を2分の1にする。


このとき、同じ水量が2分の1の狭いところを流れるのだから、水は2倍の勢いで噴き出す。


ここで、両者の違いは、前者の場合、流れ出る水量が2倍になったのに対して、後者の場合、流れ出る水量は変わらないと言うことである。



ある人の心の強さは、その人の心の広さに反比例している。


言い換えれば、ある人の心の強さは、その人の心の狭さに比例している。


人の心の総量(容量)は以下の方程式で表すことが出来る。


心の総量 = 心の強さ × 心の広さ


上の方程式により、自分の心を強くする方法は2種類あることが分かる。


例えば、ある人が自分の心の強さを2倍に強くしたいと思ったら、以下のどちらかを行えばよい。


1.心の総量を2倍にする。


つまり、器の大きな人間になる。


2.心の広さを2分の1にする。


つまり、心の狭い人間になる。


上のどちらの選択をしても、人間は自分の心を強くすることが出来る。


ただし、前者は難しく、後者は容易だが、心が狭くなるという副作用が伴う。



人の心は、それを狭めることによって、一時的に強めることが出来る。


それは、同じ水量でもホースの先を絞れば、水が勢いよく出てくるのに似ている。


しかし、出てくる水量は同じなのだ。



世の中には、強がりな人がいる。


強がりな人たちには、ある共通点が見られる。


それは「心が狭い」ということである。


彼らは「他人に対して不寛容である」という点において、共通している。


あなたの身近にいる強がりな人の言動を思い出してみれば、思い当たるだろう。


なお、ここでいう他人とは、自分以外のすべての人ではなくて、自分と気が合わない人たちのことである。



人間は、自分の心を狭めることによって、自分の心を強くすることができる。


人間がこの状態を長く続けていると、その人の心の強さと狭さはその状態で固定されてしまう。


その結果として、その人は自分の周囲にいる気の合った仲間たちのことしか視界に入らなくなる。


これが、「心の近眼」が発生する原因である。



一般に個人主義者には強気な人が多いが、これも上の現象の常習化が原因である。


例えば、抗議するとき、心が狭くならない人はいない。


しかし、それはたいていの人の場合、一時的な現象である。


しかし、世の中には、それが常態化してしまい、その人の生き方になってしまっている人もいる。


おそらく、その人は、自分の心を狭くすれば、自分の心が強められること、そうすれば自分は強く生きていけるということを、経験からよく知っているのだろう。


しかし、このやり方を意識的に取り入れることで自分の心を強くするのは、いわば「心のドーピング」であり、止めた方がよい。


それはあなたを蝕むだろう。



インターネットの世界において、匿名で強気な発言を繰り返している人をしばしば見かける。


彼らが、日常生活において、顔見知りの人たちに対して、同じように強気な態度を取っているとは思えない。


おそらく、彼らは匿名になったときだけ、強気になる人たちなのだろう。


ところで、匿名で強気なことを言う人たちには、心の狭い人が多い。


これは何故だろうか。


それは、彼らが強がりだからである。


ある人が、匿名でなければ強気になれないのは、その人が強がりだからである。


本当に心の強い人は匿名でなくても強気な態度を取ることが出来るだろう。


ここで、先ほどの考察により、強がりは心の狭さに比例している。


それ故に、匿名の場合だけ強気な態度をとる人は、心の狭い人である。


Q.E.D.



格闘家が必ず勝つ方法は、強者とは決して戦わず、弱者しか相手にしないことである。

同じことは、人生においても言える。

人生において必ず勝つ方法は、社会的な問題には一切関わらず、個人的な問題にしか取り組まないことである。

このために、人生において勝利にこだわる人は、個人主義に陥ることが案外に多い。



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