体は良い。体は大切  シリーズ⑦

 

私が小学校のころ昭和45年、我が家に大事件が起こりました。カラー・テレビが家にやって来たのです。当時はまだ珍しくて、近所の人が揃ってテレビを見に来て、「色がついている!!」と大喜びしていました。そのころ、カラーテレビを見るためのアンテナは、う~んと高く聳え立っていて我が家の誇りでした。それからしばらくの間、8時ごろになると家族でテレビの歌番組を見ていました。

 

昭和45年に流行った歌で「顔じゃないよ心だよ」という歌があります。歌ったのはバーブ佐竹。yoububeで見ると確かにイケメンとは言い難い人です。この歌みたいに「心がまず大切。体は落ちる」という考えは、多く見られます。 

 

例えば、「大和魂があれば、装備では劣っていても戦争に勝てる」などというのは最悪の事例でしょう。これは日本だけでなく、プラトンも「魂は、肉体という牢獄に閉じ込められている」と考えていました。ギリシャは多くの裸体彫刻を作った国ですが、それでも「心が大切で、体は落ちる」という考えはあったようです。人間は精神主義が好きなんですね。

 

一般的な印象として、「キリスト教は心身二元論で心の優越を説いている」と思っている人が多いようです。キリスト教の歴史を見ても、肉体を蔑視する発言は枚挙にいとまがありません。

 

でも旧約聖書の創世記を見ると、神さまがアダムとイブを作ったとき、土から体を作りました。それから神は、アダムの鼻の穴から息を吹き込んで人間に霊魂を与えました。そして「とても良い」と神は言いました。そう、人間は体と心で一つ。神様が「とても良い」といったのだから、心も体も両方とも良いものです。

「キリスト教ではセックスは悪いものとされている」と理解している人も多いです。でも、神は創世記で「産めよ増えよ」と言っています。つまり、「いっぱいセックスして子供を産め」と言っているのです。セックスを悪しきものとした宗教は、マニ教でありグノーシスです。両方ともキリスト教のライバルです。

 

13世紀の大神学者トマス・アクィナスは、「私の魂が、私なのではない」“anima mea non est ego “と言っています。つまり、「体と心の複合体が私なのであって、魂だけでは私ではない」ということになります。トマスの考えでは、人間の霊魂とは「宇宙でもっとも弱い知的実体」であり、体の助け無くして霊魂だけでは存在しえないのです。天使は人間より強い知的実体なので、体がなくても存在できます。

 

イギリスの作家チェスタートンの本業は推理小説ですが、キリスト教に関する著作も多く書いています。推理小説でも、神父さんが出て来て大活躍します。そのチェスタートンが「カトリックはピンクが嫌い」という変な言葉を述べています。つまり、カトリックが好きなのは、真っ赤と真っ白の両極端。折衷案のピンクは嫌いということです。例えば、

 

「イエス・キリストは人間か?神か?」という問いに対しては、「100%人間であり、100%神である。」というのがカトリック的な答えになります。矛盾したって構いません。

 

「禁欲とセックスのどちらが良いか?」という問いに対しては、「セックスは100%良い。どんどんやれ。禁欲も100%良い。頑張って禁欲しろ。」ということになります。両方良いのです。むしろ、結婚したのに奥さんを相手にしないのは悪いのです。

 

キリスト教は「体の復活」を信じる宗教です。もし体が悪いのであれば、体は永遠に滅ぼされるべきであって復活など飛んでもありません。体は良いものであるがゆえに復活するのです。

 

ただ私たちの体は「弱い」ので、耐用年数は長くて120年です。復活によって与えられる「新しい体」は強いので耐用年数は永遠です。マクダラのマリアが、復活したイエスに会ったとき、それが誰だか分かりませんでした。新しい別の体だったからです。

 

「体の復活なんて本当に信じているのか?」と人は言うでしょう。私はそれほど信じていません。むしろ「希望し、待ち望んでいる」と言った方が当を得ています。

 

