映画『白鳥とコウモリ』を見に行く。

原作は東野圭吾である。

市民図書館で借りて以来、東野ワールドに少しばかりはまっている。

映画にするか、本で読むか、迷った。

文庫本だと上下巻、かなりのボリュームである。

映画では2時間40分。

本ならば気になるところやわからなかっところを読み返すことができる。

が、映画は一度きり。トリックや伏せん、登場人物の言動を振り返って確認することができない。

しかし結局、映画のほうを選んだ。

上下巻を読破する根気と”目力”に自信がなかったのである。

 

映画は、人と人との関係性の複雑性と意外性に、頭を整理しながらついていくのがやっとであった。それでもあきらめずに集中して筋を追った動機はただひとつ、「真実が知りたい」。

登場するホンモノの「悪」は、殺されることになる不動産屋だけなのだが、彼は正真正銘の被害者でもある。

だから咎めだてされることはない。

ないのだが、そのことにもやもやする。

善悪だけでは割り切れないものが残る。

理不尽でさえある。

それが、いい(人)、悪い(人)を安易に決めることなどできないというこの映画の、そして東野ワールドのメッセージなのだろう。

事実が変わることで、立場もがらりと変わるという恐ろしさと、それでも変わらないもの……。

今田美桜さんはNHKの朝ドラ「あんぱん」のイメージが強く、最後の場面など、ドラマで見たひたむきさを彷彿とするものでもあった。

 

頭がこんがらがりそうになりながらもなんとか理解できたという満足感とともに映画館を出ると、年配の女性が追いかけてきた。

曰く、「映画、見てらっしゃいましたよね」。

「あ、はい。白鳥とコウモリを……」と言うと、彼女、「なんだかよくわからなくて。連れがいれば今のはどうだったの、とか聞きながら見られるからよかったのだけど」とおっしゃる。

どうやら、わたしと同じくおひとりさまで来たらしい。

「本も買ってあるからこれから帰って読んでみるわ」と彼女。

原作の雰囲気はどんな感じなんだろうと気にならないこともないが、すでに種明かしがされているので、再び上下巻の大作に取りくんでみる気力はわたしにはない。

しかし、頭をひねりながらなんとかついていこうとしていたのはわたしだけではなかったのだと思うと、少しホッとした次第である。

実家にもどって約半年。

 

現在は、近所の町内会館で行われている体操教室に月2回、俳句教室に月1回通っている。

これまで関わってきた町内会のイベントといえば、遠くさかのぼって、子供が小さいころのお祭りや運動会のみ。

自分が主体となってご近所さんとつながりを持とうと思ったこともなかった。

ひとりで暮らしているときには、「ずっとここに住むわけでもないし」と、近所に顔見知りをつくろうという意欲もなかった。

職場での人間関係でもうたくさん、と思っていたのかもしれない。

しかし昨年3月に退職して以来、話す相手は主に母親とかかりつけ医、介護関係のスタッフのみ。

介護や医療とは別のつながりを持ちたいと、そしてそれは心の健康のためにも是非必要だと、重い腰をあげたのである。

 

さて本日はその体操教室の日であった。

参加者は元民生委員の女性Aさんを中心に、ほとんどが親世代である。

ひとりぐらしの方もいて、「誰ともしゃべらないで1日終わってしまうから、こういうところに来ているの」とおっしゃる。

90歳台と聞いて、「ええ! ここまで歩いて来られるなんてすごい」と、つい我が母親と比べてしまう。

年のわりに若いとみられていた母も、昨年父を失ってから意気消沈してしまい、一気に老け込んだ。

聞けば彼女たちは毎朝6時半に近くの公園で行われているラジオ体操にも出かけているのだとか。

そのおかげか、ビデオ録画に合わせて動かすからだもしゃんしゃんとスムーズである。

 

Aさんは、さすが元民生委員とあってご近所情報にも詳しい。

わたしが実家にもどったことも、現在の民生委員さん経由でご存知のもよう。

体操の始まる前のひと時、「どうですかあ? 実家に戻られて」と話しを振ってくれるので、つい、愚痴る相手ここに得たりとばかりに、なるべく面白おかしく工夫して、話す。

(どんなふうに話しても愚痴は愚痴であるのだけど)。

「(もの忘れの激しい母に)、つい、さっきも言ったでしょ!」「そうじゃないでしょ!!」ときっつい言い方をしてしまって自己嫌悪に陥る話をする。

するとそこにいらした一同、うなずきつつ、「みんなそうですよねえ」「そういうものよお」「悔いを抱えてしまうのはしかたないのよお」とにこやかに言ってくれる。

みなさん、身内を看取られたことがある世代である。

経験者は優しい。

寛大な笑顔の裏に、いろんな思いや体験が詰まっているのだろうなと思う。

 

帰るころには、なぜか腰の痛みが軽くなっている。

体操の動きだけでなく、この体操前のなにげない雑談にも支えられているのかもしれない。

 

