慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団 第146回定期演奏会 | とのとののブログ

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慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団 第146回定期演奏会

 

 

 2022110日に開催された演奏会,オミクロンによる感染急拡大中で関西から訪問してよいかギリギリまで悩んだが,行って本当に良かった。

 

 2年ぶりに生で聴く演奏会,行く前の懸念はどこへやら,会場でパンフレットを手に取るとワクワクが止まらない。

 そして,開演。48名ぐらい。コロナ禍で新入部員獲得に苦労する団が多く,解散寸前のところもあるのに頼もしい。パンフレットで数えると1年生が11人。

 ステージ入りはマスクを付け,整列するとマスクを外す。客が常にマスク着用なので団員も歌う時以外はマスクをする方針なのだろうけど,感染対策には意味がない。そこまでやらなくてもよいのにと思っていると,塾歌の第一声。

 

 張りのある力強い声が「見よ」と歌い出した瞬間,鳥肌がたった。練習にはさぞ苦労されただろうに,これほど立派な歌声と合唱が聴けるとは。想像以上で,ただうっとりと聴き惚れた。

 

 ここから演奏に入るわけで,私的に今回は「70年代」を思い起こしました。「スタイルが古い」とかそんな意味ではありません。

 

 

1ステージ 男声合唱組曲『クレーの絵本 第2集』

作詩 谷川 俊太郎,作曲 三善 晃,指揮 浜田 広志(客演)

 

 邦人男声合唱曲は,清水脩が礎となり多田武彦が間口を広げ,「コンポジションIII」など出色の作品も合ったけれど,新しい潮流が起こったのは70年代後半。「ゆうやけの歌」「ことばあそび歌」「今でも…ローセキは魔法の杖」など,それまでとは毛色の異なる,良い意味での遊びのある曲が作られ始めた。

 この組曲は1979年の関西大学グリークラブの委嘱で,自分の中ではこの「新しい流れ」に位置づけしている。三善晃の男声合唱曲は,「王孫不帰」はよくわからず,編曲集「ルフラン」は楽しかったけどまあそうかなと言う感じで,この組曲の初演を聴いて初めてその良さを感じた。

 

 演奏はややリズムに乗り切れない感があったけど,指揮者にうまくリードされた好演だった。

 

2ステージ『Cole Porter Song Album

作詞 Cole Porter,作曲 Cole Porter,編曲 前田 勝則,指揮 佐藤 正浩,ピアノ 前田 勝則,ソプラノ 藤谷 佳奈枝

 

 コール・ポーターの名をはじめて聴いたのは,1977年の同志社グリークラブ第73回定期演奏演奏会。ちらしを見たときは「知らない男声合唱の作曲家がいる」と思ったけど,彼は戦前を中心としたミュージカルや映画音楽の作曲家で,同志社のステージは福永陽一郎が編曲したものだった。

 これらは東京コラリアーズの十八番で,なかでもBegin the Beguinは開幕によく歌われた。昭和30年代と異なり,すでに彼の曲は一般的ではなくなっており,福永は「流行を追うに急な極東の島国の若者たちからは忘れられた存在でしかない」と記している。しかし,「思い出は遠い日々となったが,スタンダードな名曲のメロディは不朽で,いつ開いても美しく,古びたりしない」とも。

 

 私の年代でもそんな認識だったのだから,ワグネリアンはもとより佐藤先生も前田先生も,彼の曲に若者が熱狂した時代は知識でしかないはず。それでも「スタンダードな名曲のメロディ」は美しく歌われた。

 しいていうならば,非常に生真面目に「普通の合唱曲」のように歌われたのは少し残念。「ミュージカルや映画音楽」の軽い楽しさは感じられなかった。プロのソリストがそのあたりよく心得ているのと対照的だった。練習に苦労されただろうに,こんな事言うのも気がひけるけど,「がんばったね」ばかり言われるのもワグネリアンにとって良くないだろうから,結果に対して感じたこととして記しておく。

 

