地域包括支援センター主催の「介護者のつどい」に参加する。
ほぼ1年ぶりである。
前回参加したのは令和6年11月。
昨年のその日は、宅食弁当の”お味見”に参加したりして、今思えば、とても暢気だったなあと思う。
それが12月、父の入院によって一転、病院やケアマネさんとの連絡、訪問看護師さんとの連絡調整などで、実家と職場、自分の家を行ったり来たりの綱渡り、実に不穏な状況になった。
入退院を繰り返すたびに元の病気は癒えるのだが、体力が階段を降りるように落ちていき、介護度の区分変更さえ間に合わないほど、父の衰弱のスピードは速かった。
病気は治せても、年令は治せない、と何度つぶやいたことだろうか。
そして父はある朝、発熱をきっかけにあっという間に亡くなり、あとには母がひとり残された。
父の喪失を消化できないうちに、次なる(母の)喪失が待ち構えているようで、以来、その無力感と恐怖心が心を離れたことはない。心境や背景がガラッと変化したのである。
そんな不安を感じながらじいっと引きこもっているよりは、と今回つどいに参加した次第である。
人としゃべると、気分がほぐれたり、慰められたり、孤立感が薄まったりと、その効用は、訪問看護師さんが家に来てくれた時に経験済みである。
司会担当のファシリティターさんは4月に転勤されており、今年度から男性の主任ケアマネさんと、女性ケアマネさんが担当である。
参加者がひとりずつ順番に、介護にまつわる近況や悩みを話す。
顔見知りの参加者Yさんも、わたしの父と同じ時期に、認知症の奥様を亡くされていた。
集まりが集まりだけに、こうした話題や環境の変化は避けて通れない。
「死」はここでは身近でありふれている話題だが、そうかといって悲しみが深くないわけではない。
Yさんは以前お会いした時は、デイケアを利用しながら一日一キロ歩くんですよ、と明るく話していた。
脊柱管狭窄症の手術をした後とは思えないほどの元気さだった。
それが今回、同一人物と思えないほどお年を召された感じがして、奥様が亡くなってずいぶん力を落とされたのだと思う。
母も父亡きあと、「長く生き過ぎた」「この人もあの人も死んでしもうた」と、聞いているだけでこちらも深い穴の底にいっしょにひきずりこまれるような発言が増えた。
配偶者の死は(わたしにはわからないが)、かかりつけの脳神経医いわく、「自分の身を半分もぎ取られるような」ものらしい。
わたしの話す番が来た。
ふだん人見知り傾向があるが、聞いて欲しいことがもりだくさんだと、そんなことはどこ吹く風、この半年にあったことをなるべく系統だてて次々と話す。
実家の母と精神的な距離がとれない話はいつものこと。
それに加えて、父の最期に対する後悔の話をする。
水分を一滴も飲まないのを見るに見かねて点滴を頼んだのは、よかったのかどうか。
水を利用する力がない人にとっての点滴は、本人にとっては溺れるほどの苦しさだと聞いたことがあるのに、という話をした。
すると、主任ケアマネ氏が、「必要以上に点滴をしても、皮下点滴の場合は中にはいっていかずに漏れるので、害にはならないです。それよりも、水を飲まない状況を見かねて点滴を頼んだのはあたりまえのことです」と言ってくださった。
そして、ケアマネとして、どんな選択をしたとしても、いつも後悔だらけだとも。
こちらの行為に正当性を与えてくださり、最期の処置について、悔いが少しだけ減った。
言葉の力は強い。
母との距離感については、介護者が機嫌よく元気でないと、介護される側もつらくなる。
同居していても、24時間見張っているわけにはいかないんですよ、と。
そのためにも、我々介護サービスをどんどん利用してくださいと言われた。
余りに力をこめておっしゃるので、力づけられるのを飛び越えて、引いてしまったが、そうか、わたしはわたしの”ちょうどいい”、を探しながら介護に関わっていけばいいんだ、と応援されたような気がした。
やはり困っていたり、悩んでいたりする時には、言葉に出して日に当てることが大事だわ、と思いながら帰ってきた次第である。