ゆっくり、それとも速く? | トナカイの独り言

トナカイの独り言

独り言です。トナカイの…。

 幸いなことに60才を超えて、たくさんの方にレッスンを受講していただいている。ほんとうにありがたいことだ。
 そんなレッスン中、わたしがいちばん口にする言葉は「ゆっくり滑ってください」ではないだろうか?
 モーグルやフリースタイルスキーという経歴を持つわたしだから、「速く」 滑ることを要求されると思っている方も多い。しかしふつうなら、わたしはごく低速からレッスンをスタートさせるし、途中でもゆっくり滑ることを求めることが多い。

 それには理由がある。

 長いこと指導を続け、滑りを見ていると、そのスキーヤーの身体意識を感じられるようになってきたからである。うまい下手にかかわらず、その人が自分の躰の内側で、どのように感じているのかを、見ているわたしも感じるのである。
 そして、そんな身体意識はほんの少しスピードが上がっただけで、大幅に失われてしまうことが多い。

 テクニカルやクラウンプライズを持つ上級スキーヤーや本格的レーサーでも、スピード次元がある程度まで上がると、どうしても身体意識が薄くなってしまう。顔をゆがめてスピードに耐え、周りにいる一般スキーヤーへの気遣いまで失って滑るスキーヤーがいかに多いことか・・・・。
 レースの前やプライズ検定の前ともなると、たくさんの身体意識を失った暴走スキーヤーに出くわすことになる。

 だからわたしは、プルークでの練習を多く取り入れ、できるだけ正しい身体意識を生み出そうと考えている。プルークを嫌う人が多いことは知っていても、あえてそれをやろうとする。

 

 そんなレッスンを繰り返していると、一部のスキーヤーだけでなく、先を急ぐ人が多いことに気づきはじめる。あたりまえかもしれないけれど、より早く短時間に、できるだけ直線的に上達したい人が多いのである。

 


 

 わたしの経験からすると、スキー技術は大きな絵のようなものだ。
 たとえばその絵に描かれるのが白馬三山だとすると、ある人は山から描き始めるかもしれないし、ある人は空から描き始めるかも知れない。山から描き始める場合でも、白馬岳から始める人もいれば、杓子岳から描く人もいる。同じ白馬岳でも岩から描く人もいれば雪から描く人もいる。しかし、作品として仕上げるには、いったんすべてを描かなければならないのである。加えて、たとえ描き終わったとしても、「より良く」 を望む限り 推敲は永遠に続く。

 多くのスキーヤーが、自分の描き忘れたところに復讐される姿を見てきた。多くの才能あるスキーヤーが、プルークをおろそかにしてきたため、致命的な欠陥を持ってしまい、上級者になってからプルークに復習される場面に出くわしてきた。


 ほんとうの上達には、王道しか存在しない。
 それは苦手なところを克服し、得意なところを伸ばしていくというあたりまえの方法である。
 上達が止まったり、スランプに陥ったりしたら、必ず基本とか基礎とか呼ばれるところに戻り、一歩も二歩も下がって、そこに磨きを掛けるためにうんざりするほどの反復練習を繰り返すしかない。そうして努力を積み重ねているとある時突然、上達の女神が微笑んでくれるのである。

 

 現代社会・・・特に日本の現代社会・・・は基本を競争においていると思う。

 小学校から競争を背景にした学校に通わされ、テストとスポーツにおける順位付けに慣らされてしまう。
 GDPを上げることを至上命令にする社会と政治が、より早く、より効率的に、もっともっとを後押しする。
 資本主義社会だから、大多数の人にとって 「金(資本)」 が絶対だというのも真実なのかも知れない。

 エンデの 『モモ』 に描かれるように、灰色の男たちが利息という時間を奪っていく。
 それがスポーツの上達にも持ち込まれる。
 しかし時間に追われ、効率や利息に追われた仕事が、どれほどのレベルに仕上がるのか・・・・わたしには疑問が残る。
 

