多田武彦の「ミスマッチ」について(1) | とのとののブログ

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多田武彦の「ミスマッチ」について

 

 ブログ「第70回東西四大学合唱演奏会の中止と男声合唱曲『雨』について」で,第1曲「雨の来る前」の歌詩「人は重い頭をして 室にいる」の「室」を多田武彦は「しつ」と読ませていたが誰かが「へや」に変更し,それが後に楽譜にも反映された。変更した人は畑中良輔ではないかと推測した*

* https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12683902768.html

 

 この件,慶應ワグネルOBの藤森数彦氏にご教示頂き,推測通り畑中良輔であることが分かった。大筋を記すと,昭和44年の第18回東京六大学合唱連盟定期演奏会で男声合唱組曲「雪明りの路」を演奏する際の練習で,畑中良輔が「『しつ』なんてぜったいにおかしい」と言い,確認するよう指示。学生指揮者が伊藤整に問い合わせの手紙を書き,結果「伊藤整から『へや』でOKをもらった」ということ。

 伊藤整は11月に亡くなったため,確認はギリギリのタイミングだった。次男の伊藤礼氏が編集した「伊藤整日記」の序文に*,伊藤整の「文字使いのクセ」として「自動車を自働車と書く」などの例とともに「『へや』を『室』と書く例が頻出」と述べている。問い合わせがあったため,礼氏もこの書き方が気になったのかもしれない。

* 日記の序文(第一巻)amazonの「試し読み」で参照できる。

 

多田武彦の「ミスマッチ」の例

 多田武彦の漢字の読み方は,詩人の読み方や慣用的な読み方と異なるものが散見される。「室」のように辞書的に多田が正しく,詩人の慣用的な用法は辞書的に不可なケースもあるので,これを「多田の読み間違い」とするのは適切ではない。ここでは誤読も含め「ミスマッチ」と呼び,初期の作品で例を見ていく。

 多田や作品をおとしめる意図は毛頭なく,フラットにミスマッチの事例と起こった理由をいくつか集め,多田の作曲スタイルと関係付け考えてみる。

 

 以下,「辞書的に読めない」とあるのは「漢字として正式な読み方ではない」「漢和辞典には載っていない」等を意味します。慣例的な読み方として辞書に載っていることを否定するものではありません。

 

 

柳河風俗詩

 処女作「柳河風俗詩」の出版楽譜は以下3種。

  合唱文庫5 男声編 昭和32年 全音楽譜出版社

  多田武彦合唱曲集 昭和34年 音楽之友社

  多田武彦 男声合唱曲集 昭和45年 音楽之友社

楽譜末の歌詞は,音楽之友社版の2冊は同じ。

 

 合唱文庫版では,組曲タイトルが「男声合唱のための小組曲『柳河風俗詩』」と異なっている事と,音楽之友社版では省略されている句読点が入っている。また,語句の配置(レイアウト)も異なっている。

 作曲当時最も手に入れやすかっただろう昭和8年初版の岩波文庫「北原白秋著『白秋抒情詩抄』」と比較すると,句読点の打ち方は同じ。ただしリフレインされる「柳河じゃ」「その家は」の置かれる位置が行頭か行末かが異なる。

 最大の違いは,岩波文庫では総ルビに近く漢字の読み方が示されているが,合唱文庫版では難読なものに限定されていること。例えば「銅の鳥居をみやしゃんせ」は「どうのとりい」ではなく「かねのとりい」など。遊女屋(ノスカイヤ)BANCOなどのいわゆる「柳河語」も同じ。

 

 総ルビのため読み方のミスマッチはない。ただし,「紺屋のおろく」最後で「赤い夕日に ふとつまされて」は岩波文庫では「赤い入日に」であり,多田の「写し間違い」が早くも見られる*

 もしかしたら白秋の別の詩「赤い夕日に」の「赤い夕日につまされて」と取り違えたのかもしれない。「赤い夕日に」は詩集「雪と花火」所収で,「花火」と「彼岸花」の間にある。のちに「雪と花火」を組曲にしたから,この詩に目を通していた可能性は高い。「つまされて」は,「強く心をうごかされる」の意で,ここでは「情愛にひかれて」と解されている。

* 調べるうちに分かったことを参考に記す。この詩は明治4451日発売の雑誌「スバル」に,「柳河 時花歌」の一遍として掲載された。時花は「はやり」と読み,近世文学で普通の読み方。「粋な流行唄」という感じ。

