映画『spirit world』を見に行く。

まちゃあき(堺正章)、竹野内豊、カトリーヌ・ドヌーブという不思議な組み合わせのキャスティングである。

そして、まちゃあきとカトリーヌは成仏できない幽霊として、まちゃあきの息子(竹野内)を見守る旅に出る。

死後の世界では、言語や国籍の違いも関係ないのが、ここでは不自然ではない。

酔っぱらってふらふらと海にはいった竹野内豊の霊魂が一瞬体を抜け出て、自分を見守っていてくれた父親の存在に気づいた時の驚きの表情が印象に残る。

そして、「死んではだめ」と竹野内くんをしっかり抱き寄せて「生」の世界に連れ戻したことが、娘を海の事故から救えなかったカトリーヌを成仏させるきっかけにもなった。

まちゃあきも、息子が別れた母親の家族に心を開くのを見届けて、役目を終えあの世に戻っていく。

 

亡くなった人が自分を心配して、そばにいてくれたらいいなあ、と思わせるようなストーリーだった。しかし姿が見えないっていうのは、もどかしい。そうかといって、姿が見えても、役割を終えて成仏し、死の世界に帰ってしまったら、実際に死んだ時と合わせて2度別れなくてはならないようでせつないだろう。

 

竹野内豊さんは、NHKの連ドラ『あんぱん』では、味のあるセリフで渋いお父さん役を、『BOSS』では、天海祐希とわたり合うバディとして、いい味出してるわあ、と今回も期待して見に行った。

カトリーヌさんも、82歳とはいえ、歌声がハスキーがかって深みがあり、とても素敵だった。

近所のパン屋さんでの話。

ここでは焼きたてのパンと、飲み物がいただける。お気に入りの店である。

ある朝、レジのところで年配の男性が店員さんともめていた。

購入金額によって押してもらえる「ポイント」をめぐる苦情のようだ。

つまり、ポイントがカードに押されていなかったもよう。

しばらくの間、押し問答がされていたが、そのうち男性が自分の勘違いに気が付いた。

300円ごとに押されるのに、そもそも金額が足りていなかったのである。

気づくとあっさりと男性は持論を引っ込め、それまでの声は急に小さくなり、なんとなく照れくさそうにもじもじと席にもどって行った。

聞くともなく聞いていたこちらも、なんとなく居心地が悪くなった。

間違いに気づいて、すぐに引いたのだから問題はない。

強引に押させたわけでもないのだからカスハラでもない。

それなのに、なんとなくいたたまれない。

違和感とか、哀れみとか、得も言われぬ感情が残ったのは確かである。

それをなんと言うか。

男女差別とか、偏見とかいうにはあまりにも些細なこだわりではある。

が、どうやらわたしの中に、「いいなりをした男性が、ポイントごときに、ガタガタ言ってほしくない」という思いがあったらしい。

ポイントひとつにあれこれ文句をつけるのは、わたしたちおばちゃんの”特権”でなければならないのである。

現在母の通うデイサービスは週3日。

リハビリ特化型の半日コース、食事つき。

「同じところに3回も通う必要があるのかねえ」という母の言い分を聞き、「確かにそのとおりだわ」と思い立ち、近辺のデイサービスを探し始めた。

足元のおぼつかなくなった今、希望は入浴サービスのある一日コース。

できればリクレーションの時間に、得意な手芸ができればいい。

以前は、たとえ入浴とはいえ、他人に裸を見られるのはあまり気が進まないようだったが、最近では、そんなことも言っていられなくなったようだ。

週一回でも、さっぱりと温かい湯につかりたいと考え始めたようだ。

 

今はネットがあるからサービスを探すのも簡単である。

であるからこそ、近辺だけでも次から次へと同じようなサービスをうたう施設が見つかってしまい、いったい何を基準に見学申し込みをしたらいいのか、さっぱりわからなくなる。

園芸療法だの、おやつづくりだの、歌唱だのと、それぞれに工夫をこらしているところもあるが、場の雰囲気が本人に合わなければどうしようもない。

 

息子の保育園を選ぶときは、昔わたしが通った幼稚園舎によく似た古めかしい建物だったというそれだけの理由で、すぐに決めた。

それでまずまずの選択だったと思う。

なぜ今回はこんなに迷うのかというと、おそらくここが、母の最終章に近い場所のひとつになるだろうと思うから。

そう思うとどうしても気負ってしまう。

特に、わたしの選択が父の命に関わると感じて過ごした記憶が生々しいものだから、どこか気を抜けないのである。

よく考えてみれば、これは母のためというよりも、自分のためである。

あとで自分が後悔したり、あと味の悪い思いをしたくないから。

こちらの都合なのである。

 

見学ひとつとっても、「送迎付き」と「付かない」事業所と2種類ある。

送迎が付かないところは、人手が足りないからか、それとも契約をするかどうかわからないのに、そこまでサービスをする必要などないと思っているからか、はたまた、そこまでしなくても来てくれるという自信があるからなのか???