 若い頃の自分は 『詩』 と呼ばれる芸術が大好きだった。
 今でも目の前にヘルマン・ヘッセと立原道造、そして宮沢賢治の詩集が並んでいるが、永遠に思える時間のなかで詩に没頭したのは、いったいいつが最後だったろうと疑問に思う。
 かつて本屋に行けば、ずらりと詩集が並んでいた。いったい今、どれだけの詩集が売れているのだろうか。
 詩に没頭する時間は、わたしだけでなく、この世界からずいぶん昔に失われてしまったようだ。
 

 1995年にウインドウズ95を手にした時、これでたくさんの時間を省くことができると感じたものだ。いろいろな仕事を、ずっとずっと短い時間でできるようになると信じたものだ。
 それまで三時間かかっていた仕事が一時間で出来るようになった。しかし、そこで余った二時間は、いったいどこに消えてしまったのだろう。
 かつて船で何週間も掛けて行ったアメリカに、飛行機なら半日で行ける。でも、そこで余った時間は、いったいどこに行ってしまうのだろう。なぜなら昔より今の方が、明らかに忙しくなったように感じるのだから。

 詩を鑑賞できなくなった自分の感性は、正直劣化していると思う。

 ものごとを丁寧に見たり、感じたり、説明したりする力が失われるのは、レベルが落ちていると感じてしまう。
 同じことが、スキーというスポーツにも言える。
 一回のターンの中に、一つの世界を感じられるべきなのだと思うから。

 わたしはフリースタイルスキーで育ち、バレエ、モーグル、エアリアルという三種目の競技をやってきた。
 わたしがはじめた頃のフリースタイルスキーは、まさにもっと速く、もっと高く、もっと遠くに、というスポーツだったように思う。それこそ、人類の可能性を追求するようなスポーツだったと思う。
 そんなスポーツが成長した今の姿を見ると、昔ほど魅力的でないように見えてしまうのはなぜだろう。オリンピックのモーグルやスラロームを見て、それほど引きつけられなくなったのは、なぜだろう?
 そして、ふとスローモーグルという言葉さえ、胸に浮かんでしまう。

 単に自分が年を取ったのかも知れない・・・。

 もしかしたらスピード化が進みすぎ、自分の価値観や身体意識からスポーツが外れてしまったのかもしれない。

 わたしは十才から高校を卒業するまで水泳選手だった。そして今も。
 だから、競争という場に生きてきた。しかし、他人と争ってきたという意識は皆無である。
 やがて自分と激しく争って自分を傷つけ、自分とも争わなくなった。争えばどちらかが、もしくは何かが傷付くものだから。できれば 「和を求めた方がいい」 と信じるようになった。

 またもう一つ、大切だと感じていることがある。

 もし競争に参加するなら、「ルールがしっかりしていないと意味がない」 ということである。
 日本という社会は、ルールそのものがあいまいで、時に競技中にルールが変わることもあると言える。西欧の人たちは、自分たちが有利になるようにルールそのものを変えようと努力を繰り返す。しかし、いったん決まったルールには従うことが多い。だから日本の方が陰湿で、恐いと感じることもある。
 大きな組織で、これがしばしば起こるのを自分は見てきたし、それに巻き込まれたこともある。

 ルールがしっかりした競争なら、参加して全力を振るう価値があるのかもしれない。しかしそうでない場合、どう対処するのか。それが、あなたの真価を決める。
 

 人生そのものは競争ではないと、わたしには信じられる。

 生きることは、他人と比較することではなく、自分の中から生まれ出た要求を、どのように育て、それをどのように周りの命と組み合わせていくのか・・・・・・周りの命に影響を与えたり、与えられたりすることなのではないか・・・・・・と感じることがある。
 

 単純な目の前の勝ち負けにこだわりすぎると、ほんとうに価値あるものを失ってしまうことも多い。
 まず、このわたしは、ゆったりと詩を読むことから再スタートしたいと思う。