パーマかけたことある? ブログネタ:パーマかけたことある? 参加中
 不思議と思い出に関係するもので、捨てられないものがある。たとえば、学校の生徒手帳である。学割に使ったりする身分証明書がついたものである。中には、校則や日程表が書かれている。学年が変わるたびに発行されるもので、中学生から大学生まで使っていた。学生であることの身分証明書は、必ず写真が貼り付けられており、学校の押し印がその上から押されている。それぞれの手帳は、多分あの引き出しに入ってあるはずだ。高校時代のもので、写真館で撮ったものは、昔ながらの写真屋によって、手描きで少しばかり修正してある。黒縁眼鏡の如何にも真面目そうな顔がそこには写っている。
 病気のために、高校生活は、2回送っている。2年生を2回やっていることになる。同級生も、同じ年と、2歳年下の2つに分けられる。身分証明書の中に、一見優等生に見える写真と違う写真が貼ってあるものがある。今から見ると、おおよそ似合わない長髪パーマの自分の写真である。
 2回目の高校生活の時は、音楽ではニューミュージックの年であった。それに対して、最初の高校生活の時は、フォークソング全盛の時代であった。高1の文化祭は、まさに、プログラムがフォークの世界にすっかり染まっていた。最後のキャンプファイアーも、フォークソングのガリ版刷りの歌集を見ながら、ギターに合わせての大合唱であった。今から考えると嘘のような時代感覚である。クラスメートは、学校に自分のギターを持ちこんで、気の合ったもの同士で歌っている。男子の欲しいものは、フォークギターだった。僕も、安いながらギターを買って、コードのポジションを覚えながら、下手な歌を歌っていた。流石に学校では披露できるものではなかった。その時のクラスメートの男子の髪型は、長髪が少なくなかった。僕の学校は、つい最近までは自由な校風であった。フォークシンガーたちも長髪それにパーマといったスタイルが普通であった。その少し前までは、うるさい大人たちからこの長髪やパーマは、避難の的であった。不真面目だとか、今でいえばホームレスの髪型という攻撃であった。あのビートルズでさえ、その長髪が避難された時代があった。アメリカでは、ラブアンドピースのヒッピーたちのスタイルでもあった。彼らも、古き良き時代を懐かしむ人々からは嫌悪される存在であった。
 本来は、長髪には社会批判のメッセージが含まれていたはずである。貧しいことや既成の価値観にとらわれない自由を意味していたはずである。しかし、僕が高校生の時には、一つの流行のスタイルと化していた。意味を持ったものから、カッコよさを表現したものへと変化していた。
 その世界に、青春を感じていた僕も長髪パーマに憧れた。ある時、床屋に行った時に、パーマをお願いしますと店員に言ったのである。いつか言ってやろうと思っていたのであるが、その時は抵抗なく言えたのである。あらかじめ、髪は伸ばしていた。ごく自然な感じであった。もともと髪型の中で、坊主頭は大嫌いであった。抑圧とか不自由のイメージであった。小さい時から、坊主頭は受け入れがたかった。その分、長髪パーマに憧れた面もあるようだ。パーマ液のアンモニア臭さが、普通の調髪とは違うことをしているのだという意識を実感させた。
 家に帰ってから、家族は髪型に関しては何も言わなかった。翌日、学校へ行った時も、特にそのことをクラスメートや教師からも何も言われなかった。そういう学校であった。自分で決めて、人からはとやかく言われない。それだけであった。自己満足といえばそうなのであるが。その時の写真が貼ってある身分証明書は、今見れば、その似合わなさに思わず苦笑いをしてしまうのであるが、当時は、それが自然に思えていたのである。
 現在の自分の頭は、かつての豊かな黒髪とは違い、だいぶ髪もうすくなった。パーマをかけるどころではない。あのパーマをかけていた長髪の時代があったこと、その時代に青春を送れたことを懐かしく思いながら、年をとっていく自分である。



 最近は、患者団体の用事が多くなったので、忙しいなりに充実した生活を送っている。のかもしれない。
今日は、昨日の透析の変更日であった。ということは、明日も透析で、そこだけ見ると連続透析となる。1回時間透析も、昼の弁当がちょっとした折り返し地点となっており、タブレットでゲームをしたり、DVDを見たりしていると結構時間が経つのが早いものである。透析の往復は、前のように徒歩でと行きたいところであるが、5月に痛めた足首がまだしんどいので、時々はバスで移動している。
 でも、痛みも最悪の時と比べれば、少しは軽くなっているので、まだ整形外科にはいかないつもりである。本当は、このまま自然と回復して痛みが取れれば良いのであるが。
 今日は、帰りは歩きにした。ちょっとした買い物もあったし、今日から八王子まつりが始まったので、祭り見学も兼ねて歩いての北区となった。放射線通りでは、氷の彫刻大会が開催されていた。先週のような猛暑だったら、氷があっという間に解けてしまったかもしれない。
 昼間から、夜店というか露店が出ている。最近の夜店は、代り映えしない店の繰り返しが甲州街道に沿って並んでいるだけという感じで、子どもの時のようなわくわく感は喪失してしまっている。
 私の言っているクリニックは、透析日の変更を認めてくれるので助かっている。また、透析ライフも、行き帰りの時に、色々なイベントなどを見ることが出来るので結構楽しんでいる。