とりあえず、来週一か所、見学先を予約した。

「行くかどうかもわからないのに、わざわざ見学するのもねえ」と気ノリのしない母本人の気持ちが置き去りになっている。

父の看護の時もそうだったが、いっつもわたしは先走っている。

地域包括支援センター主催の「介護者のつどい」に参加する。

ほぼ1年ぶりである。

前回参加したのは令和6年11月。

昨年のその日は、宅食弁当の”お味見”に参加したりして、今思えば、とても暢気だったなあと思う。

それが12月、父の入院によって一転、病院やケアマネさんとの連絡、訪問看護師さんとの連絡調整などで、実家と職場、自分の家を行ったり来たりの綱渡り、実に不穏な状況になった。

入退院を繰り返すたびに元の病気は癒えるのだが、体力が階段を降りるように落ちていき、介護度の区分変更さえ間に合わないほど、父の衰弱のスピードは速かった。

病気は治せても、年令は治せない、と何度つぶやいたことだろうか。

そして父はある朝、発熱をきっかけにあっという間に亡くなり、あとには母がひとり残された。

父の喪失を消化できないうちに、次なる(母の)喪失が待ち構えているようで、以来、その無力感と恐怖心が心を離れたことはない。心境や背景がガラッと変化したのである。

そんな不安を感じながらじいっと引きこもっているよりは、と今回つどいに参加した次第である。

人としゃべると、気分がほぐれたり、慰められたり、孤立感が薄まったりと、その効用は、訪問看護師さんが家に来てくれた時に経験済みである。

 

司会担当のファシリティターさんは4月に転勤されており、今年度から男性の主任ケアマネさんと、女性ケアマネさんが担当である。

参加者がひとりずつ順番に、介護にまつわる近況や悩みを話す。

顔見知りの参加者Yさんも、わたしの父と同じ時期に、認知症の奥様を亡くされていた。

集まりが集まりだけに、こうした話題や環境の変化は避けて通れない。

「死」はここでは身近でありふれている話題だが、そうかといって悲しみが深くないわけではない。

Yさんは以前お会いした時は、デイケアを利用しながら一日一キロ歩くんですよ、と明るく話していた。

脊柱管狭窄症の手術をした後とは思えないほどの元気さだった。

それが今回、同一人物と思えないほどお年を召された感じがして、奥様が亡くなってずいぶん力を落とされたのだと思う。

母も父亡きあと、「長く生き過ぎた」「この人もあの人も死んでしもうた」と、聞いているだけでこちらも深い穴の底にいっしょにひきずりこまれるような発言が増えた。

配偶者の死は(わたしにはわからないが)、かかりつけの脳神経医いわく、「自分の身を半分もぎ取られるような」ものらしい。

 

わたしの話す番が来た。

ふだん人見知り傾向があるが、聞いて欲しいことがもりだくさんだと、そんなことはどこ吹く風、この半年にあったことをなるべく系統だてて次々と話す。

実家の母と精神的な距離がとれない話はいつものこと。

それに加えて、父の最期に対する後悔の話をする。

水分を一滴も飲まないのを見るに見かねて点滴を頼んだのは、よかったのかどうか。

水を利用する力がない人にとっての点滴は、本人にとっては溺れるほどの苦しさだと聞いたことがあるのに、という話をした。

すると、主任ケアマネ氏が、「必要以上に点滴をしても、皮下点滴の場合は中にはいっていかずに漏れるので、害にはならないです。それよりも、水を飲まない状況を見かねて点滴を頼んだのはあたりまえのことです」と言ってくださった。