 多田は白秋の詩に作曲するに当たり「歌い易い詩はすでにいろいろな先生方によって作曲されていた。まだ何か残っていはしないか,と探しているうちに白秋がその生まれ故郷を綴った『柳河風俗詩』に出くわした」(東芝LP TA-8023)と記しているが,「紺屋のおろく」には先人の曲がいくつかある。おそらく最も古いものは昭和14220日頃から予約を受け付けた「北原白秋歌謡名曲集」というSPに収められた,桂三吉が作曲したもの(藤田圭雄「白秋愛唱歌集」(岩波文庫 緑48-3)の解説)。また,美術家にして音楽家だった斎藤佳三や高木東六が曲をつけている。高木東六の小粋な曲はYoutubeで聴くことができ,若い多田が付けた歯切れ良い曲と好対照。

 藤田は「桂三吉は誰かわからない」としているが,歌手の小柳有美氏はブログ「正調博多節 番外編 その源流を求て」(https://themuse.exblog.jp/16115492/)で,藤井清水とともに民謡を集めた町田嘉章だとしている。しかし,藤田が引用するレコード付属の白秋の解説は「町田嘉章氏に依って作曲され歌舞伎の舞台にもよく上った。但(ただし),この曲は桂三吉氏の作である。さて桂三吉とは。・・・」となっており,小柳氏が正しいのか分からない。

 

 「多田武彦データベース」には「『梅雨の晴れ間』の『青い空透き,日光の』となっている部分は,原詩では『青い空透き,日の光』」とされている。しかし,岩波文庫では「日光の」となっている(図は私が持っている昭和51420日の第40)

 「近代書誌・近代画像データベース」に「思ひ出」初版の画像が公開されており*,該当部分は「日の光」。こちらが正しいという判断らしいが,北原白秋は岩波文庫版も校訂しているので,本人が「日光の」に変更した可能性もある**。しかし,岩波の新しい本では「日の光」になっており,現在は「日の光」が正しいとされている。

* http://school.nijl.ac.jp/kindai/CKMR/CKMR-00052.html#213

** 岩波文庫の著者は「北原白秋」となっているが,実際は吉田一穂(よしだいっすい,大正・昭和期の詩人)が白秋の委嘱を受け,選抄・編纂した。「初版本を底本に全集と校号し,さらに白秋自らの校訂をへて」とあり,白秋も手を入れている。

 ルビの多さは,吉田が「新版を鋳(ちゅう)する機に,いささか時代に準じて,讀み難(がた)い漢字や特殊な用語の初出には,『ふりがな』を附し,誦()みの圓滑(えんかつ)を慮(はか)った」ため(『』は原文では傍点)。活字がすり減ったので新しく版を起こしたことを「鋳する」と表現しているのは時代で,改版は昭和32年の第24刷。その頃に吉田の判断でルビを増やしたらしい。面白いのは「誦()み」の表記で,意味は「となえる。声を出して読む。そらんじる」で,音読を想定している。

 

富士山

 「富士山」の出版楽譜は以下3種類。

  合唱文庫8 男声編 昭和33年 全音楽譜出版社(作品第肆,作品第拾陸のみ)

  多田武彦合唱曲集 昭和34年 音楽之友社

  多田武彦 男声合唱曲集 昭和45年 音楽之友社

「柳河風俗詩」と同じく,音楽之友社の2冊は同じ歌詩が載っている。

 合唱文庫版には第23曲のみ収録されており,音楽之友社版では省略されている句点が入っている。ルビは少なめで,音楽之友社版にある「土堤(どてい)」「金隈取(きんくまどり)」などは書かれていない。

 異なる点は, まず作品第肆の「花環が圓を描くと そのなかに富士がはひる。その度に富士は近づき。 とほくに坐る。」の部分で,歌詞部分では「その度に富士は近づき。」が書かれていない。しかし,曲の方には入っているので,これは出版社の単純ミスだろう。

 

 大きな違いは「自分の顔は両掌のなかに。」の部分で,「両掌」は「りょうたなごころ」と読みが振られ,曲もそうなっている。

 翌年出版の「多田武彦合唱曲集」では「その度に富士は近づき。」は省略されておらず,また「両掌」は「りょうて」に修正されている。京都府合唱連盟理事長だった吉村信良は読み方の変更を「詩人に指摘され修正した」としていた。おそらく,多田が合唱文庫を草野心平に謹呈し,それをみた草野から指摘されたのだろう。

 

 「掌」は音読みが「ショウ」,訓読みが「たなごころ・たなうら・てのひら・つかさど()(以下,読み方でカタカナは音読み,ひらがなは訓読みを示す)。従い「両掌」も辞書的には「リョウて」とは読めない。

