神武東征上書き説 仮説提示 1 と 2 | 東之宮古墳 発掘写真集

東之宮古墳 発掘写真集

犬山市 白山平 東之宮古墳 覚え書 (前方後方墳)

 2021年3月12日のアメーバブログにて

【白昼夢 日向/倭族の東征 私案】 から書き始めた 神武東征・上書き説は、考古と同時期文献に神武という人物の存在が確認できず、思考停止状況でした。

 

【神武天皇の歴史学】著者、外池 昇 講談社2024.1月15日、

という書籍、この本で 近現代の産物である神武天皇陵 改めて再確認をする事が出来る 良書でした。

 この本を読み 改めて、やはり 記紀の刷り込み情報から離れた、より精度の高い建国の時期・歴史を知りたいという気持ちが再燃。 

 

 誰しも 建国を、神話ではなく 歴史として、戦前のような国家神道という宗教のフィルターからは解放された 真実を追求をしたいものなのではないでしょうか ?

 他国侵略への誤った正当化というキケンな落とし穴からは 距離を置きつつ、真実を探る、そうした探求心。

 思考への自由を確保したい。という思いが沸き上がってきました。

 

明治以降 各地域の多神教・在来神道に対して国家神道化 の弊害

 明治政府(戊辰戦争の勝者)が、天皇制を利用して、富国強兵政策で 他の東南アジアのような欧米からの植民地化を防いだ。

当時の状況判断としては、評価できる政策。

 残念ながら、間違った歴史教育を実施。古代の日本は、新羅・百済という半島国家からの貢ぎ物・融和政策を 中国の中華思想に倣い、属国的歴史記載で、朝鮮併合わ正当化 更には満州国という傀儡国を作って 日本兵の送り込み。侵略戦争で利益を狙う軍事産業を育ててしまった。

 一方、政府による 国家の統帥権は名目 天皇。

政府は 天皇決済で 海外侵略する権を得て ほどなく朝鮮出兵。

 

宮内省は 多神教の神祇信仰を 国家神道へ統合化。

 廃仏棄釈と各地神社へのランク付けは、 宗教の自由を奪い、天皇を現人神とする、祭政一致、そうした社会システムへの先祖返りは 歴史後退。

 この祭政一致は、国体護持・防衛という名の 他国侵略への口実として寄与。  

現人神・天皇という一神教化は 多くの仏教徒や半島・台湾籍の人達を 皇軍として 戦地へ赴かせた。

 

敗戦後 

現人神から 戦後の人間宣言。 そして象徴天皇。

戦後の この体制・社会システム以降 日本は平和を享受。 

言論の自由というものは ありがたいものです。

 

 ただし 最近の皇室の取り巻きの一部 ウソの神武陵の参拝を 方向づけ。  

取り巻き達は 皇紀2700年時点で 再度 隠れた支配者に収まろうと画策している。

当然 女性天皇復活へは 足を引っ張っている、ジェンダー差別をする そうした組織。

 

 神社でも 神社本庁から離脱する神社も出てきました。

どちらが 平和憲法を守るグループなのか承知していませんが、少なくとも 神社内の建物の本当の建設年代を提示する神社は、歴史的には正しい態度の神社。 

 

 日本国という国号での建国

 倭国が国名を 日本に変えた、変わった時、タイミングは明白。AD700年前後。 参考文献 

1997年 吉川弘文館 日本国号の歴史 岩崎小弥太

 著者によれば 対外的初出は三国史記、新羅編 新羅王崩御への弔問使節への新羅側の記載で日本国使と。

 

 ただし 中国側史書 唐代の則天武后の支配時期664年~705年に関しての唐の書籍では、国号・日本は 彼女の命名。 

 白村江敗戦後の日本国への唐駐留軍と時期的には重なる。

 

 現在でも 中世出現の書籍に 振り回されて、戦前の教育を鵜吞みにしている一部の自民党員や宮内庁に生息する(旧お役人)達は、日本建国時期はBC660年という 刷り込み情報を信仰し、建国時期は 宮内庁の皇統譜の通り と、あたかも宗教的に信ずるグループが 日本再軍備の再来を希求している。

 

 


神武東征上書き説 仮説提示 2  

 米国映画 猿の惑星と似たようなオチが記載されている神武東征

中世期に出現する 日本書記・古事記では 神武が東征して ヤマトに侵入したが、奈良盆地は 同祖が かなり昔、すでに進出済みだった、という記述。

 

  この猿の惑星のような文面は、 

A 遠賀川式土器文化が 紀元前 奈良盆地へも波及、畿内で独自の

  土器変遷。

  奈良盆地への自然災害で弥生拠点集落の水没/壊滅/ゴーストタ

      ウン化 。  遠賀川式土器の持ち込み者と神武は 同祖、たぶん    

  同一の言語だったのでは ?

    弥生後期~古墳時代前期、台与以降 倭の五王まで、倭国連合

  は 奈良盆地や中国大陸との交流が途絶。 文化交流の途絶があ

  り、チクシ族のグループは古墳時代中期に東征 その反映とみ

  るのか?

