揺りかごから墓場まで 布オムツから甕棺まで。 | 東之宮古墳 発掘写真集

東之宮古墳 発掘写真集

犬山市 白山平 東之宮古墳 覚え書 (前方後方墳)

 西欧の福祉政策を言葉で説明した時、《揺りかごから墓場まで》という言葉がよく用いられます。 当然 中間の学資支給や成人への福祉が準備され、引き換えに高負担の税が課せられます。

 

 これを弥生時代に置き換えると、北部九州の甕棺地区は、ある程度の成員への甕棺が準備され、成員の死後は甕棺が供される状況を見て取る事が出来ます。

仮に供されたのではなく 購入した もしくは親族が自作したのだとすると、甕棺の形状はバラバラのはずですが、甕棺は様式把握が可能で 地域差が成立しています。

 布オムツも もらえれば乳幼児育児中の女性にはありがたいと思いますが、有機物につき なかなか出土形跡の確認は困難、布オムツは仮説提示にとどまります。

 甕棺への供給体制は、成員の員数把握、死の確認への情報提供者。墓域の確保。事前の甕棺制作。と保管。またはモガリ期間中に制作の手配?

   当然、甕棺の自重は100kgほど、事前に 土の土取りと精製、そして燃焼用のマキの確保、焼成への工人。 生産地から死者の近くまでの搬送と墓壙堀り、そして甕棺埋納インサートと葬送儀礼。。

(もしくは墓域までの甕棺搬送と墓域での墓壙堀り、甕棺への死骸納入と墓壙への遺骸付き甕棺の埋納)。死者一人に相当数の人員が必要です。

 

 北部九州は その後 人口の増加から 土地の奪い合いという戦争が引き起こされ、甕棺で首のない遺骸や石製剣が刺さったままの女性リーダーの遺骸が甕棺から発見されています。

 この甕棺は 地区地区により形状が異なるのに、他地区の甕棺が出土している時期も存在していますが、可耕地不足からの対立が激化、甕棺供給体制も崩壊、甕棺墓制は停止してしまいます。

 ただし 自然災害・土石流や津波で埋没した地域とは異なり、戦争被害。 次の墓制を生み出しています。

 家族単位では 土壙墓・方形周溝墓が普及。 支配者層は 方形台状墓(土坑木棺)や前方後方周溝墓やその低墳丘墓。と平石組みのいわゆる石棺墓などを採用して、墓への格差が生じてきます。

 

 甕棺を展開していない他地区でも方形台状墓やいわゆる箱式石棺墓や四隅突出台上墓や方形墳墓が支配層で採用され、地域によっては前方後方墳や不定形の前方後円墳が採用され、つぎの 古墳時代へ突入してゆきます。

 

 さきほどの北部九州・甕棺供給体制の確立とは、その部族の組織化・社会システムの形成を物語る事例。

 これは倭国100余国の中でも特殊であり、他地区に先行して北部九州で戦争勃発。 

 魏志倭人伝に見るごとく 奴隷の記載がみられ、身分制度が確立しています。

 

 一方、中国・霊帝期の気候変動と自然災害は 当時の日本全体に及び、旧来の低地の弥生拠点集落、特に平野部や盆地平野部の環濠集落は 半ばゴーストタウン化。

 こうした廃絶遺跡の土層は総じて黒色化が目立ち、周辺の木々を伐採し 土の黒色化を招いた。と見ています。

 特に戦争状況での部族国家は、自然林保護を無視して周辺木々を伐採、結果としては山林の保水能力の低下。 悪循環により 洪水が多発。 洪水水没で居住が出来ず、より 高所への移住で 対応しています。

 問題はどの程度 人口減少を招いたのか?  

津山盆地や奈良盆地や愛知・朝日遺跡周辺や浜松・蜆遺跡でのゴーストタウン化が目立ちます。

 

 自然災害被災者への救済として たまたま奈良盆地に派遣されていた大倭・オオヤマトという市場監督官は、被災地オワリ・イコマ・キビの民を奈良盆地に集合させて、台地への開発が始まり、余剰の土は 古墳の墳丘に用いられいます。 そして 甕棺に変わり 高野槙を用いた木棺の供給体制が畿内で成立。 

 

 日本の古墳時代 葬儀用途の品目の供給や古墳造営ノウハウとそれに伴う組織化が 国家と統治システム形成の母体というユニークな展開が始まります。