地域の「認知症カフェ」に母を伴って行く。

最近は、地域包括支援センター主催のこうしたイベントが増えた。

当日はケアマネさんを含めて8人程度。司会進行は地域のボランティアさんが引き受けてくれているようだ。

まずはわたしたち親子が初参加ということで、ひとりずつ自己紹介。

「お名前と、年齢は”だいたい”で結構です」と進行スタッフ。

そこで一同に笑いが起きる。

「だいたい”89歳”」とか「だいたい”76歳”」などという発言に再び笑いが。

 

場が和んだところで、指運動。

これには慣れとコツがあるらしく、長らくここに通っている人はスムーズな動きである。

わたしは認知機能というよりも、運動神経の問題か、おたおた。しょっぱなからついていけない。

察した司会者の女性が、「これはむずかしいんですよ~。むずかしいものはやめましょう」とさりげなく次のプログラムへ移ってくれる。

お次は、歌を歌いながら、お隣さんの肩を叩く運動。

昨今流行りのコグニションである。

歌と運動、同時に二つ以上の動作を行うことは、認知機能の衰えを防ぐにはいいらしい。

職場の保健所でも、跳んだり跳ねたりして経験した記憶がある。

歌自体は誰でも知っているようなもの、例えば「ふるさと」など。

ところが、動作はだんだんレベルアップしてくる。

気になってちらりと母の方を見ると、とんでもないところで、隣の男性の肩をバンバン叩いたりして「あら、あら」ととまどっている。

 

最後は、折り紙で作ったしおりや飾りをいただいてお開きとなる。

 

「また来る?」と母に聞いてみると「なんだかつまんなかったわあ」とポツリ。

そうかもしれない。何度も通って知り合いができてくるとまた違うんだろうけど。

とはいえ、無理強いはできない。

わたしも、どちらかというと、ボランティアとしてたとえば最後に渡す折り紙を手伝うとか、役割をもった関わりのほうが、やりがいがあるかもしれないと思った。

水木しげる氏の本を図書館で予約した。

ずいぶん前の新聞の特集に、「手塚治虫と水木しげる、あなたはどっち派?」 というのがあり、その記事を切りぬいたものが見つかった。

当時は断然、手塚治虫派で、「ブラックジャック」や「ブッダ」などほぼ全巻とりそろえて何度も読みかえしたものだった。

もちろん、水木氏の「ゲゲゲの鬼太郎」も、アニメとしてテレビで楽しんだが、あくまでも漫画のキャラクターとしての位置を超えるものではなかった。

今回、その記事を見て、どうしてか、彼の漫画を読みたいと思った。

”妖怪”とはつまり、生きている人ではない。そうかといって、死んでしまった人でもない。

生と死、その中間に位置するもの。

両者をつなぐ存在。生者未満、死者以上――。

そのことに惹かれるものがあったのかもしれない。

 

予約したのは「のんのんばあとオレ」「河童の三平」。

いずれも、水木氏の原点になる経験をもとにしたものだそうだ。

 

わたしが最近経験した死は、圧倒的な「無」であった。

徹底的に火葬されたからだには、魂の居所などないように思われた。

その記憶が、やり場のない恐れと絶望を生み出した。

抗うように、なにか身の回りで不思議なことが起きると、「今のって、霊魂が来たんじゃない?」などと言って、偶然のできごとと死者を結び付けて、何とか慰めを得ようとした。

彼の描く妖怪の存在は、そうしたナンセンスといえるような願望にYESを言ってくれるもののように思える。

 

お彼岸である。

母は足がふらつくと言うので、わたしひとりで、父の墓参りに行く。

足のふらつきもさることながら、母はお墓が苦手のように見える。父が姿を変えてそこにいるという事実に向き合うのが辛いようだ。

墓を購入する時に一緒にここにいた、元気な父の姿が彷彿とするのかもしれない。

今回は法要もなく、墓参りだけなので、管理事務所で雑巾とブラシを借りて、墓に向かう。

広々とした霊園だが、3回目ともなると、迷うことなくスッとたどり着く。

花入れにたまった水を捨て、新しい水に換える。そして、駅前で買った供花を挿す。

マッチをすって、束にして置いた線香に火をつけようとするものの、新盆の時同様、なかなか着火しない。次々とマッチをする。

「マッチ売りの少女」ならぬ、「マッチ売りのおばちゃん」状態である。

と、なにやら足元が熱い。見ると、すっては足元に置いたマッチにまだ火が残っており、それが供花を包んでいた紙に燃え移っているのだ。

あわてて足で踏んで消し止める。

アブナイ、アブナイ!

お骨はもうこれ以上、焼けないかもしれないけれど、燃え広がったら大変なことになるところだった。

つい、手元の線香にばかり気をとられていた。

慣れない場所で手順が狂うと、注意散漫、手抜かりが起きる。

つい最近、落語家さんの家のお仏壇から火が出たらしいが、これもお彼岸ということで、久しぶりの手作業になにか、油断があったのかもしれない。


新盆の時は猛暑でそれどころではなかったが、このたびはようやくの秋日和。

墓石や墓誌を少し見て歩いた。

最近は、「○○家」だけでなく、お気に入りの言葉が彫られた墓石も多い。

亡くなったかたの年齢もさまざまである。


3,40分ほどいただろうか。

果たして聞こえているのかどうかわからない父になんと呼びかけたらいいのかわからず、墓石をペチペチ叩きながら、「来たよ」「また来るね」とだけ言って終わった。


介護老人保健施設(老健)のデイケア見学に行く。

 