 

B   ヒミコ期 倭国部族連合は市場監督官・大倭を 奈良盆地への派

  遣。 

  中国 霊帝期と同時期の自然災害で疲弊していた奈良盆地への

  再開発として、キビ・オワリ・イコマの民を 奈良盆地へ移住  

  させて河岸段丘への再開発、廃土は 古墳の墳丘に利用。

  職姓の大倭が 地名へ転じて オオヤマト古墳群が形成。

   倭国内の各部族が奈良盆地の再開発で順次乗り込み、埴輪の

  性格の変化はその反映とみれば 東征の時期は古墳時代前期。 

     

 

C   宋史の日本国伝 10世紀・日本の僧 奝然

  

ちょうねんが持ち込んだ 

 倭~日本の歴代オオキミ・天皇の系譜 「王年代紀」 

雍熙元年,日本國僧奝然與其徒五六人浮海而至,獻銅器十餘事,並本國《職員今》、《王年代紀》各一卷。奝然衣綠,自云姓藤原氏,父為真連;真連,其國五品品官也。奝然善隸書,而不通華言,問其風土,但書以對云:「國中有《五經》書及佛經、《白居易集》七十卷,並得自中國。土宜五穀而少麥。交易用銅錢,文曰『乾文大寶』。

 

この 王年代紀 ウィキペディアでは 

【 天御中主から彦瀲尊まで23世と神武天皇から守平天皇(円融天皇)まで64世の系譜が述べられる。釐王甲寅の年に神武天皇が即位したと記すが、『日本書紀』では即位は辛酉の年であり、甲寅は東征開始の年である。どちらも周の恵王の時代に当たる。聖徳太子が年3歳にして10人の言葉を聞き分けられたという逸話も紹介している。当時は歴代に加えられていなかった弘文天皇淳仁天皇のうち、弘文天皇は記されていないが、淳仁天皇は「天炊天皇」と記し、神功皇后を「神功天皇」と記して歴代に加えているため、円融天皇を第64代とする現在の数え方と一致する。】 ウィキペディア文面 閉じる

 

 天御中王から23世の筑紫を王都とする「ヒミコの存在がふれせられた九州オオキミ」王統

 

また 神功天皇(皇后)の夫である仲哀天皇が活躍する地域は北部

州地区。この仲哀記に 日向攻略が記載されており、       筑紫王権の支配エリアがようやく宮崎まで広がった、と読めます。 

ただ、現在の宮内庁の提示する天皇系図・王統年代記とは いたるところで相違。

 当然、宮内庁の根拠、中世期の改変が想定できる記紀よりは 宋代(AD960~1297年)の 日本・東大寺僧のほうが 時間軸的には近く、大和政権以前に、筑紫に先行する政権(王統)が有ったと 【王年代記】記載。  

 

 この事から類推できるのは 未だ 倭 部族連合の時期。

奈良盆地は各地倭系の部族が順番で 災害復旧・再開発をした。

 一時的に 大国主・出雲族に 奈良盆地のヤマトは支配されて後、国譲りで オオヤマト・崇神 朝が政権掌握。 

並立して 筑紫・部族連合国家が存在。

 

10世紀の日本人僧は この筑紫政権の王統譜を提出。接ぎ木としてオオヤマトの王名、更に 彼の立ち位置 日本国という新国の系譜を接ぎ木した。

 

また 出雲は一時的に筑紫の指示を仰いでいた。 

出雲の領域は広く 東は越と接していた。

オオヤマトは出雲を支配下に収め後、筑紫政権のレガシー 玉・剣・銅鏡の複製コピー品を拡販する事が出来た。

 銅素材・鉄製品やその素材は 輸入品につき、海外からの船舶の船着き場所は 季節風にあおられてランダム、日本海側のどこかに船は着岸した。

オオヤマトの販路は 周辺の在地支配者。それら葬具は 復元品・コピー品であった。

 この時期 オオヤマトが準備した葬具用途の品々 埴輪・墳丘祭祀・散布用途の土師器・石槨内の銅鏡は、国内製 復元コピー品だった。

 

 20~21世紀の日本統一教会が 宗教布教と抱き合わせで販売する壺や教祖の著述書籍販売などと 類似した支配システムを 古代のオオヤマトとその後の奈良勢力が布教活動した。

 

 

記紀では 景行記にヤマトタケルを上書きして 畿内政権の巨大性を演出。

しかし つぎの天皇 仲哀や神功天皇は 北部九州から中部九州への支配王。

 

仲哀や神武や応神は 北部九州に王都を構えたオオキミ。

甕棺の製作過程で木を伐りすぎて 自然破壊(ハゲ山)的様相を呈していた北部九州から 球磨や八女や宮崎・ヒムカへ武力侵攻する一つの目的として 木材資源確保があるのかもしれません。

 「知多半島 中世・常滑焼で 大木皆無。 朝鮮の陶磁器も同様に半島をハゲ山化。」

 

 エジプトがヨルダンへ木材を求めたのと同様、神武的武人は 日向で船舶建造、そして そこから出航した。 

 

 

  

 

仮に Aだとしたら 宮内庁の 天皇暦年/神武BC660年に近づき、皇国史観論者にとって 愛でたしメデタシ、なのですが 考古的に神武が未発見。 土器の伝播は 国家成立の最重要事案ではない。

 王権維持への道具は 土器に非ず。

一般論からは鉄器の生産が契機で 武器と農耕具の鉄利用が生産力と他地域への侵略を容易にして、古代国家が成立する。
 

 

 Bだとしたら、神武的存在の武人が奈良盆地の攻略に派遣されたのは、AD248年以降、以前 同族が派遣されていたという記憶が喪失してから、ある程度の時間が経過してからの話。なのでは?

