宇佐見りんの芥川賞候補作「推し、燃ゆ」を読んだ! | とんとん・にっき

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宇佐見りんの芥川賞候補作「推し、燃ゆ」を読みました。「文藝2020秋」掲載作品です。「文藝賞受賞第一作」とあります。デビュー作「かか」は文藝賞、三島由紀夫賞をW受賞して脚光を浴びました。第164回芥川賞の、読むのはこれが2作目の候補作です。

 

宇佐見りん「推し、燃ゆ」(150枚)

逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ。学校生活も家族関係もままならない高校生のあかりは、アイドル・上野真幸を解釈することに心血を注ぐ。祈るようなその暮らしが、ある日、彼がファンを殴って炎上し、揺らぎ始める。デビュー作「かか」が三島賞候補の二十一歳、圧巻の第二作。

 

さて、「推し」とはなんぞや? 「実用日本語表現辞典」より

推し  読み方:おし
人やモノを薦めること、最も評価したい・応援したい対象として挙げること、または、そうした評価の対象となる人やモノなどを意味する表現。国文法的には「推し」は動詞「推す」の連用形、あるいは、「推す」の連用形を単独で名詞として用いる表現である。
近年の美少女アイドルグループのファンの中では自分の一番のお気に入り(のメンバー)を指す表現として「推し」と表現する言い方が定着しており、昨今ではドルヲタ界隈の用語の枠を超えてアニメキャラや球団を対象に「同種のものの中ではこれが一番好き」という意味合いで広く用いられるようになりつつある。

 

う~ん、なるほど! 

宇佐見りんの「推し、燃ゆ」は、こうして始まります。

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。・・・SNSがやけに騒がしい。寝ぼけた目が「真幸(まさき)くんファン殴ったって」という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った。

 

推しの基本情報はルーズリーフにオレンジのペンで書き込み、赤シートで覚えた。1992年8月15日生まれ、獅子座、B型、兵庫県生まれ。兄弟は4歳離れた姉がひとり、長男。好きな色は青。生後3か月でスターライト・プロダクションに所属。中学校卒業とほぼ同時に母親が姉を連れて家出。サラリーマンの父親と祖父母の4人家族で育つ。・・・18歳のときスターライト・プロダクションからワンダー・エージェントに移籍、同時に男女混合アイドルグループまざま座のメンバーとして活動開始。

 

推しを本気で追いかける。推しを解釈してブログに残す。テレビの録画を戻しメモを取りながら、以前姉がこういう静けさで勉強に打ち込んでいた瞬間があったなと思った。全身全霊で打ち込めることが、あたしにもあるという事実を推しが教えてくれた。・・・薄型のテレビに映像が映る。投票結果発表は4時だから、まだ始まっていない。SNSを見てみると、まざま座関連のキーワードが二、三、トレンド入りしている。

 

五位の椅子に推しが座っているのを観た途端、最下位だったのだと思った。頭のなかが黒く、赤く、わけのわからない怒りのような色に染まった。・・・「なんで?」「え、つらい」あたしは手許の端末に打ち付ける。・・・太刀打ちができない、と思う。あのことが何か巨大なものを推しから奪った。みんな今までの倍は買っていたと思うけど、あたしたちが頑張るとかいう問題ではないのだと思う。

 

保健室には時間の流れがない。・・・眠りのなかに溶けかかろうとすると、先生がカーテンを少し開けて、「あかりちゃんちょっといい、有島先生がお話したいって」と言った。担任の男性教師が来ていた。「まあれはね、いいんだけどさ、このままだと留年になっちゃうよ、わかってるとは思うけど」。「でもやっぱり卒業はしたほうがいいよ」と説得にかかった。

 

原級留置、と言われたのは高校二年生の三月だった。帰り道、面談に同席した母と一緒に学校の最寄り駅まで歩いた。異様な感じがした。留年しても同じ結果になるだろうから、と中退を決めた。・・・あたしの中退を、誰よりも受け止められずにいたのは母だった。母には思い描く理想があり、今の彼女を取り巻く環境はことごとくそれから外れていた。・・・ため息は埃のように居間に降り積もり、すすり泣きは床板の隙間や箪笥の木目に染み入った。家というものは、乱暴に引かれた椅子や扉の音が堆積し、歯軋りから小言が漏れ落ち続けることで、埃が溜まり黴が生えて、古びていくのかもしれない。祖母の訃報があったのはまさしくその頃だった。

