寝ている間に

わりにいろんな夢を見るほうだが

目が覚めてしばらくすると

たいてい忘れてしまう。

こんなような夢をみたなあ、というアウトラインは残っていても

10分もしないうちに内容の詳細と印象度合いが

どんどん薄まっていってしまうのだ。


昨夜も夢をみた。

朝、目が覚めたとき

「この夢は、絶対に記録しておきたい!!!」

と、強い願望が湧いてきたので

とにかく忘れないように

何回も何回も思い出しながら

なんとか今の時間まで記憶にとどめることができた。


夢の中で

私は東山線に乗っていて

ある目的地へ向かっていた。

終点のひとつ手前に本郷という駅があって

そこで降りる予定だった。

会社の人とか、なぜか中学校のときの友達とか

たくさんの人と一緒にそこへ行き

何かに参加する予定だった。


ある駅で、まわりの人が降り始めたので

なんとなく私もいっしょに降りたのだけれど

降りた駅のホームを見渡しても

「駅名」がどこにも書かれていない。


腕時計の時間を見たら

本郷に着く予定よりも10分早い時刻。


「あー、間違って早く降りちゃった。」

と気づき、次に来た電車に乗った。

「予定時間に遅れちゃうなー。困ったなー」

そんなことを考えていた。


今度こそ、ちゃんと本郷で降りなくちゃ

と思ったのだけれど

次の駅も、「駅名」の表示が全然ないのだ。


不安になって

地下鉄職員と思しきひとに


「さっきの駅はどこだったんですか」

と聞いてみた。

「仁岡ですよ」と職員のひとが教えてくれた。


えーー、仁岡なの???

さっき降りたときすでに

本郷をとっくに越してたってこと??


現実の名古屋の東山線は

藤が丘で終点で、その先なんて、ない。

もちろん職員の人なんて乗ってないし

だいたい、仁岡って、なんじゃそれ?


と今思うと、しきりに不思議だが

とにかく夢の中ではそういうことなのだ。


折り返しの電車を待ちながら

あー、さらに遅刻になっちゃったなー。

最初に降りたとき、

自分が「今どこにいるのか」

ちゃんと知るべきだったなー。


というようなことを考えていた。

というところで、目が覚めた。


目が覚めて

自分が見た夢の意味が

今日はものすごく気になった。


駅には「駅名」が表示されいない。


まわりの流れといっしょに、つい電車から降りた。


時間をみて、「この駅じゃなかった」と判断した。


その時点での居場所を確認せず、また電車に乗った。


それによって、もっと遅れることになってしまった。


なになになに?

どういう意味なんだろう??


夢の解釈と

タロット占いって

似てるかもしれない。


示唆から、自分が読み取らなくてはいけない、

感じ取らなくてはいけない。

だから、聖書も書き方が示唆的なのかな。

聖書、ちゃんと読んだことないけれど。


人生は、早すぎても遅すぎてもいけない

「時期」があるんだ、きっと。

時期というよりそれは

ジャストな「判断」のことかもしれない。

自力で何かを判断しようとすると

さらにハマってしまう。

自力で正しい判断は無理なのだろう。

駅名はどこにも出ていない。

だから、それを知っている人に尋ねることが

私がとるべき唯一の方法。

ってこと?


自分で考えるな。

天の声、天使の声を聞いたほうが

カタイよ。

と、今日も言われた気がする。

ミカエルは地下鉄の職員だったんだ。








誰かに向かって話すとき。

特に、何かのアドバイスだったり

励ましだったりするとき。


相手のひとに向けての言葉なんだけれど

よーく後で考えてみると

「それって、まるっと、自分に向けて言ってるんじゃないか」


みたいに思えるときがある。

最近よくある。

先日も、久々に友達からメールが来た。

と思ったら

「今月で会社をやめる。先のことは、なんにも決めてない」

と書いてあって、ちょっとびっくり。


「自分にとって、最もぴったりなコトを引き寄せるためには

 いったん自分を空にすることも必要なんだよね、きっと」


みたいなことを書いて返信してみた。


返信したのだけれど

自分で書いておきながら、あとで


「いったん自分を空にすることが必要・・・ね、空にすること・・・」

という部分が

みょーーにやたら心に響いた。

そしてその後、プライベートで

まさにそんな選択を迫られる事態も起こった。


いや~、人に向かって話してるつもりのコトって

実は自分に言ってたりするのかな。


というか

他者に向かって話してる内容の中に

こっそり天使が「私向け」のメッセージを隠しているのかも。

きっと「自分」向け「他人」向け、なんて区別は一切なくって

自分が聞く、自分が言う、そのすべてが


自分へのメッセージ、なんだろうなー。


まず自分を空に。

なんか、今そう想っただけで

ちょっと心がすっきり片付いたような気になるのは

気のせい?


よし、今週末は

家の押入れの整理だ!





会社で配布されたグループ報を読んでいたら


「ぶれない」


というタイトルの本の書評が目に留まった。

著者はあの平山郁夫先生。


書評の丸写しになっちゃうけど

気になったので全部書き留めてみることにする。



20代半ば、著者の苦悩は「何をやりたいかわからないこと」だった。

広島での被爆とその後遺症、

生命の危機感と絶望の日々。


そんな著者を突き動かしたのは

自らの生きた証を残したいという

強烈な創作意欲だった。


名作「仏教伝来」はそうした苦境下の渾身の跳躍から生まれた。

それから半世紀。

著者はその「ぶれない」人生をいかに生きたか。

淡々とした語り口の中にも著者の不屈な意思が響いてくる。


「プロとして仕事をやっていこうと思うのなら

 ある時期は死ぬ思いでやらなければ大成はしない。

 つべこべ言わずにあれこれ考えずに

 とにかく目的地まで行ってみることが大切」だと。


ぶれない人生を貫くには基準が必要だ。

著者の生き方の基準は


「美しいかどうか」。


美術だけではない。

美しいものには力がある。

生きものは美しい時ほど盛んに生き栄える、と。


流されず迷わず生きるための指南書。