川上弘美の最高傑作「センセイの鞄」を(再び)読んだ! | とんとん・にっき

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新潮文庫「センセイの鞄」著者:川上弘美
平成19年10月1日発行 平成29年12月15日6刷


ある映画を観て、思っていたような映画でなくて、やたら腹が立って、本屋に駆け込み、川上弘美の「センセイの鞄」の文庫本を買って、一気に読みました。というのも、ある知人に、「センセイの鞄」は川上弘美の最高傑作なのだ、とつい言ってしまったことがあるからです。その知人はすぐに文庫本を買ったようなのですが、果たして読んだかどうかまではわかりません。僕も読んでおく必要があり、家のどこかにあると思うのですが、10年以上前に読んだもので、見つからなかったので、文庫本を買って読んだというわけです。

「センセイの鞄」について書いたのは、2005年2月、13年も前のこと、ブログを始めて間もない時でした。
「センセイの鞄」は川上弘美の最高傑作なのだ

え~い、面倒だ、コピーして載せちゃえ!

さて、ここではもう何度も読んだことのある川上弘美の最高傑作「センセイの鞄 」について書いてみたいと思います。手元にあるのは2001年6月25日初版第1刷の半年後、2002年1月25日初版第10刷ですから、たった半年で10刷、いかに売れ行きが凄かったかわかると思います。ですから僕は、今から3年前に最初に読んだということです。川上弘美の作品では、一番読まれていると思いますので、もう読まれた方も数多いと思います。・・・

小説全体が、17の短い文章に分かれているんですが、そのひとつひとつが織りなす世界が、ツキコさんとセンセイの愛の物語、といっても言い過ぎではありません。物語の始まりからして、素晴らしい出足です。

「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」カウンターに座りざまにわたしが頼むのとほぼ同時に隣の背筋のご老体も、「塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆」と頼んだ。趣味の似たひとだと眺めると、向こうも眺めてきた。どこかでこの顔は、と迷っているうちに、センセイの方から、「大町ツキコさんですね」と口を開いた。

いや、もう、これだけで参っちゃいますよ。70歳の元国語教師と、その教え子で37歳の女性が、居酒屋のカウンターに並んで、酒を酌み交わしながらの交流が始まる。時には、巨人阪神戦をめぐって、巨人ファンのセンセイとアンチ巨人のツキコさんが、にらみ合ったりもする。そのうち、合羽橋へ行ったついでに、センセイへのプレゼント、といっても1000円の卸金ですが、を買うようになるツキコさん。「キノコ狩り」や「花見」へも行くんですが、二人は付かず離れずの状態を保っています。途中、小島孝が出てきて、ツキコさんは二人の男のあいだで迷い出します。しかし、

「何もかもが遠かった。センセイも、小島孝も月も、遠い場所にあった。タクシーの窓越しに流れる風景を、わたしはじっと眺めていた、タクシーは、夜の街を、びゅんびゅん飛ばしていく。センセイ、とわたしは声に出して言った。声はタクシーのエンジンの音にすぐにかき消された。」そして難攻不落にみえたセンセイがついに「ツキコさん、次の土曜日曜と、島にいきませんか」と、まえぶれもなく言ったのだった。

「ツキコさん、ワタクシはいったいあと、どのくらい生きられるでしょう」突然、センセイが聞いた。センセイと目が合った。静かな目の色。「ずっと、ずっとです」わたしは反射的に叫んだ。「そうもいきませんでしょう」「でも、ずっと、です」センセイの右手がわたしの左手をとった。センセイの乾いたてのひらに、わたしのてのひらも包むようにする。

ここには、ただ、単純な言葉づかいで綴られたせつない愛の物語があり、そのそこかしこから、生きることのかけがいのない喜びと豊かさと美しさが、馥郁(ふくいく)と香り立っているばかりだ。と、本の帯には書いてあります。やはり「センセイの鞄 」は、川上弘美の最高傑作なのだ、と再認識しました。

と、まあ、ここまでが以前に書いたもの、まあ、だいたいのことは過不足なく書いているでしょう。さて、以下、ここでは文庫本にある斎藤美奈子チャンの「解説」です。

「センセイの鞄が出るまでの川上弘美は、「知る人ぞ知る」くらいの作家だったが、それがっ! それまでで一番長い小説、それも恋愛小説であるところの「センセイの鞄」で突然ブレイク、今日の川上弘美の絶大な人気の土台を作ったのだった、という。

