毎日、毎時間、毎分、ひょっとしたら毎秒、

人生は何かしら選択の連続だ。

選択の積み重ねが人生、っていう言い方もできる。


朝、何を着ていくか

どの仕事から手をつけていくか

昼ごはん、何を食べようか


そういう細かなところから

明らかに人生を左右しそうな

大きな決断をせまられる局面まで

いろんな選択がある。

そして迷う。


結婚しちゃって大丈夫だろうか

会社をやめてしまっていいのだろうか

そういう、わりに大きめのできごとだったりすると

ことさら迷う。


こっちを選択をしたら

こういう可能性とリスク、そして

反対を選ぶとこうこうこうで

と自分の持てる限りの判断力を総動員して

あれこれ考えてみるのだが。


それでも、「こちらの選択で間違いない!」

という確信はやはり持てなくて

最後は占い師の方にみてもらおうか、というハメにもなる。


今日ふと思ったのだけれど

そういうときは、きっと

左を選んでも右を選んでも

結果に大差はないのだ。


左を選んでも、左なりの

ウレシイ出来事とそうでない出来事。

右を選んだら、右なりのそれがあるけれど

どちらを選んでも

選んだ時点の私の心を映し出すだけだから。


何かを選択する場面で

私がするべきことは

右か左かどちらがいいかを

あれこれ考えることではなくて

縦に向かう軸、つまり

今の心のレベルを続けるか

頑張ってもう少し上へ引き上げる努力をするか

ここに意識を集中する、

そこなんじゃないかと思うのだ。


右か左かを迷うことに費やすエネルギーを

ぜんぶ、自分の精神レベルを上げることに注いでみる。

そうすると

結果的には、右ととか左とかで迷ってシミュレーションしたときには

思いもつかない形で

自分にとってウレシイ結果になるんじゃないか。


離婚や別れを経験したとき

いったいどの時点の選択が間違っていたのかと

ずっとずっと遡り

結論として付き合い始めたこと自体ががいけなかった?

という結論になったとする。


でも、相手が変わっても自分が一緒だったら

形が変わるだけで

何かしらの気づかされる作用が自分に戻ってくるだろうから

とにかく「何を選ぶか」というのは

大事な問題ではない気がする。


右か左かの2次元の世界から

意識という3次元の軸に目を向ける

というカンジだろうか。


ああ、でも

こういう内容の考えは

今までだって何度かアタマをふ~っとかすめていたような気がする。

かすめては、そのまま消えていった。


書き留めて心に残す。

読み返して心に刻む。

こういう作業を繰り返さないと

自分自身の実となっていかないんだよなー。





仕事も休みの日も

ここんところ、とても忙しくなった。


思えば、この8月と9月、

会社の仕事が死にそうにヒマで

かと言って、何かすべきことを探して取り組む、という気にも全くなれず

しかし、今思うと

本当にそういう強制的内省的にならざるを得ない

シチュエーションというのは

ほんとにほんとに貴重だ。


ブログに自分の気持ちを

書き記すようになって

以前だったら、ふわあ~~っと

忘れてしまっていたであろう

いくつかの自分にとって「大事なこと」も

整理して、しかも時々読み返すようになって

心に刻まれる度合いが深まったように思う。


今日、ちょっとこれは刻んどきたい、と感じたのは

ま、改めて言うことでもないけれど

「感謝するチカラ」だ。


何があったときも

何が起ころうとも

そのとき自分に与えられているものは

絶対に何かしらあるわけで

それがひとつもないってことは絶対にないわけで

その与えられているものに

「ありがとうございます!!!」

と感謝さえすれば

心の中に、そこはかとないシアワセ感が漂う。


何かしら不満が多かったり

落ち込んだりするときというのは

きっと間違いなく

「何にも感謝してないとき」なんじゃないかと思う。


感謝する気分でないときでも

無理やりでも

「感謝」を思い浮かべると

なんか少しいい気分になれる。


感謝ってありがたいな~

ありがとう、感謝さん。

何かちょっとヘンだけれど、まあいっか。




いろんな考え方があると思うが、

ひょうっとしたら人生で起こるできごとは

すべて決まっているという気もする。


ものすごく前に話題になった

アガスティアの葉。


誰それと誰それの間の子として

いついつに生まれ

いつに結婚し、いつに死ぬ、

という一連のことが

一枚の葉にすべて刻まれているという、その葉。


当時一緒に仕事をしていたカメラマンの方が

しかるべき筋の方に頼んで

その葉(自分の葉)に書かれている内容を

見てきてもらったと言っていた。


当時私なりにとても興味があったのだが

原本はサンスクリット語か何か(何だったっけ)

そういう言語なので

いったん英語に翻訳してもらい、

それを和訳するから、ちょっと時間がかかるんですよーー

とそのカメラマンの方に言われ、

結局その後お会する機会がなぜかなくなってしまい

今日に至っている。


しかし彼は、ご自分の寿命については

すでにご存知でいらっしゃったようで

「僕は、どうやら76歳らしいんです」

と言ってらしたのを

今でも憶えている。


ちょうど一回りくらい上の方だったので

私がもしそれなりに長生きをし

64歳くらいになったなら

そのカメラマンの方の消息を

それとなく探ってみたくなるかもしれない。


そうそう、それで

一生の出来事が決まってるかもしれない、

ということについて

最近思うのだが

「出来事」自体は、たいした問題ではないかも、

そんな気がするのだ。


ただ、同じ出来事に対する

自分の感じ方、感じ方を通じての「体験」、

そこは

自分の想い様で

100通りにも1000通りにもなる。


だから出来事は決まっていても

「人生としての体験の質」

が、想い方ひとつで

ピンキリの違いが出てくる・・・・・・

そんなカンジ??と

今朝、ふと思った。


現実は、解釈なのだ。


先の出来事が、もう決まっちゃってるとしたら

ある意味、何も案ずることはなくなる。


だって、決まっちゃってるんだから。


どんなことがあったとしても

楽しい思いで、その人生を過ごしていける。

どんなことからも

そのつど、そこから気づきを得ていける。


そんな心を・・・・・・・・めざすぞー音譜音譜