篠田正浩「一人前の自信 表現の出発点」! | とんとん・にっき

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朝日新聞:2020年3月5日

 

5日の朝日新聞に、「一人前の自信 表現の出発点」と題して、映画監督の篠田正浩が、松竹に入社して4年の頃の思い出を語っています。小津安二郎の「東京暮色」という作品の現場に助監督として突然入れられ、残業に次ぐ残業でくたくたになってクランクアップ。ほぼ完成した作品を関係者で試写が深夜に行われ、篠田は隅っこで寝るつもりだったが、試写開始という時に小津監督は、「篠田はおるか」、「お前は」よそものだから、俺の映画を客観的にみられるだろう。見終わったら感想を言うように」と言われ、眠気が吹っ飛んだ。「東京暮色」は小津監督にとって最後の白黒作品。見終えた小津監督は無言で、感想を聞かれなかったが、篠田は「聞かれたら、良かったというつもりだった」というが、「あの声は60年経った今も忘れられません」と語っています。

 

この「東京暮色」、まったくの偶然ですが、昨年テレビで放映されたものを録画してあり、この際と思い、一気に観てしまいました。たしかに篠田が言うように「夫婦の不仲や中絶、母娘の断絶を織り込むなど、戦後の小津作品の中でも際立って暗い」作品です。

 

松竹映画「東京暮色」デジタル修復版1957年(昭和32年)

2019年7月31日(水)1:00PM(2H22M) NHKBSプレミアム

 

小津安二郎監督

 

以下、Movie Walkerより

 

作品情報:

「早春」以来、久々に登場する小津安二郎、野田高梧のコンビが執筆した脚本から小津が監督した話題作。父を裏切って家出した母を求める娘の激情を描く。撮影は「あなた買います」の厚田雄春。主演は「白磁の人」の有馬稲子、「大番」の原節子、「暴れん坊街道」の山田五十鈴、「顔(1957)」の笠智衆。ほかに「情痴の中の処女 天使の時間」の高橋貞二、「近くて遠きは」の杉村春子、「正義派」の田浦正巳、それに山村聡、信欣三、中村伸郎、宮口精二、浦辺粂子、三好栄子、藤原釜足、増田順二、長岡輝子のヴェテラン。菅原通済が特別出演している。

 

作品のストーリー:

停年もすぎて今は監査役の地位にある銀行家杉山周吉は、都内雑司ケ谷の一隅に、次女の明子とふたり静かな生活を送っていた。長女の孝子は評論家の沼田康雄に嫁いで子供もあり、あとは明子の将来さえ決まれば一安心という心境の周吉だが最近では心に影が芽生えていた。それは明子の帰宅が近頃ともすれば遅くなりがちでしかもその矢先姉娘の孝子までが沼田のところから突然子供を連れて帰ってきたからだ。--明子には彼女より年下の木村憲二という秘かな恋人があった。母親がいない寂しさが、彼女をそこへ追いやったのだが、憲二を囲む青年たちの奔放無頼な生活態度に魅力を感じるようにいつかなっていた。しかも最近、身体の変調に気がついた彼女が、それを憲二に訴えるとそれ以来彼は彼女との逢瀬を避けるようになった。そして、焦慮した彼女は、憲二を探して回ったがその際偶然、自分の母についての秘密を知った。母の喜久子は周吉の海外在任中にその下役の男と結ばれて満洲に走ったが、いまは東京に引揚げて麻雀屋をやっていたのだ。既に秘かに堕胎してしまった明子には、これは更に大きな打撃であった。母の穢れた血だけが自分の体内を流れているのではないかという疑いが、彼女を底知れぬ深淵に突落してしまったのだ。蹌踉として夜道へさまよい出た彼女は、母を訪ねて母を罵り、偶然めぐりあった憲二の頓にさえ怒りに燃えた平手打を食わせ、そのまま一気に自滅の道へ突き進んで行った。その夜遅く、電車事故による明子の危篤を知った周吉と孝子が現場近くの病院に駈けつけたが明子は殆どもう意識を失っていた。その葬儀の母の帰途、孝子は母の許を訪れ、明子の死はお母さんのせいだと冷く言い放った。喜久子はこの言葉に鋭く胸さされ東京を去る決心をした。また、孝子も自分の子のことを考え、沼田の許へ帰っていった。雑司ケ谷の家は周吉ひとりになった。所詮、人生はひとりぼっちのものかも知れない。今日もまた周吉は心わびしく出勤する……。

 

有馬稲子

 

原節子と山田五十鈴

 

篠田の作品で僕が観たのは(記憶によると)以下の通り。

「乾いた湖」1960年

「心中天網島」1969年

「沈黙」1971年

「札幌オリンピック」1972年

「はなれ瞽女おりん」1978年

「瀬戸内少年野球団」1984年

「少年時代」1990年

「写楽」1995年

等々

フランキー堺企画総指揮、篠田正浩監督の「写楽」を観た!

 

篠田の最高傑作は、僕が思うに「心中天網島」でしょう。

粟津潔の寺山修司の詩集「田園風景に死す」の表紙と装幀を見て、日本回帰というテーマが見えたので、粟津潔に100万円で美術をやれるかと頼んだ。この映画には驚かされました。

金沢21世紀美術館で「粟津潔 デザインになにができるか」を観た!

篠田正浩監督「心中天の網島」表現社=ATG、昭和44年

 

 

篠田正浩のことを深く知るようになったのは、この本によります。

 

「日本語の語法で撮りたい」

NHKブックス[739]

1995年7月30日第1刷発行

著者:篠田正浩

発行:日本放送出版協会

「映画にとって戦後日本とは何であったか」

昭和20年8月15日、少年・篠田正浩は何を見たか。

戦後50年、敗戦の荒野の沃野を駆けぬけて、篠田の作品群は

時代と切り結び、敗北と挫折の人間像に濃密な視線を注ぎ続けた。

異形化する日本文化への問いは、”日本という沼”を探検し、

”母の在所に帰ること”によって、固有の映画言語を紡ぎだすに至る。

松竹ヌーベツバーグとして注目された「乾いた湖」「暗殺」、

”日本回帰”の原点としての「美しさと哀しみと」「心中天網島」、

文明の激烈な接点を追う「沈黙」「瀬戸内少年野球団」「舞姫」から

最新作「写楽」まで、異能の映像作家の航跡を辿る。

 

話は変わりますが、篠田正浩の妹は篠田弘子さん、建築家です。僕が若い頃、お互いに若い頃、夜中まで議論したりして、よくお付き合いしました。その頃弘子さんの関係で、何度か篠田正浩さんとお会いしました。女子美を出て、ニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションに選ばれた「ムライスツール」をデザインした田辺麗子さんの事務所に入り、その後、構造家である(故)清瀬永さんが主宰する清瀬事務所で所員として、また秘書役として長らく勤めていました。清瀬さんは現代音楽の作曲家の清瀬保二の次男さんです。そうそう清瀬さんは、よみうりランドの木造ジェットコースター「ホワイトキャニオン」の構造設計も手掛けました。清瀬事務所で設計した「北千束 S.I邸」は、篠田正浩と岩下志麻の家です。

「篠田弘子設計室・鞘」

https://www.chiryuheater.jp/old_site/Members/architects/syo/

 

 

以下は、たまたま上の本に挟まっていた新聞の切り抜きです。

朝日新聞:2005年1月5日

 

朝日新聞:日時不明(2005年近辺か?)