 

 「両」は「リョウ」・ふた()」だが,「ふた」と読むのは地名などのほかは,単独で使われる場合のみ。従い,これは「リョウ」で確定。

 「掌」の名詞の選択肢は「ショウ・たなごころ・たなうら・てのひら」。古くからの読み方は「リョウショウ」。禅の公案「隻手の声(セキシュのこえ)」が著名。

「両掌(リョウショウ)相打って音声(オンジョウ)あり,隻手に何の音声かある」

「両方の手のひらを打ち鳴らすと音がする。片手はどんな音がするのか」という意味。今のメロディー「リョウて」と最も合うのは「リョウショウ」だと思う。

* 両掌の対になるのが隻手というのは興味深い。隻は「セキ」「ひとつ」で「対になるものの片方」の意味。「隻」の相手は「雙」(ソウ・ふた)なので,本来は「両掌と片手」または「雙掌と隻手」か。隻手は中国語にある。雙掌はGoogle翻訳等は通るが,実際にあるのかどうか? 雙手(両手)は中国語にある。

 

 「リョウたなうら」はマニアック。「リョウてのひら」は現代人には意味がつかみやすく,この読み方は一案だと思うが,多田が選んだのは「リョウたなごころ」。掌の最も長い読み方を選んでおり,読み方に多田としての主張があったのかもしれない。「こころ」が入っいるところが気に入ったのか?

 「たなごころ」の意味は,「た」が「手」,「な」は「の」を意味する連体助詞,「こころ()」は「中心」「裏」なので,「手の中心=手のひら」「手の裏=手の甲」。

 

 「ふりがな文庫」を参照すると*,「りょうて88.2%」「りやうて5.9%」「て2.9%」と,「両掌」は実質的に「リョウて」としか読まれていない。どうやら明治期以降は「リョウて」と読むことが常識だったらしく,草野心平もその流れでこの字を使ったのだろう。

* https://furigana.info/w/%E4%B8%A1%E6%8E%8C

 

 この詩は教科書に載り,私も高校に入ってすぐ学習した。両掌をなんと読んだか記憶にないが,1年生の冬に男声合唱組曲「富士山」の実演を聴き違和感なかったから,おそらく「りょうて」と習ったのだろう。

 調べると,高校の先生が昭和34年に書かれた学習指導がネットにあり,この詩が載っていた。教科書は角川書店「高等学校国語一総合」。そこでは「両掌」は「両手」となっている*。教科書は辞書にない読み方をさせられないし,また勝手に変えられるはずもないので,これは詩人と相談しその了解のもとに変えたのだろう。このやりとりが詩人の頭に残っていたため,特にこの読み方が気になったのかもしれない。

* 読み方は「リョウて」だが漢字は掌なのだから,「自分の顔は両方の手のひらの中にある」ことになる。これはどんな格好をイメージすればよいか? 次の節は「却って物憂く 眺めてゐた」だから,手のひらが顔を覆っているのではない。うまごやしの原に腹ばいになり,両方の手で頬杖をつく格好と想像される。

 

 この教科書との比較で別のミスマッチがみつかる。多田が「ドテイ」と読んでいる「土堤」は,この教科書では「どて」。おそらく詩人は「どて」と読んでいた。

 「土」は「ド,つち」で「堤」は「テイ,つつみ」。多田は一字ごとに辞書の読みをあて「ドテイ」とよんだらしい。しかし,単語の「土堤」になると,辞書や「ふりがな文庫」でも読み方は全て「どて」。ただひとつ国土地理院の地図記号のページに「土堤(どてい)」と表記されている*「一般的には土手(どて)などといわれています」と説明されているので,正式には「ドテイ」と読むのかもしれない。

* https://www.gsi.go.jp/KIDS/map-sign-tizukigou-h07-02-06dotei.htm

 

 余談だけれど「少女たちはうまごやしの花を摘んでは巧みな手さばきで花輪をつくる。それをなわにして縄跳びをする」について,本当にうまごやしの花で縄跳びができるほどの花輪が作れるのかを試した人がいる*。結論は「無理」。時間がかかりすぎ,そして重くなりすぎる。

 * http://hitonoekidaihyou.blog89.fc2.com/blog-entry-745.html

 

 なお,友人Oによるとこのブログの写真は「うまごやし」ではなく「しろつめぐさ」。うまごやしの花は小さな黄色の花で,花輪にはそぐわない。wikipediaによると「うまごやしはシロツメクサの俗称」ともあり,詩人が本当のところどちらを表していたのか分からない。

(続く)