小池昌代の「ことば汁」を読んだ!
本の帯には「川端康成文学賞受賞の名手が誘う幻想の物語6扁」とあり、「モノクロームの日常から、あやしく甘い耽溺の森へ 詩人につかえる女、孤独なカーテン職人 魅入られた者たちが、ケモノになる瞬間―――」とあります。その6扁とは「女房」「つの」「すずめ」「花火」「野うさぎ」「りぼん」の6扁です。「女房」は書き下ろし、その他は読売新聞社ウェブサイトyorimoに2006年7月14日~07年12月28日の期間連載されたものです。そんなこともあってか、「女房」だけが他の5扁とはちょっと違った文脈の作品に思えます。全体的に「女房」のレオが言うように「女というものがよくわからない」ことがテーマの作品です。いや、女も、自分でも女がわからない、突如としてブチ切れ、壊れるから、特に理性的で、知的な女性は・・・。
「女房」。公園で子供たちが釣ったザリガニをもらい受けたレオは、自分のアパートで水槽に入れて飼うことにします。彼にはつきあい始めて1年になる同じ大学の同級生・ミツがいます。いつもミツがレオのアパートにやってきて、慣れると泊まっていくようになります。「ザリガニは、人間の夢を食い破るんだ。いい夢ばかりを好んで食い破る」。アパートの階下には、アメリカ人のアシェアがここに10年以上暮らしています。レオが合唱の合宿に行くので、ザリガニの入った水槽を1週間だけ、アシェアの部屋に預けることになりました。「適当でいいんです。死なない程度に、適当に」。合唱合宿から戻ってアシェアの部屋をノックすると出てきたのはミツでした。朝、起きてみたら、ザリガニが脱皮していたとミツは言います。つまり、アシェアの部屋に泊まったということかと、レオは納得します。水槽を持って階段を上ったが、後ろからミツはついてきません。「これが現実。組み合わせが、入れ替わっただけだ」とレオは思います。敵を飼う。レオはザリガニを飼う理由が、ようやくいまになって見つかったと思います。
「つの」。老齢の詩人の「先生」に長年仕えてきた秘書の「わたし」。とある山間の別荘地のコンサートホールのこけら落としで、先生の朗読会が行われるので、わたしは先生を車に乗せて別荘地へと向かっています。わたしは秘書になって30数年、結婚もせず、「すべては先生のために」と、先生のお世話に邁進してきました。朗読会では「鹿」を読むと先生は言います。一匹の雌鹿が、若い狩人に恋をしてしまいます。鹿と狩人の恋がテーマの詩です。その先生に「鹿」を読んでほしいという女が現れたという。「今日は彼女を思って読みましょう」という先生の言葉が、わたしにはナイフのように人の心を切るように思います。唯一つ、わたしのなかに後悔があるとすれば、先生とわたしのあいだに、まったく何もコトが起こらなかったこと。それは、つまらなくわびしい事実です。「わたしのほうは・・・むしろ待っていた」、「肉体のよろこびも知らぬまま、60歳になろうとしていた。いつも先生の恋の証人になるばかりで、当事者になることは一度もない」わたしでした。次のインターで降りればもうすぐというときに、突然、爪が伸び始めてハンドルに絡みつき、頭髪からはツノが生えてきました。「こんちくしょう! なにが詩人だ。老いぼれじじいめ、助平やろう」。その先生を慕い、生涯をかけて自分を捧げてきたわたしもまた、助平なおいぼれのひとりであると、思い至ります。
「すずめ」。商店街で小さなカーテンの専門店を営む中年女性の「わたし」。30のときに店を始めて20年近くが過ぎようとしています。ある時、滝沢氏が店に立ち寄り、カーテンを注文します。見本を届けに行ったわたしは、その屋敷で催されているパーティに参加することになります。パーティで食べたのが「もつ貝」、「一度食べると、中毒になるみたい」と美しい少年・グミに言われます。わたしは昨年、一人きりしかいない姉を失います。彼女は詩人の秘書を長く勤めて、ずっと独身を通した人です。というから「つの」に出てきた「わたし」の妹というわけです。あまり直接的な関係はありませんが・・・。パーティを催す滝沢氏と比べて、「恋人も異性の友もいない」「自分でもあきれるほどの、楽しみのない生活」を送っています。やがて理想的なカーテンの布地を見つけ出したわたしは、それを滝沢氏の屋敷に届け、そのままパーティに出ることになります。そのうち庭の一部に掘られていた大きな穴に、黒いビニール袋を運んで捨てる作業を、グミと組んでやることになります。帰ろうとすると滝沢氏に引き留められて、その日以来、滝沢家に幽閉され、1ヶ月後には彼と結ばれます。滝沢氏に関わり合ったことで、肉感的な交わりを重ねれば重ねるほど、わたしは変わっていきます。いや、狂っていきます。ただひたすら滝沢氏に尽くし、わたしは死ぬことさえ、恐れなくなります。「臓物煮は、一度食べたら病みつきになる」。