 

数日前に駅の売店で「まざま座・上野真幸 謎の20代の美女と同棲? ファン離れ加速」の記事を立ち読みした。べつに推しのグループは恋愛禁止ではないし、インタビューで「ゆくゆくは結婚したい」とも言っていた。アイドル失格の烙印、ファン激怒、って書かれてるけれど、あたしはべつに怒ってないのになあと思う。・・・そろそろ、推しがインスタライブをすると言っていた時間帯った。

 

記者会見はほとんど謝罪会見みたいだった。メンバーは全員スーツを着ていて、それぞれがなかに着ているワイシャツの淡いメンバーカラーだけが、それが謝罪会見でないことを示している。明仁くんがマイクを取り「本日はお集まりいただきありがとうございます」と言った。質疑応答が始まる。次のステージに進む。それぞれ前向きな決断。メンバー全員が話し合って決めた。推しの番が回ってきた。

 

ぼく上野真幸は、解散を機に芸能界を引退します。この後どこかで見かけた際は、アイドルとしてではなく、芸能人でもなく、ただの一般人として、静かに見守っていただけると幸いです。・・・いうことがあまりにも予想通りでおかしくもなったけど、もっともあたしを動揺させたのは左手の薬指にはめられた銀色の指輪だった。推しの「ぼく」という一人称が耳に違和感として残ったまま、会見が終わる。


「うわ、住所特定されてる」。発端は、数か月前に配達に行ったら上野真幸がいて驚いた、という一般人のストーリーだった。すぐ消されたが、スクショが出回り、配達員のほかの投稿から、その人が住んでいる地域が割り出され、インスタライブで一瞬映り込んだ窓の景色から、推しの住むマンションが特定された。・・・とにかくあたしは身を削って注ぎ込むしかない、と思った。推すことはあたしの生きる手立てだった。業だった。最後のライブは今あたしが持つすべてをささげようと決めた。

*スクショ:スクリーンショット

 

ごく普通のマンションだった。名前は確認できないけれど、おそらくネットに書かれていたものと同じ建物だろう。ここで何をしようと思っていたわけではなかったあたしは、ただしばらく突っ立って、そこを眺めていた。会いたいわけではなかった。突然、右上の部屋のカーテンが寄せられ、ぎゅぎゅ、と音を立てながらベランダの窓が開いた。ショートボブの女の人が、洗濯物を抱えてよろめきながら出てきて、手すりにそれを押し付けるようにし、息をつく。

 

目が合いそうになり、逸らした。たまたま通りかかったふりをして歩き、徐々に早足になって、最後は走った。どの部屋かはわからないし、あの女の人が誰であってもよかった。仮にあのマンションに推しが住んでいなくたって関係がなかった。あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった。もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも解釈し続けることはできない。推しは人になった。

 

散々、道に迷い、バスを乗り間違え、パスモを落としそうになった。最寄り駅に着いた頃には二時になっていた。家に帰った。帰っても現実が、脱ぎ散らした服とヘアゴムと充電器とレジ袋とティッシュの空き箱とひっくりかえった鞄があるだけだった。なぜあたしは普通に、生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう。・・・なぜ推しが人を殴ったのか、大切なものを自分の手で壊そうとしたのか、真相はわからない。未来永劫、わからない。

 

「推し、燃ゆ」を最後まで読んで、こうしてブログを書き終えてみると、

当初思っていた作品とまったく印象が変わっていきました。意外や意外、文章も巧いし、構成もよくできた小説で、と思うようになりました。時宜を得ているというか、「推し」がトレンドだからではない。もっと深いところでこの作品は、現在の社会を的確にとらえているように思います。ということでは、芥川賞もありかな、と思うようになりました。

 

 

 

宇佐見りん:

1999年静岡県生まれ、神奈川県育ち。現在大学生、21歳。2019年、「かか」で第56回文藝賞、第33回三島由紀夫賞を受賞。