俳優の「のん」(本名:能年玲奈)さんは「部活をしていた中学時代、お腹が空いて朝食で白ご飯6合食べていた」と。
大食いタレント並みの胃袋でない限り毎日6合は無理だろうが、中学・高校の成長期には無茶苦茶食べる時期がある。
私が一番体重が重かったのは高校時代で61kg、身長175cm、腹囲73cm(体脂肪率が低く、痩せ気味)。
高校時代、例えば晩ご飯がカレーの時は、西洋皿にご飯1合にジャガイモたっぷりのルーをかけたものを2杯に、さらに2杯目はご飯を残してルーだけ1杯分追加していた(合計でご飯2合とルー3杯)。
それから40年が経ち、私は今でも職場の同僚たちより食べる量は多いが、学生時代よりも減ったため体重は57kgに落ちたが、身長174.5cm、腹囲73cmと体形を維持。
太れない痩せ体質は母方の血筋で、原因は褐色脂肪細胞の多さにあるようだ。
「のん」さんの話を知り、母から聞いた話を思い出した。
母は福岡県八女市の生まれ。
学校制度が今とは違う時代で、1945年4月(終戦の4か月半前、当時14歳)に九州帝国大学医学部附属医院看護養成科に入学(82回生)。
6月19日の深夜から20日未明にかけて2時間にわたり、福岡市は米軍の B-29 爆撃機221機による空襲を受けた(福岡大空襲)。
福岡市は中心部の天神・博多地区をはじめとする市街地が激しい空襲に遭ったが、母によると米軍機は九大キャンパス(医系地区は馬出キャンパス)を囲む塀の外には爆弾を落としたが、塀の中には落とさなかったという。
戦後に大学の優秀な頭脳やデータを使おうと考えていたのかもしれないと。
戦時中、九大では撃墜されて捕虜になった B-29 の搭乗員のうち8名を生体解剖して死なせた事件があり、関係者は戦後GHQにより裁かれた。
生体解剖の執刀を行ったのは石山福二郎主任外科部長で、石山教授が連行されるところを母は目撃したそうだ。
終戦の年、看護員養成科は厚生女学部と改称になり、母は1948年3月31日の卒業まで過ごした。
医学部生に怖れられた操 坦道(みさお たんどう)医学部第一内科教授・医学部附属病院院長・厚生女学部主事に可愛がられたそうだ。
1948年7月(当時17歳)に福岡県保健婦試験に合格、後に看護婦免許も取得。
終戦から卒業までの間に同期の悪友(と母は言っていた)のTさんとやらかした数々のエピソードを聞かされたが、その中のひとつを「のん」さんの話で思い出した。
戦時中、お米は最も貴重で滅多に手に入らず満足に食べられなかった。
それが戦後徐々に出回るようになり、好きなだけ食べられるようになったある日、厚生女学部の学生寮で母はTさんとお米1升を電気釜で炊き、蓋を取って炊きあがったご飯の上からしゃもじを挿して線を引くように2等分して5合ずつ食べた。
おかずも何もなく白ご飯だけが大量に入って来た体はたまったものではなく、2人とも体を壊したと。















