父の眠る霊園で、合同法要が行われた。

夏の法要の場合は、「御霊祭り」と呼ぶそうだ。

檀家を持たない家が増えた昨今、お盆のこの時期、霊園がお坊さんを招き、みんなまとめて供養してくれるのである。

横着のような気もするが、そういうところ、宗教心はもちろん、こだわりもないので、できるかぎり参列するようにしている。

霊園の最寄駅にあるコーヒーショップのトーストが抜群においしいので、そこでモーニングを食べてから行くのも楽しみなのだ。

当日は、最高気温35度超えの猛暑日予想。

これでは仏花も1日と持たずにしおれるだろう。

霊園の事務所横では、参列者に向けてキンキンに冷えた缶飲料を配っている。

そのそばでは、産地直送の生鮮野菜の販売も。

人が集まるところでは、それをねらった商売が抜け目ない。

 

さて、法要は1日4回の時間制。

わたしが参列するのは11時の部。

時間が来ると、3人のお坊さんがしずしずと会場に入場してきた。

真ん中に座っているのは、防災頭巾のようなものをかぶったベテラン格。

下っ端?のお坊さんふたりがその脇を固めている。

読経も、ひとりで唱えるよりも何人かで唱和するほうが、迫力もあり厳かさが増す。

実家の宗派は一応日蓮宗なので、本来なら南無妙法蓮華経である。

しかしここでは「南無阿弥陀仏」が唱えられている。

宗派を問わない合同法要なのだからしかたがないが、生きている者にとってはかまわなくても、仏にとって居心地が悪くなければいいが、と毎回思う。

 

この法要は、「読み上げ回向」といって、回向料を支払うと、お経の中で仏様のお名前を読み上げてくれる。

施主である母の名前と仏自身(父)の名前が呼ばれるとひとまずホッとする。

あの世なんてどうだかな、と思っていても、とりあえずホッとする。

自分たちのお目当ての名前が呼ばれると、参列者たちがこれで義務を果たしたとばかり、そそくさと席を立って帰っていく。

まだ読経は続いているのに……。

これって失礼ではないのかしら、どうなんだろう、ともやもやする。

お経を読んでいるお坊さんも、これでは張り合いがないのではないかしら。

読経が続く中、ひとりまたひとりと人々が会場を出ていき、おしまいには、まばらとなる。

すべて終わるまで待っていられないくらい、皆さん、忙しいのかしら。

最後まで座っているこちらがなんとなく居心地悪い。

 

帰りに墓参り。

昨年の新盆を思い出す。

あの時も猛暑だったね。

最期には水を飲む力もなかった父のことを思い出して、墓石に水をざぶざぶかけたっけ。

今回はそんな記憶も薄れている。

そうやって死者の記憶から生々しさがなくなっていくのだろう。

段々とお墓からも足が遠のいていくのかな。

家で待つ母のために墓と仏花の写真を撮って、墓をあとにした。

 

家に帰ると、“待ってました”とばかりにケアマネさんがやってきて、介護保険の更新手続き。

更新の場合は調査員ではなく、ケアマネさんが調査を行うことになっている。

話したいことや困っていることをまとめておく猶予もなく始まった今回の調査。

言いたいことはたくさんあるけど、本人(母)の前では言えないこともたくさんある。

つい、愚痴まじりに口走ってしまって、母が気分を害した場面もある。

ケアマネさんと一対一で話せる時間をとってほしかったな。

 

歯茎の痛みによる抜歯から始まって本日、4か月ぶりに歯が埋まった。

部分入れ歯である。

え? 入れ歯ですか。

なんだか一気におばあさんになったような気分である。

歯医者さんに注意事項を聞いて、そのまま帰宅。使ってみて1週間後に再び来院することになった。

道々、舌の先で入れ歯の部分をなでる。

気になってどうしても歯が触れる。

思ったよりも違和感がある。

金属部分がほっぺたの裏側に刺さるような、刺さらないような、微妙な感覚。

詰め物をしたときの違和感とは明らかに異なる。

帰りにドラッグストアによって、部分入れ歯用の洗浄液を買う。

”総入れ歯”の父のために洗浄液を買ったのは、つい最近のことのように思える。

それが今、わたしが自分のためにこのようなものを買っているとは!

レジのところで、「紙袋に入れますか?」と聞かれる。

え、これって傍から見られたくない秘すべきものだったのね、と再び驚く。

そう聞かれたのは、生理用品を購入した時以来のこと、そんなものとはご縁がなくなって早や幾年である。

「飲み込んでしまう危険があるので、寝る前にははずしてくださいね」とは歯科医師のお言葉。

(実際、飲み込んでしまったらどうなるのだろう……)

夜寝る前の、メンドウな作業がひとつ増えました。

母の床屋に付き添う。

年を重ねると髪の毛の伸びるのも遅くなるのか、以前別の床屋で切ってもらったおかっぱ頭のまま、3か月ほどが過ぎた。

母はこの”おかっぱ”が気に入らず、横と後ろに段を入れて、さっぱりとしたいと言う。

それを床屋さんにどう説明するか。

「〇センチほど切ってください」とだけ言うと、きっとまたおかっぱになるだろう。

髪型としてはそうむずかしいわけではないのだが—。

 

