動き出したドラゴンは、ゴーフォ、ゴーフォ、ゴーフォと、喉の奥から苦悶のような息を吐き出しながら、充血した眼を見開き、鋭い爪を立ててロミに近づいてくる。ワニのように牙を剥いた口からは、火炎の息がロミに向かって吐き出されてきた。
バルコニーに並んでいた、気のいい優しくておとなしい都会の精霊たち、パリのシメールたちは、あわてて聖堂の屋上部分、回廊に囲われた内部にあたる鐘楼の中に逃げ込んだ。
「こりゃ本物のドラゴンだ」
フィニアンは、すかさずトネリコの杖を回し、ロミと妖精たちの周囲に結界を作った。
可愛い妖精のマドレーヌは、再び姿を変えて、戦闘少女エスメラルダに変身した。
「ジャン!お止(や)め!この人は聖少女ロミさまだよ」
マドレーヌが声を掛けても、ドラゴンは火炎を吐き続け、エスメラルダを飲み込んでしまった。
ロミは静かに息を吐き出し、そして回廊の中にいる精霊たちに向かって心を合わせた。
――ねえみんな、ドラゴンの思いはどこに有るのかしら、彼は何を思ってここにいるのかしら。
すると、精霊たちは右に左に揺れながら、真心で話してくれる聖少女に応えた。
(ロミ様、あなたの心で伝えて行けば、あのドラゴンは静かになります)
――そうなの?
(もちろんです、淋しいくせに、淋しいと言えない、淋しいやつなのだから)
――まあ、それではきっとあの人は、ほんとの愛を知らない淋しい人なのね。
(そうです、愛しているくせに、好きと言えない、悲しいやつなのです)
ロミは思念の翼をゆっくりと広げてゆき、目の前で炎を噴き出すドラゴンに向かった。
――汝の思いは何処に有りや、汝の思いの中に、愛は、優しさは有るのか。
ロミの言葉を聞いても、ドラゴンはもっと強く、激しい憎悪の火炎を噴き上げた。
憎悪の火炎を受けても、ロミは思念を使わず、夏の衣服を脱ぎ捨て一糸まとわぬ姿になると、自身の身体を投げ捨て無の境地に置いた。
すると、ドラゴンは怒りの炎を消して息を潜め、その場に凍り付いたようになり、聖少女の作り出した精神世界に、中空を浮かぶロミの裸身の下の深い水の底に、その身と思いを潜めた。
ロミは、身体を動かすことなく心眼を開き、その黄金色の瞳から強烈な光、眩しいほどに強い愛と癒しの光を浴びせて、愛しているのに淋しいドラゴンの、その身と心を包んだ。
やがて鐘楼の中に静寂が広がり、無数の精霊たちの愛と優しさの、思いと重力がいきわたると悪鬼のドラゴンは倒れ、愛と癒しの鐘の下に、その身をひれ伏した。
回廊の内側、聖堂の屋上にあたる鐘楼に、時を超え磁場を超えた空間が広がると、フィニアンはロミに向かって黄金色のトーガを投げ広げ、トーガはふんわり彼女の身体を包んだ。
そしてロミのエンパシーに共鳴して、大鐘(おおがね)エマニュエルがゆっくりと揺れてゆくと、南北二つの塔を揺るがすほどの音が鳴り響き、その圧倒的な音圧の下、ドラゴンの翼からは無数の哀しき魂たちが解き放たれた。
ローマの同化政治に抗(あらが)い、神を見失ってしまったガリア人(びと)の魂たちがいた。
長い歴史の中で、彷徨い続けたゲルマン兵士やバイキング、サクソン族もいた。
そしてその陰で、虐げられた女子供たちの魂もいた。
ノートルダムの大聖堂を護るシメールたちは、この寺院の聖母マリアに祈りを捧げ、宇宙少女マリアは、彼らの祈りに合わせてドラゴンボウルを掲げ、ボウルから広がる虹色の渦は光となって、歴史に取り残されていた魂たち其々の行くべき神の道へと誘い、ロミは身を起こし、両手を合わせ神々に祈った。
そして妖精の長フィニアンは、その扉を開けた。
大聖堂の鐘の音とともに、天国への階段がつながり、ドラゴンに囚われていた、いや護られてきた大勢の魂たちは、虹色の光に包まれて、その階段を昇って行った。
全ての魂たちが階段を昇り終え、神の国へと消えて行くと、精霊とシメールたちに囲まれて、ロミは抜け殻となったドラゴンを抱き包み、その額に口づけをした。
ドラゴンの身体は溶けてゆき、そこからマドレーヌが甦り、彼女は一人の男を連れていた。
可愛い妖精に戻ったマドレーヌは、ロミの前にその男を連れてきた。
「ロミ、この人がジャンよ、アランソン公のジャンというのよ」
威風堂々とした美丈夫は微笑み、そして恭しく、ロミの前に膝を落とし頭(こうべ)を垂れた。
次項Ⅴ-5に続く