体は良い。体は大切  シリーズ⑦

 

大抵の宗教は「死後の世界」について語っています。

 

私は宗教を信仰していますが、お墓には全く興味ありません。焼いて海に撒いてもらっても構いません。一方、世の中には信仰はないけれども、お墓には強いこだわりを持つ人が多いようです。

 

欧米人はキリスト教徒が多いわけですが、火葬に対して拒否感を持つ人が多いようです。キリスト教では「体の復活」を信じます。「焼いたら復活できなくなる!!」という恐怖があるようです。でも、生前の体と、復活した体は別物です。マクダラのマリアは、復活したイエスを見てもそれと気づきませんでした。別の体だったからです。ですからローマ教会は火葬を禁じていません。

 

仏教で「死後」をどう考えるかは、宗派によってマチマチで、まさに仏法は諸行無常です。お釈迦様は、「いかに生きるかで精一杯なので、死後のことまで手が回らない」と言ってます。浄土宗では、死んだ後すぐに極楽に行くそうです。禅宗は、霊魂や死後について否定的ですが、遺族の心に寄り添って死者供養をするそうです。日本で行われるお葬式の中では、曹洞宗が一番多いそうです。天台宗、日蓮宗、真言宗は「死後」について肯定的です。「仏教という一体性のある宗教」は無いんですね。

 

インドという土壌に咲いた花が仏教です。 当時のインドでは輪廻という考えが支配的だったので、お釈迦様は輪廻に基づいて教えを説きましたが、仏教=輪廻ではないそうです。これを「輪廻は仏教にとって本来的だが、本質的ではない」というそうです。

 

ユダヤ教では、土から作られた人間は、死んだら土に還ってお仕舞い、というのが基本形です。ただ神さまには出来ないことはないので、神が望めば死者も復活します。

 

神は、エゼキエルという預言者を、死者の谷に連れて行きます。そこにはたくさんの骨がありました。そこで神は、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」といいます。すると、先ず体が復活し、次に体に霊が吹き込まれました。(エゼキエル37章)

 

イスラム教やキリスト教では、「死」とは、いつか復活するまでの一時的なお別れです。死んだ人の魂は一度肉体から離れるものの、「裁きの日」に魂は新たな肉体と結び付いて復活すると信じられています。だから、天国は「体から幽体離脱した幽霊のディズニーランド」ではありません。天国には、復活した生身の体で行きます。

 

仏教でも神道でも「体の復活」という考えはないようですから、極楽には体無しでいくようです。極楽は「幽霊のディズニーランド」ということになります。

 

生まれる前に体がなかったとき、「私」はいなかったのだから、死んで体が滅びれば「私」もお仕舞いと思います。ただ、「私」のことを神は覚えていて、神が望めば、いつか「私」は神の記憶の中から新たな体を得て復活するかもしれません。

 

昭和45年に流行った歌で「顔じゃないよ心だよ」という歌があります。こういう「心が大切」という考えは、多く見られます。 

 

東洋では精神主義が強いようです。プラトンも「魂は、肉体という牢獄に閉じ込められている」と考えていたので、あの肉体賛美のギリシャでも「心が良くて、体が悪い」という考えはあったようです。

 

トマス・アクィナスは、「私の魂が、私なのではない」“anima mea non est ego “と言っています。推し進めれば、「体と心の複合体が私なのであって、魂だけでは私ではない」ということになります。

 

死んで体を失った人の霊魂は、重度の認知症患者みたいなもので精神活動は乏しくなります。私たちが死者のために祈るのは、死者は祈ることもできないからだそうです。

 

神さまが「愛の神」であるならば、私たちを重度の認知症状態に放置しておかないと思います。死んだ後、いつかは体が復活して天の国に行けると希望しています。「信じている」というよりは希望し待っています。

 

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」Ⅰコリント13:13 

 

量子物理学という学問があります。数学が超人的にできる人だけが理解できるようです。これによると、宇宙で起きたことの全ての情報は、ブラックホールの内側に記憶されているそうです。私たちの心の動きも、脳内シノプスでの電子や脳内物質の活動なので、ブラックホールに記憶されているそうです。これって、死んだ後の認知症状態に似ているかもしれません。ただネットを見ると、似非科学者みたいな人が、ウロウロしているので気を付けましょう。

 

私が子供のころ「帰って来たヨッパライ」という歌が流行りました。交通事故で死んだヨッパライが天国に行って「天国良いとこ一度はおいで、酒は美味いし、姉ちゃんは綺麗だ」と歌います。

 

聖書によると「天国にはヴィンテージ・ワインと霜降りの肉がある」そうです。本当です。

「万軍の主は、この山の上で万民のために、脂身の多い肉と 古いぶどう酒の宴会を開かれる。」イザヤ25-6 

 

「脂身の多い肉」とは霜降り肉だし、「古い葡萄酒」とはヴィンテージ・ワインのことです。酒も肉も美味い天国なら、姉ちゃんも綺麗なはずです。イケメンの天使もいるでしょう。イエス様だって、マクダラのマリアを始め多くの女の人に囲まれていました。そして、復活したときも、真っ先にマクダラのマリアの前に現れました。

 

但し、キリスト教では食べることが第一です。イエスさまが復活した後、真っ先に言った言葉の一つが「食べ物はないか?」です。

 

ヨハネ21「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。

 

復活はたとえ話ではなく、生身の新しい体を与えられるという希望です。生身だから肉や魚を食べます。綺麗な姉ちゃんもいて欲しいです。復活後の体は、生前の体とは違うようですから、僕だってイケメンに生まれ変わりたいです。

 

神さまがアダムとイブを作ったとき、土から体を作り、神の息を吹き込んで人間に霊魂を与えました。そして「とても良い」と神は言いました。そう、人間は体と心で一つ。 神様が「とても良い」といったのだから、体も良いものです。