 明日は、太鼓合戦が甲州街道の歩行者天国で行われる。透析時間が長くなったので、多分見られないだろうが、何かお個白いことの発見を期待しながら歩いてみよう。

トッペイのブログ

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好きな数字 ブログネタ:好きな数字 参加中
 僕は、いわゆる文化系の人間なので、理数系に比べたら感覚的に考える傾向が強いのかもしれない。しかし、学問とか文化という面では、どちらも優劣がつかないので(二分化出来るものではなく、車の両輪のような存在である)、理数系の分野にも、自分の知的好奇心の範囲で接近を試みている。
 数学に関しては、高校時代に習った微分積分をはじめとして、忘却のかなたに消え去ったものも少なくない。ただし、数学の基礎とか、基本となる考え方には、大事な思考方法の根本となるのでなるべく触れるようにしている。微分積分の公式や問題の解を求めるよりは、対象物を理解する時の「分解」「総合」という考え方がとても参考になっている。小学校で習った円の面積の公式も、この「分解」「総合」という考え方が活かされたものである。子どもの時は、器械を分解する、というよりは破壊するのが好きな友人がどこの学校にもいたはずだ。ただし、その分解した器械をもう一度組み立てるということには、大方は成功しないのであろうが。
 今回のブログネタのお題となっている「好きな数字」というのは、好きな自然数ということなのだろう。ごく普通に理解したら、少数や分数や無理数を指摘する人は、ごく少数派であろう。円周率が好きですといった人が存在しても、多様性が求められる人間社会だから、おおいに歓迎すべきであるが、この手の話は、多数派の間の話なので、今回も自然数の話として勧めていく。
 さて、1,2,3……と無限に続く自然数は、現実の世界、、リアルの世界には存在しない。実際に存在するのは、1という数については、猫1匹、柿の木が1本、駅員が1人、本が1冊、所持金が1円とかいう形で存在している。1そのものが、この世に存在するわけではない。具体的に存在する、先述の存在の中から「抽象化」という数学的な思考で、「1」という共通する性質を抜き出したものである。自然数は、具体的に存在する人間の周囲にあるものから、作りだしたものである。この世界に、8人の王子は存在しても、「8」そのものは存在しない。どこかの野原に、8の字の形のオブジェが立っているわけでもないのである。そうした過程でできた自然数には、当然、小数点も付くことはない。人間1.5人などというのは存在できない。だから、自然数は分離数であって、連続数ではない。
 なんてことを、文化系なりに参考にさせてもらっている。人間は、不思議な存在であって、こうして自らが作り上げた自然数に意味を見出すのである。占いや予言などの神秘主義の道具となって、今度は人間を縛り付けたりする。本来は、自然数の優劣などの価値観を付けることが出来ないのであるのに。そんな風に考えるようになっている現在は、好きな数字は何といわれても、答えようがないのである。

 とはいえ、そうした思考以前は、なんとなく好きな数字が存在した。右と左のどちらが好きかというのと同様にである。数を理科利してから以降は、子どもの頃好きな数字は「3」であり、二番目にくるのは「7」であった。「3」という数字は、「3本の矢」とか「3人寄れば文殊の知恵」のような表現が多いこと、また、物語でも3人兄弟とか、3人が登場することが多い。もともと、文化的にも人間が好きな数字だったようだ。また、子どもの頃は、今と違って、東京を中心にした地域は、大した理由もないのであるが、野球は巨人ファンが多かった。そこでのスターといえば、ミスター長島で、その背番号が「3」であったのも、その数字が好きになる大きな理由の一つであった。「7」という数字に関しては、ラッキーセブンという言葉や虹の7色が個の数字のファンを増やしている。

 その反面、西洋の影響で「13」は嫌われ、「4」は日本的に「死」につながるということでやはり嫌われていた数字の筆頭であろう。当時は、病院の建物などは、4階の部屋番号には、④が付いていない所が少なくなかったような気がする。「苦」を連想させる「9」も嫌われていた。