この本が出た当時の反響は、好評と酷評が同時に出ていたという。ここでは手放しの賛辞、あの松浦寿輝の、メロメロな状態の評を、下に引用しておきます。
「川上弘美の最高傑作だと思う。ここには奇抜な趣向もない、凝った措辞もない、鏡花ばりのおどろおどろしい幻想綺想もない。ただ、単純な言葉づかいで綴られたせつない愛の物語があり、そのそこかしこから、生きることのかけがえのない喜びと豊かさと美しさが、馥郁(ふくいく)と香り立っているばかりだ。ここ数年来、こんな小説を読んだことがない。」(松浦寿輝「読売新聞」2001年8月5日)

70歳がらみの男性が、30歳以上も年下の女性と恋に落ちる。その恋愛は自分が仕掛けたのではなく彼女の方からはじまっており、若者たちの性急さとは異なるスローペースで進行し、にもかかわらず若い恋敵には勝ち、最終的には<ワタクシと、恋愛を前提としたおつきあいをして、いただけますでしょうか>と切り出すことで主導権を自らの手に奪取し、ずっと不安だった<長年、ご婦人とは実際にはいたしませんでしたので>という点さえみごとにクリアし、高校生のカップルのような日々をすごして、静かに人生の幕を閉じるのである。・・・これほど幸せな老年期があるだろうか、と斎藤は言う。

が、それだけでは終わらない。発行時から5年以上経ってみると、かつての絶賛メロメロ評も、ヤケッパチ気味の酷評も、なにかしっくりこない感じがしないだろうか、と斎藤は続ける。「センセイの鞄」はもっと静かな作品だ。この作品の魅力をひとつあげろといわれたら、それは清潔感だという。センセイとツキコさんに共通するのは、単身者としての矜持である。

行きつけの居酒屋でたまたま居合わせるか、道でばったり出くわす以外に二人の接点はなく、<わたしたちは、お互いの酒やつまみに立ち入らないことを旨としている。注文は各々で。酒は手酌のこと。勘定も別々に>という関係も清々しい。センセイもまた、ときに元教師らしく彼女をたしなめることはあっても、ツキコさんに敬意をもって接している。性愛や結婚という生々しい現実が後背に退いた、茶飲み友達のような静かな恋愛。そこから「癒し」を得たのではなかっただろうか。

もし、「センセイの鞄」に問題があるとしたら、まさにその点だと、斎藤は言う。読み終えて「なんかしらん、いい感じのお話だったよ」で終っては駄目だという。川上弘美の得意技、「はぐらかし」がある。核心に近づけば語り手はすっと逃げ、作中人物はさっと身をかわす。「センセイの鞄」は通俗的な恋愛小説の定石を踏襲しつつ、それを反転した物語でもあるからだ。

「センセイの鞄」はリアリズム小説なのか、一種の幻想譚なのか。そこは深く追求せぬが花だろうと、斎藤は自分ではぐらかす。が、しかし、川上弘美は「はぐらかさない小説」の世界に一歩踏み出したように見える。その意味でも「センセイの鞄」は初期川上文学の集大成と言っていい作品だろう、と結んでいます。その主たる舞台が居酒屋である点に私は作者の茶目っ気を感じる。なにしろ二人が会うときは、たいてい酒が入っているのである。現実と幻想の区別が曖昧でも当たり前なのだ。(斎藤美奈子、平成19年8月、文芸評論家)
斎藤美奈子の「文庫解説ワンダーランド」を読んだ!

川上 弘美:
1958年、東京生まれ。
1996年「蛇を踏む」で芥川賞。
2001年「センセイの鞄」で谷崎潤一郎賞。
2007年「真鶴」で芸術選奨文部科学大臣賞。
2015年「水声」で読売文学賞。
ほかの作品に「神様」「龍宮」
「ニシノユキヒコの恋と冒険」「古道具中野商店」
「どこから行っても遠い町」「七夜物語」
「大きな鳥にさらわれないよう」
「ぼくの死体をよろしくたのむ」など。

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