7. Freie Kunst (自由の歌)
作詩 ウーラント
作曲 シュトウンツ
ここまでのドイツ語曲は合唱をしない人にも知られていた曲がほとんどだったが,ここからしばらく合唱人以外には知られていない曲が続く。
この勇ましい曲を作ったシュトゥンツとはJoseph Hartmann Stuntz (1792-1859)のことで,スイスのArlesheim(アーレスハイム)に生まれた作曲家にして,合唱の指揮者・指導者を務めた人。ウィーンで音楽を勉強し,ミラノやベニスの歌劇場向けにオペラを何曲か作った後,ミュンヘンに落ち着いた。ちなみにウィーン時代の先生は,舞台やオペラの「アマデウス」でモーツアルト暗殺の黒幕とされたアントニオ・サリエリ。1826年には宮廷の首席音楽監督となり,オペラや宗教曲を作曲しそこそこ成功した。本領はポピュラーソングで発揮され,彼が活動した頃はドイツ男声合唱の黄金期とも言える時期で,Mendelssohn,Kreutzer,Silcher,Zöllnerなどとともに活躍した。
作詞のウーラントとはJohan Ludwig Uhland (1787-1862)のことで,シュヴァーベン地方の出身。詩人であると同時に法学者・政治学者でもあった多才な人で,様々な分野に関心を示し,ドイツの古い民謡・伝説・英雄叙事詩を発掘するとともに,自らもロマン主義的な抒情詩や「市民的世界への内的・精神的推移を表した」詩をよんだ。Freie Kunstは彼の最も有名な詩の一つで,1813年に出版されたDeutscher Dichterwald (ドイツの詩の森)に収録された(図はドイツ語版wikiより)。
内容は,ドイツ人に対する特別な贈り物としての詩を賛美し,古い伝統や偽科学に縛られることのないロマン主義における自由な芸術を歌い上げているらしい。Stuntz以外に Felix Mendelssohn-Bartholdy , Christian Schulz , Friedrich Schneiderらが曲をつけた。最初の「Singe, wem Gesang gegeben」,つまり「歌え,歌(の才能)を与えられた者よ」は特に有名で,ドイツでよく使われるフレーズになった。
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Stuntz がこの曲をいつ何のために作ったのかははっきりしない。作品リストには同曲に6種類の楽譜が上げられているが,LiederschatzやLiederbuchのような曲集である。彼名義での単独の合唱曲集は出版されなかったのかもしれない。別の資料でこの曲は「Tübinger Liedertafelの手稿譜」とされており,これが後に曲集に収録されたのだろう。
Liederschatz版の楽譜には,タイトルの下に「Melodie des Walhallaliedes (ヴァルハラの歌のメロディー)」と記されている。ヴァルハラとは北欧の神オーディンの戦士のための宮殿が有名だが,歌詞の内容と合わない。この場合はドイツのバイエルン州にある,ドナウ河沿いにルードヴィッヒ一世が建てた「ドイツの栄光の神堂」と呼ばれる神殿のことであろう*。この建物は1830~1842年に建てられたため,作曲されたのはその頃ではないかと思われる。実際,このメロディーにHeinrich Weismanntが詞をつけたFestmarsch (祭りの行進)という曲の楽譜に「作曲は1830年,作詞は1838年」と書かれた版があり,1830年に作曲された可能性が高い。
* Walhallaはドイツ語だが,wikiによれば元は「古ノルド語でヴァルホル(Valhöll、戦死者の館)」という意味。この神殿にはドイツ史上の有名人が祭られている。
日本でも古くから歌われていて,1905年(明治38年)に出た「教科統合 少年唱歌」の第8編に収録された「皇祖」はこの曲に大和田和樹が作歌したもので,「日向国より 波路をしのぎ」と神武天皇・神功皇后を歌っている。
1920年(大正9年)に慶應ワグネルが「自由な芸術 (シュテンツ)」として歌った記録があり,こちらはタイトルからするとドイツ語,または,きちんとした訳詞で歌われていそう。グリークラブアルバムには「旧制の第五高等学校には『フライエ・クンスト』という男声合唱団があって,この曲を団歌にしていました」と書かれている(同団は現在は混声合唱団)。日本語訳の楽譜として,夏目利江(柴田南雄)訳の「自由の歌」,内田伊左治訳の「若き日の歌」,飯田忠純訳の「詞林賦 (しりんふ)」がある(「自由な(る)芸術」というタイトルの楽譜もあったのかもしれない)。下記にまとめて譜例を示す。
右下の「酒ほがひ」は,その他のStuntzの曲として,最も古く日本に紹介されたもの。小松玉巌が1909年(明治42年)に出した「名曲新集」に載せた。「阿古屋の珠を 溶きたる酒は のこさで汲まむ」という酒飲み歌であるが,相当する合唱譜が見つけられず,Stuntzの原曲名は不明。
(2019年7月22日追記)
昭和14年(1939年)に新興音楽出版社から発行された「近衛秀麿編注 新興 合唱名曲集 明本京静作詩」には,「うたへ若人」としてこの曲が収録されている。
この曲集は,当時よくあった女声・混声・男声合唱曲の混成曲集で,男声合唱曲と明記されているものは全28曲中8曲。この曲を含む何曲かに詳細な演奏上の注が付いているが,おそらく近衛ではなく,男声合唱団のポリヒムニア・コール等を指揮したことがある明本によるものだろう。
なお,京大合唱団は,「京大合唱団70年史」の中で「昭和10年(1935年)12月7日の第4回定期演奏会にて,シュトゥンツ作曲『歌へ若人』を京大合唱団の団歌とした」ことを記している。曲集の出版より4年早く,独自の訳詞か,明本訳の楽譜が出回っていたのか,定かではない。
(この項以上)