2度観に行っているのですが、「クリムト展 ウィーンと日本1900」、ブログに書くのが遅くなりました。会期は7月10日で終了しました。巡回展として、7月23日から豊田市美術館(愛知県豊田市)で開催されるので、それに免じてお許しください。と、まあ、勝手な言い訳をしていますが、「クリムト展 ウィーンと日本1900」、過去最大級といわれる展覧会、いや、なかなか素晴らしい展覧会でした。
展覧会の構成は、以下の通りです。
Chapter 1 クリムトとその家族
Chapter 2 修業時代と劇場装飾
Chapter 3 私生活
Chapter 4 ウィーンと日本1900
Chapter 5 ウィーン分離派
Chapter 6 風景画
Chapter 7 肖像画
Chapter 8 生命の円環
展覧会のみどころは、下記の三つ
1. 過去最大級のクリムト展
初期の自然主義的な作品から、「黄金様式」の時代の代表作、甘美な女性像や清々しい風景画まで、日本では過去最多となるクリムトの油彩画25点以上を通して、その芸術の全容に迫ります。
2. 《女の三世代》、初来日
円熟期のクリムトが手がけた《女の三世代》(ローマ国立近代美術館所蔵)が初来日します。銀などの素材が用いられたクリムトならではの繊細な技法と装飾的な表現を、この機会にご堪能ください。
3. 世紀末ウィーンと日本
19世紀後半のヨーロッパでの流行を受け、ウィーンでも日本美術が人気を博し、その表現やモティーフが美術に取り入れられました。日本美術に影響を受けたクリムトや同時代画家たちの作品とともに、彼らに影響を与えた日本の美術品を展示し、美術におけるウィーンと日本とのつながりを明らかにします。
Chapter 1 クリムトとその家族
クリムトといえばこれ!
モーリッツ・ネーア
「猫を抱くグスタフ・クリムト、
ヨーゼフシュテッター通り21番地のアトリエ前にて」
1911年 写真
グスタフ・クリムト
「ヘレーネ・クリムトの肖像」1898年
クリムトの姪ヘレーネ・クリムトを描いた
Chapter 2 修業時代と劇場装飾
グスタフ・クリムト
「レース襟をつけた少女の肖像」1880年
ウィーンの工芸美術学校の図画教師養成課程の、課題であったのではないかと言われている。少女の夢見るような表情もとらえて、再現しようとしている。フランツ・マッチュも同様な作品を描いている。
Chapter 3 私生活
グスタフ・クリムト
「葉叢の前の少女」1898年頃
クリムトが1896年頃に多数描いた肖像画の習作、モデルの身元ははっきりしていないが、のちにクリムトの最初の息子を生んだマリアだと考えられている。クリムトの絵画の中で最も印象派風の作品である。
Chapter 4 ウィーンと日本1900
グスタフ・クリムト
「女ともだち(姉妹たち)」1907年
幅の狭い縦長の変則的な寸法で、毛皮のコートを着た二人の女性を表現した。頬や唇の柔らかい朱の色調と青白い肌の組み合わせは、女性の顔の感応性をいっそう鮮明にする。
グスタフ・クリムト
「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」1891年
エミーリエは、クリムトの生涯を通じて、彼の最も重要な、心から頼れる人物であり続けた。彼らは生涯のパートナーだったが、結婚に至ることはなかった。
グスタフ・クリムト
「赤子(ゆりかご)」1917年
強調されているのは、布の山による遊戯性である。布地は色とりどりの建築素材のように絡み合い、赤い頬をした赤子を支える抽象的な土台を成している。
Chapter 5 ウィーン分離派
グスタフ・クリムト
「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」1899年
ウィーン分離派が結成される中、1898年頃にクリムトが構想した本作品は、ウィーン分離派の掲げた綱領に基づき制作された象徴的絵画に数えられるとともに、新たな芸術運動の理想に身を投じようとするクリムトの決意を示す作品の一つである。
グスタフ・クリムト
「ユディトⅠ」1901年
今回の展覧会の目玉
装飾的な効果を伴う様式化された構図、ふんだんに使われた様々な文様、高価な装身具を身に纏いながら、裸身をさらす女性のエロティシズム。彼の名を広めた特徴をすべて備えた作品。
ヨーゼフ・マリア・オルブリヒ
「第2回ウィーン分離派展ポスター」1898年
ウィーン分離派の展覧会ポスターは、集客のアイデアは実に革新的なものであった。オルブリヒは新しい分離派会館を建築図面のように描き、ウィーン分離派を象徴する意匠を作り上げた。その質の高さは史上最高だった来場者の意識をも象徴するものとなった。
