倭族の連合国から日本国への覚え書き | 東之宮古墳 発掘写真集

東之宮古墳 発掘写真集

犬山市 白山平 東之宮古墳 覚え書 (前方後方墳)

 日本という国号、朝鮮半島・三国史記によれば 新羅・孝昭王7年(698年)と703年・聖徳王2年。日本国使 新羅への来訪を記載。  

 日本側書籍 続日本紀での新羅・考昭王崩御への日本側使者の帰国記事が704年。 

 三国史記は中世に出現した書籍ではあるが、日本の書籍の存在から 日本という国号の使者が新羅に来訪し帰国した事が確認できる。

 

 一方 中国史書 旧唐書(945年成立)と新唐書(1060年成立)

旧唐書では倭と日本は別種、日本は小国、倭国を併合した。

 新唐書では、宋代に中国に来訪した日本僧奝然がもたらした「王年代史」という歴代天皇王統譜と漢書などを参照し、倭が日本国へ連続でつながる国家感で理解した宋「960~1279」にならい、新唐書も、倭と日本は別種という認識が無い。 

 倭奴国は 後の日本国という記載すらしている。

 

  時系列的には 隋と唐の時期のいつかが 日本国成立の時期であり、10世紀に、すでに神武が上書きされた王年代記を持ち込んだ日本僧は見事に、天武と桓武の配下のβ群に騙されていて、神武以前の筑紫王権を王年代記に書き加えて、中国と同等以上の歴史の古さを演出、彼は 宋という中国を騙し終えた。と言えるのではないでしょうか?

 

 日本国の成立時期に近い中国史書は  明白に、倭と日本は別種と記載しており、倭と日本は 別けて考えねばならないようです。

 

 藤原氏が天皇家へ女性を送り込み実権を握っていた平安期の支配者の都合が、日本僧の持ち込んだ王年代記には反映していると考えるべきであり、桓武の焚書行為もこうした視点から考えるべきなのでは ?

同じモンゴロイド系でも DNA上は異なる支配者の交代が有った。

 

 契機は 白村江の敗戦(663年)、それに伴う 中国2000名の倭国への進駐軍。

進駐軍は 周・則天武后の命名で日本国へ 国名変更。

 百済支援とその再建を目論んでいた弘文天皇の影響を排除、天武のクーデタ―を支援した。

 

 進駐軍来日後、これ以降 日本の支配システムは(神祇官が併存する)日本式の律令制に。

律令政権 当初は人民の個別支配、後に土地への課税。 

 

古墳時代を停止させたのは 孝徳天皇/天智系。薄葬令

天皇の墓を八角形にしたのは 彼ら 帰化系DNAの支配者層

 

 印旛の龍角寺浅間山古墳という終末期の前方後円墳の存在から、上記 帰化系ヤマト支配者は、千葉・印旛を完全掌握していない。

 全国に多数ある 文献に出てこない古代寺院、その造営主体は古墳時代後期以降の在地支配者。 

彼らは 律令・戸籍調査でも奴隷を手放しておらず、かかる寺院は奴隷確保への抜け道であった。 律令政府は奴隷制を禁止していても、実態は奴隷制が温存された。

 それどころか 東大寺の維持で 時の政権は日本各地に奴隷の供出を求め、岐阜の郡司が奴隷を供出し、その女性奴隷が逃亡し捕まった事が文献として残っている。

 

律令期

 在地支配者は 奴隷制を温存したがり、律令政府は名目、奴隷制廃止とは裏腹に 政権内には奴隷制を支持する殿上人がいた。

 すなわち 進駐軍の意向とは 真逆 奴隷制の維持を希求する勢力を 排除できなかった。

 

 庶民はどの様に 死骸を処理されたのか?

   庶民は 誰の所有する煮沸用途の鉄鍋で 食事を与えられていた

   のか?    古墳時代前期の甕・鍋 その後 著しく減少

   庶民の所有する煮炊きの道具は 律令期どの程度出土するのか

 庶民の家 関東などの様に 未だ竪穴式住居。

  一方 西日本では、どのような建物で過ごしていたのか?   

 平地式住居 出土数が不足?  しているのでは?

 

 21世紀 地方の若者は 都市部に集合させられて(地方では望む仕事に不足)、都市的生活。 実態は マンションと称するコンクリート製ウサギ小屋。 彼らの生活環境で 結婚をしろとか、子供を産めという政府の意向は 実態から乖離している。 

 国鉄解体・電電公社解体・郵政民営化のもと、不当利益を得た人々が 世襲制・身分制度化を推し進めている。 

 当然 ウサギ小屋居住者は 小さな物音に注意喚起、(不用意な大音量はトナリの人からは迷惑) 自宅で本格的ステレオ音声再生など望めるはずもなく、ヘッド・イヤーフォンで 糊口をしのいでいる。 反作用のごとく J-popコンサート 大音量の嵐。 定位すら判らないチープな音質で満足している。

 1960 ~70年代の日本映画やテレビ 庶民の家庭背景では ステレオ装置が写っているが、21世紀、大音量はコンサート会場。自宅では イヤーフォンの生活スタイル。

  仮に

21世紀の若者の部屋を後世の人が発掘した時、そのあまりの貧弱さに驚くのでは?

 人の消耗品的 隷属関係を 日本の住宅環境に見るのでは? 

それほど゛ 若人は、結婚へのハードル・子供の誕生を 阻害されている。

 

 そして 地方の居住区 ワンルームアパートには 多数の技能訓練生という 海外からの人々が居住している。 人買いの存在は 21世紀の日本も 米国やドイツと同様に 隠れた奴隷制許容社会。 

 

 一方 日本古代 古墳時代からの奴隷制許容社会へ 乗り込んだ唐の進駐軍は 在地支配者の奴隷保有をなかなか解消できなかった。 彼ら支配者層の中に 後期古墳時代からの支配者も紛れこんでいて、彼ら旧主派の抵抗は長期に及び、鎌倉後期の自然災害・飢饉・餓死の中で奴隷制は復活を遂げている。  日本の考古学が 室町期の社会システムに無関心を装うのは、学者の生きる術。

 耳に心地よくない事実は伏せる のが処世術と心得ているからと想定している。

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