松山巌の「須賀敦子の方へ」を読んだ! | とんとん・にっき

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昨日、府中市美術館へ行ったら、ミュージアムショップで須賀敦子の本が数冊ありました。美術館でも販売しているんですね。須賀敦子の人気の高さには驚きました。

 

須賀敦子没後20年ということで、記念出版が相次いでいます。その最たるものは、池澤夏樹監修の「須賀敦子の本棚 全9巻」でしょう。「須賀敦子が選者となって、自分の愛する作家・作品を集めたら・・・」という、夢のような企画を実現させた珠玉の海外文学コレクション、だそうです。

 

1990年、61歳で衝撃のデビューを飾った須賀敦子は、それからわずか8年後の1998年、惜しまれつつ亡くなった。しかし作品の評価は時を経るにつれ高まる一方である。本コレクションは、残された新発見原稿をはじめとして、須賀の思想の核となった作家・詩人・思想家による著作をすべて訳し下ろして収録する。(「河出書房新社」からの案内)

 

松山巌の「須賀敦子の方へ」(新潮文庫:2018年3月30日発行)を読みました。著者の松山巌は、1945(昭和20)年東京生まれ。東京藝術大学美術学部建築科卒業、という異色の経歴です。

 

須賀敦子の死後、松山は、須賀敦子全集第8巻に収められた、200ページにも及ぶ「年譜」を作成したという。その後、時がたち、松山は「須賀敦子の方へ」の執筆を始めました。全集刊行後、彼女の本のページをめくることもなかったが、没後10年目の命日で、彼女に呼びかける言葉を失っていたのに気づき、もう一度、彼女の作品と生涯に向き合いたいという気持ちが沸いてきたと、松山はいう。

 

須賀敦子と松山巌の関係はというと、初めて出会ったとき「須賀さんの本を読んでいないんですが」と言いながらも、須賀の祖父が興した上下水道を請け負う「須賀工業」と建築の話で盛り上がり、もちろんそれだけではないでしょうが、年齢差を超えて一気に仲良くなり、年齢差を考えれば奇跡的ともいえる、対等な関係性が始まったという。

 

須賀敦子とはどういう人か、「めぐりあう時たち」と題してこの本の解説をしている星野博美の文章から、以下引きます。

 

須賀敦子は、武家の教養と商家の財力を備えた過程でわんぱくに育ち、戦前からカトリシズムと西洋文化に触れていた多感な時期に戦争を経験し、戦後ほどなく、自分の強い意志でカトリックの洗礼・堅信を受ける。キリスト教の実践と女性が自分の力で生きていくことの両立に葛藤し、日本の戦後のありように幻滅したこともあって、フランス留学を決意する。フランスの理詰めの合理性に違和感をいだき、イタリアに惹かれ始める。そしてカトリック左派の思想に共鳴し、戦時中はパルチザンとしてファシストと戦った仲間たちのなかに飛び込んでいく。深い教養に裏打ちされた、ものおじしない持ち前の上品さと、類まれなる言語能力で、ミラノの上流社会の人間とも難なく渡りあうが、夫となったベッピーノは貧しい鉄道員の息子で、清貧を地でいくような彼には、常に死の影がつきまとっていた。夫を亡くしたあと、イタリア文学の翻訳のみならず、日本文学のイタリア語訳という離れ業をやってのける。西洋暮らしが長い人にありがちな、個人主義に走りすぎて日本の家族制度に背を向けるといった陥穽に陥ることなく、須賀家の長女として病床の両親を世話し、きちんと看取る。多忙な日々のなかでも、キリスト教的精神に基づいた社会福祉のありかたを模索し、エマウス運動に真摯に取り組む。大学で教鞭をとりながら、複数言語を繰ることで磨き上げた構成力を発揮して、いよいよ文章を書き始め、61歳でデビューする。描き出された、日本人離れした「大きな物語」の完成度の高さに周囲は驚嘆する。そして8年という短すぎる活動期間を経て帰天したため、読者は作品を通した須賀敦子としか出会えなくなった。出会えなくなった。そして聖女のような伝説的存在となり、崇拝風潮が止まらない。SNS風の表現をすれば、イマココ、である。

 
サン=テグジュペリの「戦う操縦士」から、須賀は、「建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職につこうと考える人間は、すでにその瞬間から敗北者である」と考え、社会そのものを変える夢、つまり伽藍の基礎作りを学ぼうとした、松山はという。何度もこの本のなかで松山が引くのが、須賀敦子の「大聖堂まで」(ヴェネツィアの宿)の以下の一節です。「自分がカテドラルを建てる人間にならなけれな、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」と。

 

松山巌は言う。「本書は須賀さんがフランスへ旅立つところでひとまずまとめたが、いずれ須賀さんの足跡を辿る旅は再刊するつもりである。すでに私も須賀さんの没した年齢になった。それだけに果たしてン後、どこまで彼女の言葉を聴きとる旅ができるだろうか、とつい考えてしまう」。「それでも再出立する希みを込め、彼女が訳した詩2篇を『イタリアの詩人たち』から最後に引いておきたい」として、ウンベルト・サバの詩と、ジュゼッペ・ウンガレッティの詩を挙げています。

 

 

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