「花火」。緑子は去年初めて隅田川の花火を見て、強くひとの心を打つものなのだと感動します。その興奮をもう一度。世田谷で生まれ育った緑子は、ぜひ今年は小さな文具店をやっている年取った父母に見せてやりたいと思い、きちんと場所をは把握し、最高の環境を整えなければと使命感に燃えていました。20年前に一度、警察官と見合いで結婚しましたが、3年暮らしてうまくいかず別れます。自分の嫉妬が原因だったので、それさえなかったらと悔やんでいます。それでも復縁とはなりませんでした。朝、母は海苔巻きを作り、両親は花火見物の準備万端、身支度も整えました。緑子のために浴衣も出しておいてくれ、事務員のような緑子も粋な年増女に変身します。蔵前へ着くと、疲れ果てた両親を休ませるために「氷」と染め抜かれた店に入ります。普段は倹約に倹約を重ねている3人が、久しぶりに取る甘食です。ようやく目当ての場所に着いたとき、見物客でぎっしりで、人混みに流されて仕方なく陣取った場所は、花火の全体が見えない場所でした。緑子はこういう状況に陥った自分にむかむかします。お茶を買うために歩いていた緑子は、ひとの流れに押しやられ、先へ先へと流されてしまいます。その時「まさか、あのひと?」、そこには警備中の警察官、20年前と少しも変わらない別れた夫の顔がありました。「ご両親を連れていらっしゃいよ。急いで、早く」と言います。緑子は大汗を掻いて両親の元に戻ったときにはもう、花火は終わっていました。「これでもう、あのひとのもとへと逆行することは不可能だ。花火自体が終わってしまったのだし、・・・今さら戻って何になるだろう」と思い、母の作った海苔巻きを次々と口に入れ、気がついたら全部食べていました。
「野うさぎ」。かつて物語を書く作家であった「わたし」は、ある日突然書けなくなり、書き方を忘れてしまいます。前はひどい不眠症だったが、作家を辞めて夜はよく眠れるようになりました。そんなわたしは森を彷徨うようになります。森の中でどこかマザー・テレサに似た一人の老婆と出会います。老婆に連れて行かれたのは、山中の粗末な小屋でした。「まずは、滋養のスープをお飲み」と老婆は言います。「なんて上品な味わい!」とわたしは答えます。しばらくすると老婆は「あんたにぴったりの仕事があるんだよ」と口を開きます。「町へ出る。そこで気に入った男を見つけて一夜を過ごす。それだけのことよ、簡単なこと」。わたしはベッドのうえで、見知らぬ男に抱かれていました。「かわいい野うさぎ」と男は言います。幾枚かのお金を受け取ったが、アパートへ帰るとそれが皆、枯れ葉でした。夢もみないで深く眠り、そして目覚めたとき、わたしの細胞は新しい力を得て、甦ったような気がします。森で浮浪者たちと愛し合い、終わった後、彼らも枯れ葉をくれます。男たちはお前のように獣臭い女は初めてだと、抱きしめます。「感じるとき、わたしはみずみずしい青菜のようだ。青い体液が下半身を濡らす。わたしは鋭い叫び声を上げる。繰り返し、繰り返し」。「わたしは野うさぎ。カワイイ野うさぎ」。