わたしの卒業した小学校の一室を使って市民図書室が開かれている。

公立図書館は家からだとバスに乗らねばならず不便に思っていたところ、この図書室の存在を知ったのである。

開室は土日のみ、返却ポストは置かれていないが、本来の用途は小学校なのだから、しかたがない。

小学校の風景自体、久しぶりである。

卒業してからあまりにも年月が経っているので、「あらあ、懐かしい」と思えるようなものはすでになく。

ごく一般的な学校の風景である。

児童用の下駄箱が並んでいるところから廊下を進み、「市民図書室」という手書きの札を頼りに2階に上がったすぐそこに、貸出手続きを行うスペースが設けられている。

お当番の女性がふたり脇に控えて、初めての人には丁寧に手続きについて説明してくれる。

貸出は、なんと昔懐かし、本の裏表紙に張り付けられたポケットの中のカードに自分の名前と貸出日を書く方法である。

個人情報とのからみで、ずいぶん前からこうした方法はなくなったと思っていたが、未だに健在であった。

 

さて、先週借りたのは、東野圭吾の『容疑者Xの献身』。

ずいぶん前にホテルを舞台にした作品を読んだのだが、わたしには合わず、しばらく遠ざかっていたのだが、このたび東野氏が亡くなり、惜しむ声とともに作品の紹介をしばしば目にするようになり、今一度、読んでみたくなったのである。

さて今回の作品、最後に女性は自首するんだろうな、という想像はついたが、そこにいたるまでの容疑者Xの行動は、本当に予想もつかないものだった。

伏せんに気づかず、説明されても???のことが多いわたしは、推理やサスペンスものが苦手(ついでに言うと、時空間が移動するSFも頭がこんがらがって理解できない)だが、それを差し引いても、じゅうぶん理解でき楽しむことができた。

 

本との出会いは偶然やってくる。

さっそくアマゾンで検索して、すでに文庫本になっている東野さんのほかの作品を2冊購入した。

図書室で借りればいいじゃないかという気もするが、じっくり読みたいと思った本は、やはり自分のものにしたい。

返却日が気になり、つい先を急いだり、読み返すことができないことが多いのだ。

さらに、人気本であればあるほど、多くの人の手を渡ってきたのを物語るかのように、本のそこかしこに、ナゾのシミがついている。

それが気になって作品に没頭できないこともある。

あとで手を洗ったりすることもよくある。

新鮮?なページをめくるあの感触もまた読書の楽しみのひとつなのである。

配達されるのが楽しみである。

母の通うデイサービスには、連絡帳がある。

そこには、主に、家族(キーパーソン)と事業者とのやりとりが書かれている。

その昔、保育園の先生と保護者の間で交わされたノートのようなものである。

本人の体調や、気になること、活動状況などなど。「血圧」なんていう項目は、デイサービスならではだろう。           

  

最近の活動欄には「高校野球観戦」とあった。

こんなのも、デイサービスの活動の一環なのである。

体操や野球観戦はわかりやすいのだが、読んでもイメージしづらいリクレーションもある。

「お手玉投げ」「ゴールを狙え」「布ボール」「カーリング」……その日によって書きかたはさまざまだが、本人曰く、どの競技も、「布でできた座布団ほどの塊を投げ合う」のだとか。

点数の書かれた的がホワイトボードだったり床だったりするだけの違いのようである。

 

ビンゴ大会では、時に景品が出ることもある。

「運がよかった」日には、コメやゼリーを獲得して意気揚々と帰宅してくる。

車で送ってくれるので、持ち重りがするものでも大歓迎なのである。

 

先日、どうしてもイメージできないリクレーションがあった。

その名も「お手玉飛ばし」。説明には、「ビーチボールを叩いてお手玉を上手に飛ばされました」とある。はて?

本人に聞いてもピンとこない。

というより、そんなレクに参加したかどうかさえ記憶のかなた。

 

保育参観や授業参観があるように、介護参観なるものがあったらいいのに。

そうしたら母が日ごろどんなレクレーションに参加して、周りの利用者さんとどんなコミュニケーションをとっているのかがわかるのに。

実費でもいいから、おひるごはんも賞味したい。

先日の高校野球、準決勝。

横浜高校が負けた!

先制点をとった時には安心しながらも、「いやいや1点ぐらじゃまだまだ油断はできない」と、じりじりしながら見るのに耐えきれずにテレビを切った。

しばらくして再びテレビをつけるとなんと1対4!

なってこった。

テレビのスイッチを切る。

諦めずにがんばっている選手や応援団には申し訳ないが、わたしはあきらめが早いのである。というか、長い時間、じりじりやきもきするだけの許容能力が不足しているのである。

 

今はテレビで見なくてもネットで確認できる。

おそるおそるスマホを開いてみると、すでに試合終了。

9回表で無得点。最後まで挽回することはできなかったようだ。

どっと落ち込む

なんで今回はこんなに落ち込むのかというと、織田投手がひそかな「推し」だったから。

推しならば、最後まであきらめずに応援してやれよ、という気もするが、だからこそ、悔し涙を流しながら球場の砂をつめこんだり、残念そうにインタビューに答えたりする姿を見たくないのである。

 

もう彼も高校3年生。大きなお世話だがプロにすすむのだろうか。

ずっと「推し」でいられるかはわからない。

高校生だからこそいいいのよ、ということもある。

シュッと伸びた長身もかっこよく、切れ長の目も勇ましい。

帽子も、かぶったというよりは乗っかったという感じでかわいい。

18歳の男子をつかまえてかわいいというのも失礼かもしれないが、孫ほどの年齢差だもの、それは許してほしい。

そんなわけで、どっと落ち込みはしたが、球児たちの一生懸命さがわたしの生きる励みになったことは確かである。