振り返り 理由 嘘 喪失 罪 身勝手 手負い 生きづらさ 探し物 望み 未来 異義 偽計 意識 喜怒哀楽 暗闇 道標 弁解 意外 イラつき 境界 居場所 世の中 風まかせ 世間知らず ズーム 無視 仕打ち
知恵 エゴイズム 無償 有情 有無 夢中 憂い 意図 灯台 生き直し 収穫 口八丁手八丁

一言 人の性善説と性悪説について、考えています。人は信じられるか否かということでもあります。個人主義から出発するか、利己主義に置き換えてそれを基礎として歩き出すか。などと暇な時に考えています。自分が人を裏切ったり、信用を喪失したら。あるいは、身近な人の裏切り行為やその人への不信感を持つことの意味を考える、なんて言っても、それでも地球は回っているし、四季の移ろいの中に自分がいるのです、自分の意思と関係なく。忘れてしまうか忘れたフリをすればいいのでしょうかね。でお、それが自分の狭い意識の世界の中の錯誤の可能性もあるのです。諸行無常と悟りをひらかん。しかし、悟りなどは初めから存在しないのかもしれない、私たち人間に単細胞生物の時の記憶がないように。そう、霊能者と商する人が、太古の人間につながる生物の霊のことは考えたこともないように。
 10月の八王子古本まつりに続き、八王子市地域腎友会は、いちょう祭りにも小規模でしたが参加しました。昨日から甲州街道のイチョウ並木沿いを中心に、大きなイベントはニュースで話題となった大正・昭和天皇陵の近くの陵南公園で始まっていました。当方は、透析日だったので、本日昼からのお手伝いでした。

 お祭りの人混みの中、久しぶりに40分近くを歩いて現場まで行きました。帰りは、祭りの後の雰囲気の中、孤独を感じながら歩いてみました。

 子どもさんを相手の商売が中心ですが、親にとって敵の役回りのことも少なくはありませんでしたが、色々な人と、短くてもコミュニケーションできることも、また楽しみでもあります。

 テントの中の仲間とも、自然体で力を抜いて話すことができるので、このところの活動と睡眠不足の連続の中で、肉体的にはかなりきついところもありましたが、少なくない透析患者がぬるま湯のような状況の中で、お任せの透析を受け続けていることよりは、負荷のあるこうした仲間との活動は、生き甲斐や自分自身を見つめ直す機会もある意味あることだと思っています。もちろん、楽しみも感じながらですが。

 最近は、人生の終盤に来ている感じが強くなっています。知り合いの患者とも、お別れが続きました。年齢は関係ないですね。彼らの思いを感じつつ、自分もエンディングを考えるようになりました。でも、一日一日を、自分らしく生きていくことの積み重ねをしていく、他者との良い関係を続けるようにしていく、そうした思い出過ごしていくほかはないのでしょう。

 ハレとケということの意味も考えながら、早い訪れの夜の道を、時々は丸い月を見ながら疲れた体を運んだのでした。明日は、大塚まで出かけようかな。でも、上野の博物館は休みだし、荒川線に乗る気持ちにもなっていないし。明日の朝にでも考えてみましょう。

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 懐かしい記憶を呼び起こすものに、香りがある。たとえば、子供の頃のお祭りの記憶に寄り添っているのは、アセチレンガス。ある世代に共通の香り。当時のお祭りは、もちろん子供にとっては、楽しいものであったが、どこか薄暗くて日常とかけ離れた陰の世界のイメージも有していた。アセチレンガスは、怪しさの感覚を呼び起こす、
 げに、かほりとは忘却の彼方より記憶を連れ戻す仕掛けなり。

 今の季節、歩いているとキンモクセイの香りに出くわす。この香りが真っ先に呼び起こすのはキノコ狩りに関する記憶。。父親と彼の友人たちが地元の山の中で採ってくる。僕も何度か同行する。植物好きの子供には山は魅力的な存在であった。きのこの香りと、ほろ苦さも又記憶の中。現在は、きのこの山も宅地となって、すっかり姿を変えた。

 父は、ターミナルケアで入院中。複雑な気持ちの中、今日もキンモクセイの香りの中を歩いていた。
RPGの世界にいるなら何の職業に就きたい? ブログネタ:RPGの世界にいるなら何の職業に就きたい? 参加中

私は僧侶 派!