父と母は若い頃から、団体ツアーに参加して、いろんな施設やイベントを見学するのが好きであった。

そのノリからか、70歳を過ぎてからは、墓地や葬儀場、高齢者施設なども、そうとう数、見てまわったようである。

しかしあくまでもそれは「見学」であり、実際に「ここに決めた」から「こうしてほしい」という結論が出ずに終わった。

旅行とは違い、必要に迫られないと、真剣に考えられるものではないのである。

要介護や要支援の認定が出たあとも、デイサービスやデイケア、宅配弁当のお試しなどいろんなものを「見学」「体験」してみたものの、いまひとつしっくりこないようで、(特に男性の場合は、デイサービスのように、人が集まっているところで過ごすのは苦手のようである)、実際にサービスを利用するようになったのは父が亡くなってからである。

 

現在母は、週2回の半日型デイケアに通っている。

最初は慣れない環境のゆえか休みがちではあったが、顔見知りもでき、それなりに「友達」と呼べる人もできたことで、スムーズに通い始めた。

 

しかし”現状維持”を続けられないのが、高齢者の体調である。

今は半日型のデイケアでおさまっているが、いつなんどき、さらなる介助が必要になるかわからない。

その変化は、ゆるやかなものかもしれないし、ついていけないほど速いものかもしれない。

今回は、その時に慌てないで対応できるようにと、あらかじめ見学しておこうという心積もりである。

 

この度見学したデイケアは、1日型で、集団のリハビリだけでなく、一対一のリハビリが20分間行われる。入浴設備もある。

足のふらつきが気になる母にしてみれば、動機づけもじゅうぶんかもしれない。

施設に着くと、ちょうど「昼休み」の時間帯で、利用者がそれぞれ思い思いにテーブルについて過ごしている。お茶を飲んでいる人、おしゃべりに興じているグループ、4人集まって麻雀をしている人……。

その間に、スタッフから施設の説明を聞く。

どこの施設もそうだが、話だけ聞くととても良さそうである。

福祉といっても、サービス業なのだな、と思う瞬間である。

 

やがて、本日のリクレーション「玉入れ」が始まった。

学校の運動会でよく行われていたあの玉入れである。

もちろんかごの高さはかなり低く調整してある。

場を盛り上げるためか、スタッフの声ばかりが大きく響く。

70歳も80歳も超えて、お仕着せの玉入れのような遊びに、もはや心弾んだりしないだろうな、と思いながら目をやる。

本当は玉入れなんかしたくないけど、手を動かすのはリハビリにもなるというし、せっかくここへ来たのだからしかたない、スタッフさんに協力しよう……と思いながら、言われるままに動いているのかもしれない。

「おれはそんな子供っぽいものは絶対にしない」と主張するかのごとく、椅子に座って黙々と文庫本を読みふけっている男性もいる。

あまりにもスタッフさんたちの声が大きいので、施設説明の声がかき消されて聞こえないこともあった。

 

1時間ほどが経ち、車で自宅まで送っていただくことになった。

要介護度が1にあがったら、1日型のデイケアを追加することができる。

「是非、利用させていただきたいと思います」と、外面のいい母がなんの考えもなく、リップサービスで口走る。

こうした類の言葉をこれまで何度、間に受けたことか。

来週はもう1か所見学予定である。

実際に利用にまでつながればそれに越したことはないが、そうでなくても、こうした見学の折に、母との間にひとり人間がはいって会話をすることで、風通しがよくなり、精神的にぐっと楽になる。

母の要介護度の区分変更のための面談があった。

ケアマネさんの立ち合いのもとである。

あらかじめ、症状や日常生活上で困ったことやエピソードなどをメモにして調査員に渡しておいた。

本人の前ではっきりと口に出して言いづらいこともあるのだ。

あれもできない、これも困っている、と母のあらさがしをしているようで、書きながら暗たんとした。

現在は要支援2だが、これが要介護1となると、利用できるサービスの選択肢が増える。

差し迫った状況ではない、今のうちに変更申請しておくことにこしたことはない。

認定までに、ひと月ほどかかるのだ。

 

父は令和4年12月、要介護1を認定された。

それが昨年の12月に心筋梗塞を発症、その後、入退院を繰り返し、あれよあれよと衰弱が進み、今年3月にはほぼ寝たきりになった。

臨終の日、区分変更の申請書を持ったまま、ケアマネさんが玄関先に立ち尽くしていた姿を思い出す。

それほどに、父の衰弱のスピードが早かったのである。

高齢者は何年も寝たきり、というイメージを持っていたために、意外な展開であった。

今思えば、あれもこれも後手後手にまわった対応だったと後悔もするが、なにもかもあらかじめ予測するのは不可能というもの。

その時々で考えつく限りの、できる範囲の対応を、母もわたしもそしてケアマネ、訪問看護師がたも行ったのではないかとも思う。

何人もの患者を看てきたベテラン看護師でさえ、相手が生身の人間であれば、その都度、新しいケース、初めて出会う症状というものもあるのだろう。

 

面談でのやりとりの結果、どうやら区分変更ができそうな雰囲気となった。

ひとまずほっとするが、これはつまり、認知機能や体力が以前よりも衰えたというお墨付きをいただいたことであり、喜ぶようなことではない。