そして、ケアマネとして、どんな選択をしたとしても、いつも後悔だらけだとも。

こちらの行為に正当性を与えてくださり、最期の処置について、悔いが少しだけ減った。

言葉の力は強い。

母との距離感については、介護者が機嫌よく元気でないと、介護される側もつらくなる。

同居していても、24時間見張っているわけにはいかないんですよ、と。

そのためにも、我々介護サービスをどんどん利用してくださいと言われた。

余りに力をこめておっしゃるので、力づけられるのを飛び越えて、引いてしまったが、そうか、わたしはわたしの”ちょうどいい”、を探しながら介護に関わっていけばいいんだ、と応援されたような気がした。

やはり困っていたり、悩んでいたりする時には、言葉に出して日に当てることが大事だわ、と思いながら帰ってきた次第である。

 

腰痛治療のために、神経根ブロック注射💉を打ちに行く。

痛みの多くは〝気のせい〟ともいうがそう言われて治るものでもない。

内服も試したが眠気だけが増強し、お陰で不眠症には効果があったが、本来の目的とは大きくずれている。

そこで思いきって注射治療をお願いしたのである。

実は注射は2回目である。

前回6月は、麻酔薬アレルギーを警戒して炎症を止めるステロイドだけをお願いしたところ、効き目は「当日」だけ。

それに懲りて、今回は痛み止めも追加することにした。

場所は徒歩数分の、近所の共済病院である。当日は朝から落ちつかない。

定刻1時の少し前に着いて、血圧を測る。

上が83、下が59。低いのはいつものこと。

やがて整形外科外来から担当看護師がやってきた。

血圧を見て「ご飯、ちゃんと食べてきましたあ?  え~どうしようかな~どうしようかな~。血圧低いですよね~」と動揺している。いつもこの程度だと説明しても、「付き添いさんがいないと、いくら家が近くても帰りがけに倒れちゃうかもしれないし~」と、不安がぬぐえないようである。

わたしが「そしたら通行人に頼るしかないですよね」と、さもなんでもないふうに答える。

心配や不安を和らげるのが看護師の役割なのに、すっかり逆転している。

この期に及んでの中止はカンベンしてほしい。

もう一度測ると、上が92に上がっていたのでようやく彼女も納得して(逆にわたしの緊張感が増したのかもしれないが)、検査室までの道順を案内してくれる。

方向音痴のわたしとしては、無事に部屋にたどり着けるかのほうが気がかりである。

病院の通路はどこもフクザツでわかりづらい。病棟を継ぎ足し継ぎ足ししているのでなおさらである。

院内表示をたよりに無事、検査室にたどり着くと、3、4人の〝お注射仲間〟が待機している。

受付先着順にまずわたしの名前が呼ばれる。

前回は大して痛くなかったが、やはり緊張する。

大腸内視鏡であれなんであれ、わたしは痛がりなんである。

うつぶせになり、背中と臀部がむき出しになる。

ふたりのスタッフが代わる代わる自己紹介がてら顔をのぞきこむ。

診察室の医師は愛想がなくて怖いことが多いが、検査室のスタッフはありがたいことに親切である。

「ビリビリと雷が落ちるようなしびれが走ったら教えてください」とスタッフ。

落雷にあったことはないが、その時がくればわかるのだろう。

針が背中にはいっていく。ビリビリが一向にやって来ないままに、圧迫痛だけが強く深くなってくる。

彼らスタッフが「まだ来ませんか」と不思議そうに聞く。そう問われると、申し訳ないような、ひょっとして注射を場所を間違っているのではないかという気持ちが交錯する。

……と思ったとたん、ビリビリビリーっとまぎれもない電流が下半身を走った。

「来ました!」とわたし。

「来ましたか」とスタッフ。

雷に打たれたことはなくても、すぐにそれと実感できる衝撃。ふくらはぎまでピクピクしている。

傷みの場所が特定できたところで、まだまだ作業は終わらない。これからが痛み止めと炎症止めの注入という治療段階である。

これがまた痛い。

「イタタタタタ」と絶叫する。

前回の数十倍痛いです、と伝えると、今回は薬が効いたということですよ、とおっしゃる。

やはり炎症止めだけでは意味がなかったということか。

車椅子に乗せられて外来のベッドで少し休み、右足に力がはいらないなりに、踏ん張って歩いて帰った。

腰痛は今後いかに?

痛かった甲斐があったと思いたい。


さて、9時からはテレビドラマ『緊急取調室』新シーズンの始まりである。

12月の劇場版に先立つ放送である。

年を重ねても美しくかっこいい天海祐希さま💛

見ている間は少なくとも、腰のことを忘れていられた。