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」Ⅰコリント13:13

 

私は死後のことは殆ど考えません。教会が「死後に復活する」と言っているのだから、教会にお任せです。それより「今日、何を食べようか」「今日、何をしようか」と考えて毎日過ごしています。

 

ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを 在原業平

 

生まれる前に体がなかったとき、「私」はいませんでした。死んで体が滅べば、トマスの言う「宇宙でもっとも弱い知的実体」は体の助けなしには存続できません。それでも、神は「私」のことを神は覚えていて、神が望めば、いつか「私」は神の記憶の中から新たな体を得て復活するかもしれません。

 

「死」とは、いつか復活するまでの一時的なお休みです。死んだ人の魂は「裁きの日」に魂は新たな肉体と結び付いて復活すると信じられています。だから、天国は「体から幽体離脱した幽霊のディズニーランド」ではありません。天国には、復活した生身の体でもって行きます。「裁きの日」が来ていない現在時点、復活した人はいません。モーゼもエリアも死んだままです。 天国に行っても、マリアさまとイエスさまのほか誰もいません。 

 

量子物理学という学問があります。数学が超人的にできる人だけが理解できるようです。これによると、宇宙で起きたことの情報の全ては、ブラックホールの内側に書かれているそうです。私たちの心の動きも、脳内シノプスでの電子や脳内物質の活動なので、ブラックホールに書き込まれます。まさに帳閻魔ですね。*(閻魔帳については後述。)

 

ネットを見ると、量子物理学と閻魔帳のあたりには、似非科学者みたいな人がウロウロしているので気を付けましょう。

 

再び、私が小学生のころ「帰って来たヨッパライ」という歌が流行りました。作詞・作曲は松山猛・北山修・加藤和彦。交通事故で死んだヨッパライが天国に行って「天国良いとこ一度はおいで、酒は美味いし、姉ちゃんは綺麗だ」と歌います。

 

聖書には「天国にはヴィンテージ・ワインと霜降りの肉がある」と書いてあります。本当です。

「万軍の主は、この山の上で万民のために、脂身の多い肉と 古いぶどう酒の宴会を開かれる。」イザヤ25-6 

 

「脂身の多い肉」とは霜降り肉だし、「古い葡萄酒」とはヴィンテージ・ワインのことです。酒も肉も美味い天国なら、姉ちゃんも綺麗なはずです。イケメンの天使もいるでしょう。イエス様だって、マクダラのマリアを始め多くの女の人に囲まれていました。復活したときも、先ずマクダラのマリアの前に現れました。

 

イエスさまが復活した後、真っ先に言ったことが「なにか食べる物はないか?」です。

 

ヨハネ21「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。

 

復活はたとえ話ではなく、生身の新しい体を与えられるという希望です。生身の体ですから、霜降りやヴィンテージ・ワインや、綺麗な姉ちゃん無しには天国と呼べません。 復活後の体は、生前の体とは違う「新しい体」です。私だって「新しい体」ではイケメンに生まれ変わりたいです。

 

 

後記:

閻魔帳という言葉がありました。 

 

辞書を引くと、「閻魔大王が持つ、死者の生前の行動内容が記録されている手帳のこと。 これを参考に、死者の天国行き、地獄行きを決める」そうです。閻魔様は、もとはインドの神さまで、「ヤマ」という名前が本名です。

 

レクイエムの中に「怒りの日」という曲があり、そこにも「閻魔帳」が出てきます。

 「書かれた書物がある/そこには全てがある/それで世界が裁かれる」

この閻魔帳はキリスト教のオリジナルではなく、ゾロアスター教由来という説もあるようです。ゾロアスター教にも閻魔様みたいな神さまがいて、本名は「イマ」だそうです。

 

それで、「エンマ」「ヤマ」「イマ」は同一人物だとか? 話半分に聞いておきましょう。