 最近は、テレビゲームはやっていません。タブレットを使ったパズルものが多いですね。透析時間などは、このところは、読書やDVD鑑賞ほ時間が極端に減っています。ベッドに寝ながら、昼食をはさんで4時間くらい連続でゲームしていることが多いです。自分でも、とても尋常ではないと思っています。結果を早く出したいという気持ちが強いので、熱中してしまうわけです。そんな時間があったら、もっと有意義な時間を過ごせば良いなんて思いながらですね。近頃は、自分はリニアモーターカーの開通まで、あるいは東京オリンピックまで生きていられるかなんて考えがちなんですが、相変わらず無駄な時間、意味のない時間を過ごす傾向にあります。この異常な熱中は、テレビゲームの頃、最高潮でした。ドラクエに始まるRPGがゲームの中では一番好きです。ソフトを手に入れると、半日くらい平気でゲームをやっていました。RPGは、謎解きなどのストーリー性と、主人公たちを成長させるのが何と言っても楽しい魅力です。
 でも、やっていると常識が頭の中に台頭することも多かったです。主人公が、行く先々の引き出しの中のものをあけて手に入れたり、つぼの中にアイテムを見つけたり、宝箱を開けたりって、あれは泥棒ではないのかと思いながら、悪いことをしているような気もしたんです。それに、やたらとモンスターを殺しては、アイテムやらお金を獲得するのも、妙な世界だなんて思っていました。命を奪うことを簡単にやってのける点に、倫理観が働いたりすることもありました。
 でも、倒したモンスターを仲間にできて、一緒に成長するというストーリーのものは、その点は良かったし、楽しめましたね。
 ということで、ここから本題に入ります。今回は、消去法でいきます。まずは、戦士。これは成長すれば強いのですが、かなりモンスターを殺さなくてはいけないし、時間がかかる。即効的に強くなるには、武具などのアイテムが必要ですが、これに結構お金がかかる。経験値を上げるのも大変。常に最善善で、エンディングまで戦い続けなくてはならないので、疲れてしまうので止めておきます。それは、たいていは主人公なんですが、格好はよろしいのですが。ゲームの世界で、命をかけてまで力仕事はやりたくないですね。この点は、武闘家も似たような存在です。武具などは、あまり必要としないし、戦士ほどお金がかからない。瞬発力を見せるのも、武闘家らしく見せ場がありですが、防具も簡単なもので身体一つで戦うのはあまりにも酷に思えるのでこれもパスします。遊び人は、現実の自分のキャラクターに近そうですが、それ故に仮想世界でやる気はしません。盗賊は、もちろん、泥棒してもねずみ小僧みたいに、弱者には優しい訳ありの存在のイメージですが、やはり「汝、盗むなかれ」でこれもパスです。商人は、現実主義者すぎるし、結構グループの影の支配者になったりして、すっきりしないのでパスします。最後は、僧侶か魔法使いかの選択が残りました。どちらも攻撃に関しては、補助的な立ち位置にいますが、魔法使いの方が攻撃魔法に結構強いのがあって、いっぺんに複数rのモンスターも倒せる。もちろんこの場合の魔法使いは、白魔術を使うのが原則ですよね。僧侶も、最終的には結構すごい攻撃の技を使いますが、原則は、仲間の体力を戻したり、生き返らせたりする影の功労者ですね。仲間を生き返らせるパワーは、魅力的です。それに、魔法使いよりは神聖な存在であります。着るものも決めている。魔法使いと僧侶、どちらも主人公たちを援護する立ち位置にあり、戦士ほど疲れないし、ありがたい呪文でありがたいパワーが出せるのがクールで、ある意味格好いいです。ということで、どちらかを最終候補として選びたいですが、日本人の持つ自然信仰にも通じるところがある僧侶を選ぶという結論で、このお題に関する記述を終わりにします。どうも、お粗末でした。



RPGの世界にいるなら何の職業に就きたい?
  • 戦士
  • 武闘家
  • 魔法使い
  • 僧侶
  • 遊び人
  • 盗賊
  • その他

気になる投票結果は!?

 日本は、四季に富む国だと言われます。
でも、映画や舞台の場面転換のように、瞬時にはっきりと変化が起こるわけではないのは、考えれば当然のことです。
 色のグラデーションのように、少しずつ次の季節の変化が入り込んでいくという感覚なのでしょう。
 病人やけが人が、季節の変化に敏感であることが言われることがありますが、それは、健常者と比べて病変や故障個所に感じやすいからなのでしょう。
 一般人の感覚は等なっているのかと考えてみます。伝統的な日本では、普通の人も、その変化には敏感であったと思われます。農民は職人は、季節の変化がその仕事に影響しますから、色々な現象からその兆しを読み取ってきました。茶碗にどれほどの米粒が付くのかで、湿度の上下を読み取るような庶民の知恵もまた自然な感覚でした。
 ところが、最近の人々にとっては、季節の変化のしるしを見るけることが難しくなった、というよりは、関心が無くなったようです。スーパーの食べ物でも、花屋の鉢花や切り花を見ても、季節に相応しいものが売られているほかに、一年間を通して季節感のないものにもお目にかかることが出来るようになりました。昔の話で、親孝行の息子が冬に竹の子を親のために捜す話、子供向けの話でしたら「森は生きている」のまつゆきそうを厳しい冬に捜す話などがありますが、そうした話がされるのは、季節を外れたものの不自然さに対する表現であったからでしょう。後者の戯曲では、夏のイチゴまでもが捜し出す対象になりますが、現代でしたら、通念、イチゴを求めることが経済面の制約がなければ可能であります。冬にスイカやメロンが登場しても、何ら不思議なことではなくなった訳です。
 また、伝統的な行事も季節感を反映したものでしたが、段々と人々の間で行われなくなりました。正月でさえ、コンビニで買い物もできますし、初売りも早まっていることで、箱根駅伝を観て正月を感じるくらいが積の山となってしまいました。
 そんな中でも、季節の変化を敏感に感じる人がおります。昨日は、患者団体の用事で大塚の事務所に出かけましたが、仕事が終わって同僚との帰り道、彼曰く、今朝から風が変わった、秋の気配が感じられるというのです。気温の方は、猛暑の続きのような日でありましたので、ほんとかなと思ったりしました。
 今日、クリニックで看護師さんにその話をしたところ、そうは感じなかったという意見が多い中、婦長さんは感じられたと発言されました。透析終了後、街中を風が吹く中歩いていると、今日は、僕にも確かに秋の気配がほんの少し風の中に混じっているのを感じることが出来ました。
 今、これを書いている部屋の外からは、いつのまにか、コオロギやアオマツムシの鳴くのが聞こえます。彼らは、自然に生きているのです。

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