小栗康平監督・脚本「FOUJITA」を観た! | とんとん・にっき

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小栗康平監督・脚本、オダギリ・ジョー主演「FOUJITA」を観てきました。


先月末に、東京国立近代美術館で開催されている「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」を観てきました(まだブログには書いていませんが…)。美術館のチラシには、以下のようにありました。


2012年のリニューアルした東京国立近代美術館、戦後70年にあたる今年は、 4階、3階の2フロアを使い、所蔵する藤田嗣治の全作品25点と特別出品の1点、計26点を展示します。特に戦争画14点の一挙展示は初の機会です。藤田旧蔵の挿絵本や、藤田の言葉を伝える当時の雑誌なども加え、藤田のしごとをさまざまな側面からご紹介します。1920年代、パリで成功を収めた理由は何だったのか。なぜ日本に戻り、戦争画を制作したのか。戦後フランスに渡り、何を考えていたのか。藤田をめぐるさまざまな問いは、いまもわたしたちに未解決のまま残されています。


問題点は以下の3つ。①1920年代、パリで成功を収めた理由は何だったのか。②なぜ日本に戻り、戦争画を制作したのか。③戦後フランスに渡り、何を考えていたのか


困った時の神頼み、高階秀爾の「近代絵画史(上・下)」(中公新書:昭和50年2月25日初版)を開いてみると、第20章「エコール・ド・パリ」として、以下のようにありました。


シャガールがパリにやってきた1910年前後というのは、現代美術の歴史の上で、パリが「芸術の都」として世界中の若い芸術家たちを惹きつけ、夜空の華麗な花火のように「良き時代」の最後の輝きを見せている時代であった。


・・・事実、シャガールと相前後してパリにやって来た異邦人芸術家は、歴史に名を残すほどの大家たちだけにかぎってみても、同じロシアからやって来たスーティンをはじめ、オランダのモンドリアン、イタリアのモディリアーニ、ブルガリアのパスキン、ポーランドのキスリング、チェコのクプカ、日本の藤田嗣治などを挙げることができる。もう少し視野を拡げるならfォーヴの仲間のヴァン・ドンゲン、キュビスム運動の中心にいたピカソとグリス、未来派のセヴェリーニなどの名前も、同じような「異邦人画家」として、そのリストに加えることができるであろう。さらに、彫刻家として、アルキペンコ、リプシッツ、ブランクーシ、ゴンザレスなどがいた。 


・・・実際彼らは、新しい試みに理解を示すいくつかの前衛的画廊やなじみのカフェで始終出会って刺激を与えあっていたのみならず、しばしば同じ建物に住み、時には共同のアトリエを利用したりしながら、誰にも制約されない自由な芸術の王国を作っていた。そこには、世界の最も遠い所からやってきた若い画家や彫刻家のみならず、詩人や、音楽家や、批評家や、画商たちが出入りし、夜を徹して議論を交わしたり馬鹿騒ぎをしたりしながら、青春の声明を燃焼させていたのである。(以上、「近代絵画史(上・下)」(中公新書)より。)


藤田嗣治は、1913年、27歳のときに、父とは3年間の約束で、単身フランス留学に旅立ちます。1940年、54歳のときに、陥落寸前のパリを離れ、帰国の途につきます。そして、陸軍省に依頼でノモンハンの戦闘画を描くために陸軍の嘱託としてソ連、中国国境地方に行きます。以後藤田は、いわゆる戦争画を次々と描くことになります。「FOUJITA」の前半は、高階の描いた1910年代のパリの芸術家たちを、そのまま映像化しています。そして「なぜ日本に戻り、戦争画を制作したのか」は、映画「FOUJITA」では、明確な回答は用意されておらず、幻想的な映像だけに終始しまっていました。「戦後フランスに渡り、何を考えていたのか」については、映画ではまったく触れられていません。


映画「FOUJITA」のラスト、というより、映画が終わってから「ランスの礼拝堂」の映像が静かに流れます。藤田が設計し、内部を藤田と君江夫人がフレスコ画で描いたものです。礼拝堂は「ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母)」と命名されたものです。地元では「シャペル・フジタ」と呼ばれています。


以下、とりあえずシネマトゥデイより引用しておきます。


チェック:第43回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞した『死の棘』などの小栗康平監督による伝記ドラマ。フランスを中心に活動してきた著名な画家・藤田嗣治を主人公に、彼の生きた激動の時代を描く。プロデューサーは、ヒット作『アメリ』に携ったクローディー・オサール。主演を務めるのはオダギリジョーと中谷美紀、さらに『最後のマイ・ウェイ』などのアナ・ジラルドら日本とフランスの実力派キャストが集結する。


ストーリー:1920年代パリ、日本人画家・フジタ(オダギリジョー)が描く裸婦像は「乳白色の肌」と称賛され、彼は時の人となった。一躍エコール・ド・パリの人気者となったフジタは、雪のように白い肌を持つリシュー・バドゥー(アナ・ジラルド)と出会い、自らユキと名付け彼女と共に暮らし始める。やがて第2次世界大戦が始まり、フジタは日本に帰国し戦争画を描くようになるが……。


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「FOUJITA」公式サイト

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