I Don’t know. | Every day is a good day to going out!

Every day is a good day to going out!

わけあって、親にならない人生を選択した僕。そしてそんな僕と一緒に暮らす、やはり親にならない事を選択した彼女との「お出かけ日和な毎日」を心赴くままに書き記そうと思っています。

 

 1から10まで全部知っているこの僕が、「親との関係が修復するなんて事は100%あり得ません」と言っているのにも関わらず、1しか知らない人が残りの9を勝手に想像で膨らませ、「でも親子なんだから必ず分かり合える」と反論し、あーだこーだ助言しようとする。これほどナンセンスな事が他にあるでしょうか? 

 

 誠に残念な事に、そんなナンセンスな助言をやたら吹きかけてくるバカが非常に多いのが、何を隠そう嘘価学会だったりします。しかもそう言った助言を吹きかけてくる事を、傷口に塩を塗りたくっているとは全く考えないのが彼らの恐ろしいところでもあるのです。むしろ逆に「助言してあげないのは無慈悲な事だ」とさえ考えているのだから始末に負えません。

 

 内戦の起きている国から命からがら亡命してきた人に対して、「それでもそこはあなたの生まれ育った国なのだからそこへ戻りなさい」と言う事が、果たして「慈悲」なのでしょうか? その助言どおりその人が国へ戻り、そして命を落としたとして、果たして責任が取れるのでしょうか? むしろその事の方が「無慈悲」なのではないのでしょうか? 僕にとって親と会う、という事は、内戦起きている国に戻るという事と同じなのです。たとえ「一億円あげるから親に会ってきなさい」と言われても、僕はそれを拒否するでしょう。それぐらい、復縁はあり得ないというのが僕の中での結論なのです。

 

 こういった考えに対し、嘘価学会の幹部たちは、さらに更に傷口に塩を塗るような「助言」を吹きかけてくるのです。「池田先生がこう言っている、戸田先生がああ言っている」、と。僕の事を知らない偽田代作や無駄豪勢が、僕の知らない所でああ言ったこう言った? んで? だから? どうだと言うのでしょう? それが果たして助言として本当に有効だと言えるのでしょうか? 助言というよりは、むしろ他人の言葉の受け売りに過ぎないと思うのですけれども?

 

 

 

 そういった無駄な助言を吹きかけてくる嘘価学会の幹部たちに対し、良くも悪くも諦めの早い僕は、「ああ、この人はもう何を言ってもダメだ」と早い段階で結論し、とにかくシカトをする事を常としてきました(ただしこれはまだ活動家だった頃の話ではありますけれども)。また、もっとも、今では嘘価学会の連中を相手にする事それ自体が時間の無駄だと思っているのですけども。

 

 ところが、シカトされるとほぼ全ての幹部たちは、「まさか尊敬されて当然の立場にいる自分がシカトされるだなんて!」とでも思うらしく、やたらと僕に構おうとするのです。こちらからすればウザいったらありゃあしないのですが、とにかくやたら声がけをしてくるのです。例えばかつてこのような事がありました。

 

 それは牙城会の任務に就いていた時の事でした。シカトを決め込んだ幹部が下駄箱から戻ってくるなり、僕に馴れ馴れしくも猫撫で声でこう話しかけてきたのです。

「トニーく〜ん。あそこにすごい靴があるよ〜」、と。

 何度無視してもそう話しかけてくるので、仕方なく下駄箱へ見に行く事にしました。するとそこにはナイキのスニーカーが置いありました。

「これの何がどうすごいんですか?」

 率直にそう問いかけました。

「えっ? これ、ナイキだよね?」

「ええ、ナイキですね。ところでこれ、ナイキの何ていう靴で、一体どこがどうすごいんですか?」

「えっ、トニー君、こういうの詳しいじゃない?」

「知りません」

「知らないわけないでしょう?」

「いいえ、俺は別に洋服屋さんの店員でも靴屋の店員でもないんで、詳しく知りません。だから教えてください。この靴の一体何がどうすごいんですか?」

「どうして本当は知っているのに知らないフリをするの?」

「知らないフリはしていません。本当に知らないんです(事実、本当に知りませんでした)。ところですごい靴があるって呼び出したのはあなたですよね? だから教えてください。一体この靴の何がどうすごいんですか?」

「いや、トニー君なら知ってるんじゃないかと思って呼んだんだけど」

「と、いう事は、あなたはこの靴の何がどうすごいのかを知らないのにすごい靴があると言って俺を呼び出した、という事になりますよね?」

「いや、本当は知っているんでしょう?」

「どうして知っているという前提で話をするんですか? 俺は別にとぼけているわけでもなんでもなくて、本当に知らないんですよ」

「…」

「あなたの言っている事って、その辺を歩いている猫を指差して、"あの猫はどこで飼われているなんて言う名前の猫ですか?"と質問しているのと同じです。そういうのに対して、"あれは磯野家で飼われているタマという名前の猫だ"という人と、"知らない"という人、一体どっちが信用されるでしょう? もちろん後者ですよね?」

「…」

「あなたはこの靴の何がどうすごいのかを知らないのに、トニー君なら知っているに違いないと勝手に答えを作って俺を牙城会室から呼び出した、という事になりますよね? そういうの、よくないと思いますよ。他人の人生の問題ごとに対してもそうです。そんな当事者でしか分からない事、知らない事に関してあたかも分かっているかのように知っているかのように振る舞ってあーだこーだ言わない方がいいと思います。そんな風に無理に話を合わせなくたっていいじゃないですか。どうせ分からない物は分からないんだし、知らない物は知らないんだから。と、いうわけで、もう俺には構わないでください。これでも一応任務中なんでもう戻ります。さようなら」

 

 …結論。

 よほどの覚悟と自信がない限り、他人の人生の問題に対してあーだこーだ助言しない方が「お互い」のためだと思うのです。そして、よほどの覚悟と自信がある(なんと言っても本尊を破り捨てて早15年以上、無病息災ノントラブル、幸福街道真っしぐらで生きて来られたのです)から僕は言うのです、

「嘘価学会は一刻も早く辞めるべきだ」、と。

 

 心ある嘘価学会の方へ、もしこれを見ているのなら、この事についてどう思うか、ぜひ忌憚なき意見をお聞かせください。