3ステージ 『Paul Hindemith – A Composer’s World in His Works for Male Chorus –

作詩 Bert Brecht

作曲 Paul Hindemith

指揮 田中裕大(学生)

 

ヒンデミットの男声合唱曲は,1976年の東京六大学合唱連盟第25回定期演奏会で明治大学グリークラブの演奏を聴いたのが最初。NHK FMの放送で聴いた。この頃の明治には,委嘱した男声合唱組曲「わがふるき日の歌」「 今でも…ローセキは魔法の杖 」だけでなく,ヒンデミットやオルフの「Concento di Voci」など珍しい外国曲も聴かせてもらえたことが印象に残っている。

 

 80年代後半には「前庭に最後のライラックが咲くとき(When Lilacs in the Dooryard Bloom'd)」のCDが何種類か出て,彼の生涯を知ることができた。当時はネットなどないから,調べごとは大変だった。

 1927年にベルリンの高等音楽学校の教授となるが,その現代的な音楽が腐敗した芸術であるとナチスから激しい圧迫を受け,1935年に職を辞しトルコやスイスで音楽指導にあたり,1940年にアメリカに移った。

 

 このステージを振る学生指揮者は,パンフレット冒頭に,1927年にヒンデミットが合唱指揮者に行った講演の一節を自らの訳で引用している。下記に私が理解したことをまとめる。

「前世紀の作曲家は消費者(聴衆)のことを考慮せず,自分が書きたい音楽を書いていた。しかし,今世紀(20世紀)は音楽の需要が高まり,それ(だけ)ではだめで,消費者が求める音楽を提供しなくてはならない。合唱団(と指揮者)は,作曲家と聴衆をつなぐ使命を受けている。合唱団は消費者の代表として,作品を委嘱する際に,思うところを作曲家と徹底的に話し合い,『テクストと音楽の種類や構成について共同決定権』をもち,変更改善を提案する権利ももつ。嵩んだ出費は合唱団が持たないといけないが,合唱団にも音楽にも得るところが大きいだろう」

 ヒンデミットは作曲家・合唱団・聴衆の間にそれまでにない関係を求めたわけで,コロナ禍で学生団体が新しい関係を模索しているのと似たところがある。

 

 学生指揮者は,ヒンデミットが合唱団に期待したこの役割を担うにあたり,ワグネルは「合唱団Choral societyとして彼の思想と共同作業する素質を備えている」と述べている。

 慶應義塾を創立した福沢諭吉は,1868年に出した「西洋事情 外篇」で,societyをそれまでの「集まり」「仲間」ではなく,「交際」「人間交際」と訳している*。「人間交際」は福沢の造語で,「仲間同士の結びつき」よりも更に広い人間関係を表している。現代の「社会」「共同体」を見据えた訳だったらしい。「ワグネル・ソサエティー」の名にそこまでの意味を込めたのか分からないけれど,今日のワグネルはそれを目指しているように思えた。

* 柳父章著「翻訳語成立事情」

 

きっちりした演奏で低音もちゃんと鳴らしていたのに好感。しかし,アンサンブルの声は素晴らしく,個人の声も素晴らしいのに,パートソロになると弱く感じるのはなぜだろう。ワグネルに限った話ではないけど不思議。

 

4ステージ 『愛のうた ― 光太郎・智恵子 ―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために』<委嘱初演>

作詩 高村 光太郎,作曲 新実 徳英,指揮 佐藤 正浩,管弦楽 ザ・オペラ・バンド

 

智恵子抄と合唱といえば,私の世代は清水脩。ワグネルが初演した「或る夜のこころ」,「智恵子抄巻末の歌六首」,しぶいところで「梅酒」。清水脩は昭和16年に「智恵子抄」が出版されたときから曲をつけたいと思い,15曲に作曲したと書いている。男声合唱曲は4曲としているが,清水脩全集や「清水脩データベース」にはこの3曲しか見当たらない。

 ブログに書いたように,多田武彦や服部正の「智恵子抄」ができる可能性もあったけど,ともに作曲家が断った。

 

