部屋の中は暗闇となったものの、ロミは心眼を使い、周囲の様子はよく見えていた。
灰色のモノトーンの陰影が、部屋に置かれた物の配置と、人の姿を映し出している。マリアはドラゴンボウルを胸の中に閉じてしまったため、目は見えていないようだが、エンパシーを使って周りの気配を感じ取っている。マドレーヌも妖精の姿に戻り、気配で周囲を窺っている。
完全な闇の中で、いつの間にかシモーヌ伯母さんの気配が消えていた。
すると、フィニアンの椅子に置かれていた一寸法師のケージ人形が、しゃきりと起き上がった。そして立ち上がると、音もたてずに飛び上がり、正面の壁に掛けられたロミと家族の写真に向かって飛翔した。
すかさず、ロミの思念は合図を送り、マリアがドラゴンボウルを開くと、マドレーヌは戦闘妖精に変身し、間一髪、左手で額縁から写真を外し右手でケージ人形を掴んだ。
瞬く間に、ドラゴンボウルは明かりを灯し、姿を現したシモーヌ伯母さんは人形を受け取ると、額縁の中にそれを貼りつけた。
するとそこに、再びケージ・エジマのレリーフが現れた。
「まったく手のかかる子ね」
シモーヌ伯母さんはそう言って、ケージのレリーフを優しく撫でた。
「さあ、話してご覧なさいケージ」
「ありがとうママ、大聖堂のカタコンブまで来てくれたんだね。マドレーヌ、いつも笑顔の優しい姉さん、あなたがロミの傍にいてくれて、僕はとてもうれしい」
「僕はもう死んでいるけれど、まあ、今生きていたとても、もう90を過ぎたお爺さんになっていると思うけどね、僕は28才で肉体を失った、そして妹のために、来るべき女神のために、僕は記憶装置として残されたんだ」
そしてケージ・エジマは語りだした。
秋の風がパリの街を包み、星の広場に枯れ葉が舞い散る夕暮れ時、僕はモンマルトルの丘で若い女の人が描いている絵を見ていた。周りの画家たちは画材をしまって帰る支度をしているというのに、その人は黙々と筆を滑らしていた。
その人が描いている絵は、パリのどこにもない風景だった。
碧い青い光の海原に、黒と白の2元色からなる生き物の塊りが浮かび上がり、その上に裸の少女が乗っている、その絵を見ている僕には、絵を描いている女の人の気持ちが分からなかった。ここで絵を描いている人は、たいてい街角や並木道の景色や、観光客の似顔絵を描いているのに、女の人の絵は、裸の少女を乗せた大きな生き物のいる碧い海の風景だった。
7才になったばかりの僕は、その絵が意味するものが分からなかった。
だがじっと見つめていると、その黒い生き物はクジラであることが分かった。
そして、背中に乗っている少女が僕を見ていることに気づいた。
絵を描いていた女の人はいなくなり、周囲の人々も、そしてモンマルトルの丘も、もう僕には見えなくなり、その少女の碧く透き通った瞳しか、僕には見えなくなっていた。
夕闇の落ちた丘の上、クジラの上にいる少女と僕だけが、パリの空の下に残されていた。
次項Ⅴ-33に続く