 高校生くらいになると、多少でも理性的になるので、④に関しても、包囲を守る四神、仏教を守る四天王など、④という数字は決して暗いものではないこと、同様に、「9」も「九重」という言葉をはじめとして縁起のいい数字であることなどを理解するようになった。そう、自然数もそれぞれの存在が全部そろってこそ、意味があるもので、本来は人の好みと関係のない世界の存在なのである。好き嫌いは、自分に影響を与えた文化の違いで、それは、地域や歴史上も変わりうるものである。
 だから、今や、自然数の好き嫌いというのは、価値観とは何ら関係のない個人的こだわりだと理解している。今は、「3」「7」の他に「4」も「9」も好きになったのである。


お一人様、平気? ブログネタ:お一人様、平気? 参加中
 最近は、患者会関係や、時間がなくなってたまにしか行くことが出来ない手話のサークルなどで、食事やお茶を一緒にする機会が以前より多くなった。でも、1人で出かける用事の時は、ずっと前から食事はお1人様が普通であった。こちらから、お店に1人で入りにくいということはほとんどなく、お店が1人だけの客を歓迎してくれるかどうかの方が気になっていた。まあ、そういう雰囲気の店はパスしたのであるが。
 2週間前には、都内の病院での診察日で外出したが、当然、通院は1人でするのであるから、食事も1人である。趣味に関しても、演劇やコンサートのお楽しみの時や博物館や美術館での鑑賞の時も、1人で行くのが足周りも良いし、時間にさほど拘束されないし、何よりも自分の世界に没頭できるから原則となる。その延長戦がお1人様の食事なのである。イベント目的の外出といった時は、ちょっとした旅行気分になれる。そんな時は、な学生の時から時間がある場合は、なるべく歩くようにしている。方向感覚は最悪といっていいほどであり、しばしば目的地と逆の方向へ歩いていたということが少なくなかった。結構、会場への近道などの発見やらで、道を身体で覚えることが出来る。余裕があれば、都内などは結構、地図や道標があるので、冒険をしている気分で、新しい風景を楽しんでいる。通院している病院は、お茶ノ水にあるので、秋葉原も徒歩で行ける距離だし、神田明神やら湯島天神なども、お正月や気が向いた時に、診察の前か後にするかはその日の気分次第であるが、歩いていく。その時に、自家製の甘酒を売る神田明神の甘酒屋に寄ったりと、お1人様の食べ歩きも楽しんでいる。甘酒といえば、冬が本番であるのだが、今時分の暑い季節は冷やし甘酒を飲むことが出来る。あるいは、甘酒のかかったかき氷などが。好きなように散策できる1人の行動に伴うのが、お1人様のおいしいものに対する、あるいは値段の安いものに対するお店探訪と相成るわけである。
 ただし、1人では入りにく店というのが、過去には存在した。その場合、1人でというよりは、男性が1人でと表現した方が正確な言い方である。ある程度の年齢の男性なら分かると思うが、甘物屋への入店がまさにそれであった。店の会う買う甘味が、和なのか洋なのかは関係なかった。その時代は、男が甘いものを食べにそういう店に入ることは相応しくないと世間では思っていたである。ただし、高校生の時は、甘物好きの友人がいて、学校の帰りにクリームあんみつをよく食べに、電車を途中下車したものであった。男でも、3人集まればそんなに恥ずかしくはなかったのである。ただし、最初に誘われた時は、「クリマンミツ」食べに行こうと、耳には聞こえた。「栗万密」って何だろう?新しいお菓子なのかと考え込んだ。
 そういえば、当時はドーナツ屋にも1人では入りにくかった。入ってしまえば何ということはないのである。現代は、スイーツ男子も多いので、スイーツの美にお1人で行ったところで、へっちゃらであるのだ。
 
 最近は、個の時代と言われている。1人が行動するのが好きな人もいるし、なかなか人とのつながりを持てない人も増えているようだ。昔のコミュニティは、次々と崩壊している。群衆の中の孤独という言葉は、今はリアルなものと実感できる。そんな「個の時代」を反映して、ファーストフードの店をはじめとして、お1人様で飲食している風景も普通になっているようだ。タブレット端末やネットブックを、ハンバーガーをかじりながら捜査しているサラリーマンや、スマホに熱中しながらアイスコーヒーを飲んでいる若者もお1人様でいても何の違和感もない。

 でも、時には知り合いや仲間と一緒に、飲食を共にしたいと思う。食事の時は、普段見られない姿や会話が身近に表現されていることに気付く。食事というのも、コミュニケーションの大事な手段の一つである。1人で行動したい時同様に、大切にしたいものである。



アイスはカップ、コーン、棒どれが好き? ブログネタ:アイスはカップ、コーン、棒どれが好き? 参加中

私はコーン 派!