グスタフ・クリムト「ベートーヴェン・フリーズ」(部分)
1984年 原寸大複製 オリジナルは1901-1902年
216×3438cm
ウィーン、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館
「ベートーヴェン・フリーズ」は、クリムトの代表作の中でも特に重要な作品である。クリムトは本作品を第14回ウィーン分離派展のために壁画として制作した。開催されたのは1902年4月のことだった。この展覧会でウィーン分離派は、「総合芸術」を志向する展覧会という構想を実現させ、オーストリア美術史に名を残すこととなった。クリムトのテーマは、ベートーヴェンの交響曲第9番だった。
以下、3点(部分)
グスタフ・クリムト
「人生は戦いなり(黄金の騎士)」1903年
本作品の騎士は馬に乗り、手に馬上競技用の槍を持っている。騎士が被っている菱型模様の兜は、ウィーン美術史美術館の宮廷狩猟・武器コレクション所蔵のサレットと呼ばれるゴシック様式の兜をモデルにしたものだ。
Chapter 6 風景画
グスタフ・クリムト
「アッター湖畔のカンマー城Ⅲ」1909-10年
クリムトは「アッター湖畔のカンマー城」を4点描いている。4点の内3点目が本作品。城の中庭を囲む低い建物の側面を描いている。
Chapter 7 肖像画
グスタフ・クリムト
「マリー・ヘンネベルクの肖像」1901-02年
女性を堂々とした姿で捉えながら、その個人的な特徴を描き出すというクリムトの才能を示す好例である。彼女はクリムトの親しい友人であった。ヘンネベルク夫妻は、1899年にクリムトと一緒にヴェネツィア旅行をした仲間でした。
グスタフ・クリムト
「オイゲニア・プリマフェージの肖像」1913-14年
オットーとオイゲニウアのプリマフェージ夫妻は、クリムトの最も重要な支援者に数えられる。クリムトは1912年頃から一家の親しい友人となり、娘メーダの肖像画を依頼された。オイゲニアの肖像画を描いたのはその翌年である。
グスタフ・クリムト
「白い服の女」1917-18年
この小さな作品は、クリムトが亡くなる際に、未完成のままアトリエに残されていた作品の1点である。構図は定まり、下塗りによって基本的な色彩の取り合わせも決定している。背景は女性の姿によって、白と黒の色面に分けられている。女性が身につけているドレスは大まかに描かれ、顔の白い下地も塗られている。赤と青の筆のタッチが、唇と頬の赤、そして顔の陰を表している。しかし、画家はこの作品をさらに細かく仕上げるまでには至らなかった。
Chapter 8 生命の円環
グスタフ・クリムト
「リア・ムンクⅠ」1912年
死の床にある人物は、中世にまでさかのぼるヨーロッパ絵画の伝統的な主題である。リア(マリア)の悲劇は、1911年から1912年にかけてウィーンの社交界を騒がせた。1911年12月28日、裕福な木材商の娘だったリアは、恋の悩みから24歳でピストル自殺した。その直前、婚約者の作家ハンス・ハインツ・エーヴァースに別れを告げられていた。クリムトはエーヴァースとリアの双方と親しかった。この肖像画を依頼したのは、リアの母アランカ・ムンクで、クリムトの支援者で教え子でもあった。死者の顔を囲む色彩豊かな花によって、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」を思わせる。
グスタフ・クリムト
「女の三世代」1905年
グスタフ・クリムト
「家族」1909-10年
記念写真コーナー
「クリムト展 ウィーンと日本1900」
19世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト(1862-1918)。華やかな装飾性と世紀末的な官能性をあわせもつその作品は、いまなお圧倒的な人気を誇ります。没後100年を記念する本展覧会では、初期の自然主義的な作品から、分離派結成後の黄金様式の時代の代表作、甘美な女性像や数多く手掛けた風景画まで、日本では過去最多となる25点以上の油彩画を紹介します。ウィーンの分離派会館を飾る壁画の精巧な複製による再現展示のほか、同時代のウィーンで活動した画家たちの作品や、クリムトが影響を受けた日本の美術品などもあわせ、ウィーン世紀末美術の精華をご覧ください。
「東京都美術館」ホームページ
「クリムト展 ウィーンと日本1900」
図録
編集:
東京都美術館
豊田市美術館
朝日新聞社
発行:
朝日新聞社
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