「りぼん」。大学時代から長くつきあってきた友人・かなこから、同じ仲間だったふじこが死んだという電話を受けた良子。死因はなんなのと聞くと、ガードレールに激突した事故死だという。ふじこの母の依頼で、すべてを一任するということで彼女の部屋の整理を頼まれます。かなこと共に出かけた良子は、そこでふじこの部屋の棚で、リボンのコレクションを見つけます。「ちいさな秘密を残して死んだ友」。「良子、使うの?使わないでしょう。まさか髪につけるような歳でもないわ」というかなこに、「リボンはわたしがすべていただくわ」と良子は言います。「たかがリボンだが、それはわたしに大きななぐさめをもたらしてくれた。いや、なぐさめなどではない、もっと積極的なよろこびである」。リボンの魅力にはまっていった彼女は、ある日、綺麗なリボンをポニーテールの髪に飾った少女と出会います。「あたし、兎が好き。野兎になりたい」と、いかにも幼げなことを少女は言います。少女のリボンをコレクションに加えたいために、うちに小熊がたくさんいると嘘をつき、少女を家に連れて帰ります。わたしの使命は、とにかくコレクションを完璧なものにすること。リボンコレクションのために、わたしは悪人になろうと思います。
「ことば汁」は、そのほとんどが40代50代の独身女性が、自分の複雑で、しかも孤独な寂しい生き方を語っていますが、しかし読み進めるうちにいつの間にか幻想的な世界、そして官能的な世界に足を踏み入れていることに気づかされます。先生からたちのぼる生身の匂い、それは加齢臭とか老人臭とか、それが女たちを惑わす誘因剤になってしまうという話。そんな先生の恋の証人になるばかりで、当事者になったことのないわたしは、自分の胸の内の灰をかき分けてそのなかから、まだかすかなぬくもりを宿す熾き火を探し出したいと願っています。先生がまた恋をしていると聞かされると、車の運転中、爪がどんどん伸びてハンドルに絡みつき、頭にはツノが生えたりします。先生にツノを触られると、わたしの体にいきなり電光のような快感が突き上げ、頭部から下半身をぐわーんと貫きます。
舌切りすずめの話。美しいすずめで、いい声で鳴くすずめにじいさまは「おちょこ」という名前をつけて可愛がります。ばあさまはいい年をしてすずめとじいさまの仲を嫉妬します。糊をなめてしまったおちょこをの舌を、ばあさまは抜き取ってしまいます。じいさまは怒ってばあさまを半殺しにしてしまいます。おちょこは助けてくれたお礼にと、その夜、じいさまに自らを捧げます。森に住む魔女が秘密の薬を調合して、あらゆる病気を治す話。恋人の病気を案じた若者が、魔女を訪ねます。だが魔女は若者を翻弄するばかりでなかなか薬を作ってくれません。そのうち若者は魔女の作るスープで眠らされ、姉妹には殺されて若者自身が薬の材料になってしまいます。黒いリボンに手をかけると、意志を持つかのように、ぬめりとほどけ落ちます。そこには陶然とする快感があり、ほとんど性的な快感でした。まるで自分の固い結び目が、魔法の指でほどかれた気分。その黒いリボンをはさみを入れると、切断面から血が滴り落ちます。分かれた2本は、2匹の蛇となり、にゅるにゅるにょろにょろ、部屋のなかを逃げ回ります。
こんなふうに、時には恐ろしい童話のような、寓意の個所が度々出てきます。ザリ、ザリ、ガニニ、ザリガニニ、ザリ、ザリ、ガニニ、ザリガニニ・・・。「女房」のなかで、ミツが「ザリガニがね、脱皮したのよ!」とレオに言います。「ほっとして、こうなってしまったの」と、アシェアの部屋の泊まったことの言い訳をします。作者の小池は「理論は時として飛ぶものである」というフレーズを差し挟みます。
「ことば汁」という書名は「鍋の中の言葉のごった煮というイメージ」からきているという。最初に「ことば汁」と聞いたときに、なんとなく違和感がありましたが、「言葉のごった煮」と聞くと、そうかもしれないと思いました。小池昌代は、「女の人の老いは若い頃から興味がありました。いまの40代、50代の女性はとてもナマナマしい。詩作と同じように、ひとつの単語からイメージを広げて書いていくうちに妄想が枝葉を伸ばしていって……」と、そして「若い頃は詩の構築だけでカタルシスが得られた。でも人間は傷つけ傷つけられて矛盾だらけ。いまの私は人間の言葉の背後にある深みを言葉でとらえ、ドロドロした世界に生きることが面白い。それが小説の中にあったんです」と語ります。「これまで“けものみち”をガシガシ歩くようなことはやってこなかった。でもこのままでは死ねない。私という器を全部使って、それを貪欲に見極めたいんです」と。(朝日新聞インタビューより)
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