 今年の梅雨は、雨も対して降らずにあっという間にあけてしまったという感じです。その後に、時々は夕立があるものの、連日の猛暑が続きました。そうでなくても、夜になるとぐっと食欲tが落ちる傾向が続いていたのに、この暑さでもう夕ご飯はあまり食べたくはありません。熱中症対策には、水分を取る必要があるものの、普段は水分制限を課せられている透析患者にとっては、その量加減が難しいです。丁度良い量と、身体の欲する量との兼ね合いが決めにくいです。失敗すると、ドライウエイトという目安とすべき体重よりも、実際の体重が減ってしますことがあります。自分では、かなりの量の水分を取っているつもりでも、、汗で相当の量が出てしまうのですね。でも、この季節、結構水分がとれるのは喜ばしいことであるのですが、体内の水不足や夏やせは禁物です。
 食欲がない時は、スイカとかメロンとかの果物が食べたくなります。また、昔風に冷やしトマトに冷やしキュウリの丸ごとを、塩やら味噌やらをつけて食べるのも、涼しそうでのどにすんなり落ちそうです。でも、おいしい果物や野菜には、カリウムが多く含まれているので、健康な人と同じように食すると血液中のカリウムの値が上がって、高カリウム血症で心臓停止のリスクが高まります。おいしいものを食べて死んでしまうなんて嫌ですから、我慢しなくてはなりません。
 そんな時、アイスクリームは栄養もありそうですし、食べやすいので夏バテには相応しい食べ物のようです。実際、結構買って食べています。とはいえ、本当は、透析患者は食物中に含まれるリンの摂取も制限されています。このリンが多く含まれる食品の一つが乳製品なのです。ただし、リンが身体に悪さをするのは、カリウムのような即効的なものではなく、結果が出るまでは時間がかかります。そんなわけで、カリウムと比べると、制限に関しては甘くなる傾向があります。バイキングなどをした翌日の血液検査のデータなどは、タンパク質の取り過ぎで自分でもびっくりするくらいの高い値が出て、びっくりすることもあります。でもこのリンの値の高さが結果はかなり先になるのかも知れません。だからと言って、他の患者には勧めることはできません。
 夏バテの時の食物の取り方は、自分自身ではある程度「緊急避難」の意味合いがあっても良いと考えております。まったく食べないよりは、または吐き気を覚えての無理な食事よりは、アイスクリームを食べることである程度のカロリーと栄養を確保するのも、そういう考えの延長線にあります。とはいえ、そういう理屈以前に、暑い時のアリスクリームは魅力的な食べ物です。

 ということで、やっと設問への回答です。汗が滝のように出る時に、人からいただけるものならば、どんな形のものでも良いのですが、自分のこだわりに関しては、敢えて考えてみたいと思います。なんて、論文を書くわけでもないのに、自分でも大げさなことを言ってしまったと、1人笑いをしています。
 考察1.棒付きのアイスは、短い時間のうちに食べないと、本体のアイスが棒から離れて落下する可能性が高くなる。店で買っても、運ぶ時間も考慮しなくてはならない。だから、今回は対象から外す。
 考察2.カップのアイスは、色々な味や食感が楽しめるものがあり、種類も豊富である。でも、食べ終わった時のカップが、べとついたゴミとなり処理が面倒臭い。また、子どもの頃の修正で、カップの蓋についたアイスを思わず舐めてしまいそうで、格好悪い所が出てしまいそうだ。1人の時は、今でも舐めてしまうことがある。もったいない症候群であるが、確かにお行儀が悪い。よって、これも対象から外す。

 考察3.コーンアイス。コーンも食べられるし、ゴミにならない。コーンの香ばしい味がアイスとマッチする。冷たくなった口には、後から食べるコーンが優しい。また、コーンもビスケットの台など、時たま変わったバリエーションが楽しめる。あの恰好が好きである。これは、視覚的な理由であるが。
 ということで、今回はコーンに1票を投じた。

余談:季節ごとに、また、観光地ごとに、その場所にふさわしいコーンアイスが売られている。お花見の季節は桜の味。ブドウの産地は、巨峰味とか。でも、このコーンのアイスの機械、案外特定の会社のもので、そこに仕込まれたアイスの材料もご当地で作ったものではなく、全国展開の会社の工場で作られたものであることも現実には存在するようである。ご当地グルメのようで、本当は違うことがあるのは少し興ざめである。まあ、このくらいは仕方ないのだろうか。日本は狭い国だから。と、また、余計なことを書いて筆を置きます。



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