 候補の詩は佐藤先生がいくつか出され,高村光太郎記念館で購入された詩集も含まれていた。「智恵子抄」は当初は考えておられなかったが,新実先生と「智恵子抄」にすることで一致した。引用されていたヒンデミットの講演がかぶる話。

 ここで新実先生のことば。

「人間は誰しも青春を生きている,僕はそう思う。ましてや青春そのものを生きている大学生や若者たちは『智恵子抄』から大きなものを受け取ることになるだろうし,そうあって欲しい」

 青春とは何かと書くのは気恥ずかしいけど,コトバンクによれば「夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代」。肉体的な「若さ」はどうしようもないけど,「夢や希望に満ち(精神的な)活力のみなぎる」なら,年令に関係ない。

 

  この組曲は,新実先生のことばをつなぐと

「『智恵子抄』 は,光太郎が類稀なる純粋な愛を智恵子に捧げて,しかも智恵子は死んでいくしかない病にかかるが,のちに智恵子を失った苦しみを完全に克服する」ドラマが描かれている。

 二人が結婚(事実婚)したのは光太郎31歳,智恵子28歳のとき。智恵子は45歳ごろに統合失調症を発症,52歳で亡くなる。光太郎55歳。「智恵子を失った苦しみを完全に克服」した,組曲の終曲「元素智恵子」は光太郎62歳頃の詩らしい。智恵子を愛し続け,そしてその悲しみを独りで昇華する。

 

 演奏は一瞬も聴き逃がせない気迫こもったものだった。特に新実先生が一度書いたものが気に入らず書き直した「元素智恵子」は,タイトルといい詩の内容といい歌唱といい,圧巻の素晴らしさだった。理科系的にも,亡くなった人の元素の一部が自分の成分になっているというのは納得*

* 「コロンブスが海にコップ1(180mL)の水を捨てた。目の前の海からコップ一杯の水をすくうと,コロンブスのコップに入っていた水の分子は何個入っているか」という有名な問題がある。答は約800個。多いか少ないか()?

 

アンコール

今回のメンバーは一度もワグナーを歌っていないそうで,第4ステージの弦楽オーケストラが残ったこともあり,ヴェーゼンドンク歌曲集から佐藤先生の編曲で「Träume()」。

 

客演の浜田先生は,スゥエーデンの作曲家Carl Leopold Sjöbergの歌曲「Tonerna(調べ)」をご自身の編曲で演奏。

 

学生指揮者の田中さんは,湯山昭作曲の男声合唱とピアノのための「ゆうやけの歌」。1976年の崇徳高等学校の委嘱作品で,全日本合唱コンクールでも歌ってみごと2位金賞を受賞。「黒い歌」を力演した1位の神戸高校,ケルビーニのレクイエムOffertoriumを同じ高校のオーケストラ部伴奏で演奏した3位の福島高校,これら金賞3校の演奏に度肝を抜かれました。

 

アンコールと言いながら89分の長大な曲,びっくりしました。ワグネルのホームページによれば,9月末に会津若松市で開かれた「ゆうやけの歌フェスティバル」で歌われたそうで,なるほどの完成度の熱演でした。

https://www.wagner-society.org/archives/4798/

 

1979年に会津高校も全日本合唱コンクールでこの曲で優勝され,その時のピアニストが当時高校2年生だった佐藤先生。写真はこちら(http://aizu-bunka.jp/fugado/wp-content/uploads/sites/2/2015/07/c996f688f50a6dc5ed9220a735f71c9b.pdf)。私もこの演奏の「カセットテープ」を愛聴しました。

 

さて,今回はやたらと「70年代」を持ち出しました。自分が合唱に打ち込んでいた時期であり,また大学は学園紛争の傷(部員減少)が癒え,人数が増えレベルが上がり,新しい曲も増えて誠に活気ある時期でした。今回の定演を機に,ワグネルや日本中の合唱団がコロナ禍を耐え,再びあのような活気を取り戻すのではないか。期待し,そうあることを強く願っています。

 

以上