 

 海外の新石器文化で 墳墓の出現は 首都・王都に先行。この事例が多く、マルクス的 余剰経済(人の集合と統治システム)を前提に古代国家が成立する訳ではなく、 何らかの理由で 墳墓が形成され その墳丘構築への人の集合と食料手配のシステム化が逆に 国家成立の契機となった。 奈良盆地の前期古墳に始祖墓と認識できる条件を備えた古墳が見当たらないのは この盆地が 墓域/農業再開発地だった。 

 

 記紀の神武東征の文面で見られる物質文明として 船の存在に注目すると 縄文期・弥生初頭に出土する丸木舟では 兵員運搬に無理があり、神武期記載の船舶構造は構造船に準ずる(準構造船)

 それは 北部九州から日本海側に、ランダム的に着船していた伽耶の鉄運搬船に近い構造の船舶という想定が可能。

 倭は鉄の見返りに稲米や生口などを対価として支払い。  

考古的に 神武的武人の東征 それは古墳時代中期の出来事。

そのように想定できるのでは?

 

 奈良盆地における埴輪の画期それは 器財埴輪・形象埴輪の出現。時期は古墳時代中期。

家形埴輪と船形埴輪を奈良盆地へ持ち込んだ集団が土器を厚手に戻し、奈良盆地の葛城地区に王権維持工房と方形居住空間を持ち込んだ。

 

 前期古墳時代 奈良盆地は正円を志向する前方後円墳の地区。方形周溝墓は廃れている。

一方 日本海側や北部九州は 方形墳墓や楕円の前方後円墳や四隅突出墳や双方中円墳など支配者層は墳墓、ただし方形周溝墓は残存。 東国は前方後方墳や前方後方形周溝墓の地区 その支配者層の周辺には方形周溝墓が囲んでいる。

 

 古墳時代前期中葉 奈良盆地へ 楕円円筒埴輪やヒレ付き円筒埴輪の集団が流入し その各々のルーツは 奈良盆地の外にあり、オオヤマト・大倭は 奈良盆地という災害疲弊地で、周辺地区から人を集めて土地の再開発。

 土地改良・再開発の実働グループ(古墳作業員)は、多岐に及んでいた。奈良盆地墓域説

 

 オオヤマトという市場監督官は、人集めの対価として 貝製腕輪を緑色石材に写したものや銅鏡のコピー品を 周辺 支配者層へ提供。

 一定期間 有効な 支配の道具だった。

 

こうしたコピー品の効力は 古墳時代中期、器財埴輪志向グループの奈良進出によって、一気に効力喪失。 

古墳被葬者への 使い捨て消費的物質から 墳丘上の儀式再現葬祭・一定期間残存の器財埴輪へ変化した。

 その道具立て として家形埴輪と船形埴輪を採用。

実際の支配者層の家屋と所有船舶の構造も大きく変化した。

 

 考古的に神武に関する物質は未発見。ただし奈良盆地 埴輪の構成変化や東大寺山古墳出土の家屋レリーフ太刀のように 支配者層は いままでの竪穴住居からの離脱。

 古墳時代中期、緑色腕輪型石製品やコピー銅鏡の大量消費後の副葬品停止が示すように 奈良盆地の支配者層の交代は かかる嗜好品の変化に反映しているのでは?

 

 縄文時代からの嗜好 緑色石製品から 古墳時代後期の金色製品嗜好へ 嗜好品が変わるのは 支配者層DNAの入れ替わりの反映。

 神武東征は 物質文化からは 古墳前期と後期の中間期、古墳時代中期の出来事。  

 

今でも  江上波夫博士の騎馬民族説は有効。

現代日本人 近畿圏に中国・北京周辺系統のDNAが多いのも その反映。 

 中国北朝に 胡族・北魏(代国)が侵入後、半島や倭国へ移民が増えた その移住DNAの反映と想定できるのでは?  

  文献的 移住記載としては 日本の白村江敗戦後、戦勝国・唐の日本への派兵2000名。かかる進駐軍のDNAも無視できない数なのでは?

 

 では 神武東征 記紀に上書きされた時期、 國學院雑誌の日本書記の研究成果を採用し 天武期。が妥当と考えています。 

 オオヤマト地区のハツク二シラスメ(崇神)を初代とする奈良盆地に侵入した神武グループは 葛城に方形居館と王墓と王権維持工房を形成。 

 それ以前のオオヤマト古墳群は 王都の形成ができておらず 造墓構成員の過多で 墳丘サイズが変動していた。 始祖墓は未成立。