店中にはいると、スタッフたちが威勢のいい声で出迎えてくれる。

平日の午前中である。

男性客の多いこの店のこと、空いている時間帯である。

高齢の男性が2,3人いるきりである。

すぐに順番がまわってくる。

わたしがしゃしゃり出て説明する。

「今、おかっぱになっているんですけど、横と後ろに段を入れて髪の毛の量を少なく。男の人みたいに、というか、ええっと、そう、高市早苗さんみたいに」と口走る。

すると担当スタッフがにこりともせず、本当にごく普通に、「ああ、そうすると割とさっぱりと切ってしまっていいんですね」と答えてくれる。

今や、彼女の顔立ち、髪型を知らない人はいないだろう。

芸能人だと、世代によって、知っている人知らない人が分かれるが、総理大臣だもの。

とりあえず通じたことにホッとして、付添人の席に戻る。

(内心はどう思ったかわからないが)、普通の反応をしてくれたことに、安堵と拍子抜けの両方の気分である。

 

カットしてもらいながら、母とスタッフが雑談しているのが聞こえてくる。

スタッフが、「3か月もつ髪型に切ってくれと言われると困っちゃいますよねえ。一週間おなかの空かない料理を作ってくれと言われているのと同じですよ」と笑いながら言っている。

母がそんな髪型を要望したのか、冗談にしても、とんでもないことを言いだしているのではないかと、ヒヤヒヤする。

 

30分ほどたった。

スタッフに呼ばれて曰く、「こんな感じでどうでしょう。あまりてっぺんを切らない方がいいと思うんですよ」。

高市総理の、キリっとしまりのある顔つきを思い浮かべていたために、その落差にちょっとうろたえるが、考えてみれば顔立ちも年齢も違うのである。

母は88才。髪の毛も白髪交じりで薄毛である。

彼女と同じ雰囲気の仕上がりを期待するのが、そもそも間違っている。

ともかく、おかっぱ頭からは卒業できたようである。

「ありがとうございましたあ!」と再び威勢のいい声に見送られて店を出た。

あとでスタッフの間で、「タカイチサナエだってよ」などと噂になっていないかと少々気になっている。

 

母のデイサービスも習慣となってまわりはじめた。

昨年から、半日のデイケアに始まり1日コースのデイケア、そして現在のデイサービスにつながって4か月になる。

週4日である。

午前中は入浴と、ご近所の花屋さんまでの散歩。

お昼ごはんをはさんでリクレーション、おやつの時間、そして帰宅となる。

 

さて、午後のリクレーションでは、トランプやぬり絵、イベントの飾りつけ創作などがある。

そのトランプだが、あまり複雑なものはやらないらしく、皆さんが子供のころに馴染んだ神経衰弱や、七並べ、ババ抜きなどをその日の気分でやっているらしい。

ババ抜きにいたっては、名称の「ババ」という言葉が身につまされるらしく、誰からともなく「ババ抜きではなく、ジジ抜きと呼びましょうよ」という提案があり、現在ここのデイサービスでは、「ジジ抜き」と呼んでいるとか。

男性陣は麻雀をやっており、トランプグループに加わっていないために、苦情は出ていないもよう。

ジョーカーをなぜ「ババ」と呼ぶようになったのだろう。

それはともかく、この名称変更によって、ひそかに「トランプやりたいなあ」と思っている男性にとって、敷居が高くなったのはまちがいない。

 

隣の駅のパン屋さんで朝食を摂っていた時のことだ。

隣のふたり席に高齢の男性と、わたしと同じぐらいの年恰好の女性が座った。

父娘だろうか。

娘(らしきかた)の方は、モーニングセット+菓子パンを。高齢男性も菓子パンを注文。

耳にはいってきた彼らの会話を聞くともなく聞いていると、「よかったね。ケアマネさんが決まって」とか、以前母が通っていた老健の名称、最近できたばかりのデイサービスのお名前などが出てくる。

どうもわたしとはご近所さんらしい。

聞くところによると、その高齢男性が最近、要介護認定(要支援かもしれない。足取りもしっかりしていたから)を受け、デイサービスに通うことになったようだ。

このテの情報に反応しやすくなっているわたしは(不謹慎ながらも)、積極的に耳を傾ける。

が、なにぶん父と娘である。

会話もぽつりぽつりと途切れがち。

沈黙を埋めるように、手元のパンをかじったり飲み物を飲んだりと、話もはずまない。

弾丸のように次から次へと言葉が飛び出す母親と娘の会話とはここが違う。

娘のほうは丁寧語なぞ使って、お父さんとは距離感もあるようだ。

お父さんもどこか遠慮がちに、携帯電話のことなどを話している。

そういえばわたしの父も娘と相対すると、かなり遠慮がちだったな、と思う。

どこの親子も雰囲気はおなじなんだな、と感心もする。

 

彼らの会話を聞いているうちに、「で、どこのデイサービスなの?」「地域包括はどこ?」「介護者のつどいって知ってます?」だのと話し掛けたい衝動に駆られる。(もちろんそんなことはできない。彼女たちだって会話に加わってなんてほしくないだろうし)。

 

その後、わたしのほうが先に席を立ち、近くのスーパーで買いものをして電車に乗ると、同じ車両に先ほどの父娘の姿が。

そして自転車こいで坂道を上っている途中に、父親と別れて歩く娘さんの姿。

手には、仏花を持っている。

そういえば先ほど、お母さんの(お供えの)花をどこで買うか話していた。

ああ、お母さまを亡くされたのね、と思う。

母を亡くしても、パンを食べて、花を買って、これからも生きていかなくてはいけないのだな、と思う。切実に思う。

 

こういう御縁とも言えない偶然は、再び同じようなめぐりあわせでやってくるかもしれない。